月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・ 坂井市三国町 

 坂井市は平成18年3月20日、三国町、丸岡町、春江町、坂井町の4町が合併して誕生した新しい市。東尋坊をはじめ現存する天守閣の中では日本最古の丸岡城天守閣、冬の越前カニなど観光資源の豊富な市となった。近くの芦原温泉と合わせて、観光客の多いところである。


 
みくに龍翔館  放送 7月3日(月)
 三国の地名は日本書紀に継体天皇の出身地として登場する。古代から近世に至るまで、日本有数の港町として繁栄した三国の歴史と文化のすべてを知ることができるのが、郷土資料館の「みくに龍翔(りゅうしょう)館」である。
 三国の市街地が一望できる高台に建つ五層八角のユニークなデザインの建物は、明治12年(1879)にオランダ人土木技師のG・A・エッセルの設計で建てられた、龍翔小学校(明治12年〜大正3年)の外観を忠実に復元したもので、町のシンボル的存在となっている。

みくに龍翔館

(写真は みくに龍翔館)

エッセル

 みくに龍翔館1階には江戸時代に活躍した北前船の5分の1の模型を中心に北前船に関係する資料を展示、当時の三国湊のにぎわいを再現している。東尋坊など三国町の自然や景観、古代の三国を知る銅鐸など、旧石器時代から弥生時代にかけての出土品を展示しているほか、勇壮な武者人形を乗せた三国祭の山車が館内に華やかさを加えている。
 2階には三国町の町家の様子や「文学の町・三国」に関係があった作家・高見順や三好達治らの遺品などが展示されている。

(写真は エッセル)

 龍翔小学校を設計したエッセルは、だまし絵で知られる画家のM・C・エッシャーの父で、九頭竜川河口から突き出た三国港突堤の建造にも深く関わった。
 龍翔小学校はこのユニークなデザインで有名になり、北前船交易の繁栄を象徴する建物として、町民から長く愛されてきた。大正3年の台風で傾斜したため、競売されて解体された。龍翔小学校の当時の門柱が、現在、三国南小学校に残っており「業精于勤 行成于思(業は勤るに精しく 行いは思うに成る)」の刻銘がある。

三国港突堤

(写真は 三国港突堤)


 
湊町残照  放送 7月4日(火)
 8世紀の奈良時代には朝鮮半島・高句麗の船などが訪れることもあった三国湊は、江戸時代は福井藩の外港として北前船など多くの船が出入りして繁栄を極めていた。
 明治30年(1897)の鉄道開通以降は商港としての役割は薄れ、漁港に変わって行くが、町には商いの繁栄をしのばせる建物がいくつも残っている。今も三国港に残る突堤は、龍翔小学校を設計したオランダ人土木技師のG・A・エッセルが設計、築造を指導した日本初の近代的突堤で、宮城県の野蒜(のびる)港、熊本県の三角港とともに明治三大築港と称され、いずれも国の重要文化財に指定されている。

三国湊蔵並模型(みくに龍翔館)

(写真は 三国湊蔵並模型(みくに龍翔館))

旧岸名家

 旧岸名家は代々材木商を営んでいた岸名家の町家を大正2、3年ごろの様子に復元して一般公開している。主屋は正面が平入り、奥が妻入りになっている「かぐら建て」と呼ばれる建築形式が特徴的。玄関から店、帳場、座敷がと続き、笏谷石の通路をはさんで台所、井戸、洗い場、風呂、便所と続く三国の町家造りの代表的建築物である。
 旧岸名家があるあたりは船問屋などが軒を連ね、三国湊の商業の中心地だった。三国の商人の中には文化人もいて、岸名家の先祖には松尾芭蕉の高弟・支考と交流を深めた岸名昨嚢がおり、これらの資料も展示されている。

(写真は 旧岸名家)

 旧森田銀行は明治7年(1874)に創業した銀行で、大正9年(1920)に新築された本店(国・登録有形文化財)の建物は、県内に残る最古の鉄筋コンクリート建築。外観は西欧の古典的なデザインで、内部は豪華で見事な漆喰装飾が天井などに施されており、建築当時そのままに復元保存されている。
 森田銀行は昭和5年(1930)福井銀行と合併し、旧本店の建物は最近まで福井銀行三国支店として営業していた。平成6年(1994)旧三国町の所有となり、復元、修復工事をして一般公開するとともに、オープンギャラリーとしてさまざなな催し物に利用されている。

旧森田銀行本店

(写真は 旧森田銀行本店)


 
出村の通り  放送 7月5日(水)
 人と物が出入りする港町の繁栄によって、三国の九頭竜川の河口付近には土蔵が建ち並び、細長くのびる町の目抜き通りには、今も当時の船問屋、油問屋などの商家が点在している。大勢の人が出入りすれば、おのずと歓楽街が形成されてにぎわうのは古今東西、いずこも同じである。
 出村(でむら)の遊廓「三国傾城」の名は全国的に知られ、江戸時代中ごろの寛成年間(1789〜1801)には、遊女100人を超えたと言う記録がある。その遊女の中には俳諧の世界で名高い哥川(かせん)のように相当な教養を身につけた女性もいた。

近藤古美術館

(写真は 近藤古美術店)

魚志楼

 出村の通りには江戸時代からの町家があちこちに残っている。そのひとつ、近藤古美術店は江戸時代の寛政年間(1789〜1801)に開業した商店。昭和初めに日本専売公社ができるまでは、煙草元売捌所(たばこもとうりさばきしょ)として、全国から集められた煙草を、福井県北部へ一手に卸し、ほかに北前船の船具なども取り扱っていた。店先には煙草元売捌所の看板や店内には当時の煙草の価格表が残っている。
 今は当主の趣味がこうじて古美術店に衣替えして、伊万里焼、九谷焼や古い箪笥(たんす)、古民芸品などを扱っている。蔵を改造した資料館には珍しい時代箪笥や船箪笥などが展示されている。見学は予約が必要。

(写真は 魚志楼)

 ひなびた感じの残る現在の出村の町で、格子窓がある大正時代の風情を見せている料理茶屋「魚志楼(うおしろう)」は、かつては芸者置屋だった。間口は狭いが奥行きは深く、他の客に気兼ねなく楽しめる蔵座敷の造りになっている。
 各室の凝った調度、装飾にうならされる。昔、芸者さんが着ていた着物も飾られ、何となく艶めかしさも残っており、かつてのにぎわいはさぞやと思わせる。今は日本海で捕れる新鮮な魚を素材にした季節の料理が自慢。特に冬の越前カニの季節は大勢の客でにぎわう。

和定食(魚志楼)

(写真は 和定食(魚志楼))


 
瀧谷寺  放送 7月6日(木)
 老杉や老樹におおわれて昼でも暗い石畳の長い参道を進むと、深山の趣さえ漂う瀧谷寺(たきだんじ)がある。古社寺の多い三国町でも最古の寺院。参道の敷き石は福井市内で採掘された笏谷石で、雨に濡れると青みを帯びる。
 参道にある鐘楼門は柴田勝家寄進の山門で、二層の2階部分が鐘楼になっている。この瀧谷寺は南北朝時代の永和元年(1375)紀州根来寺の学頭、睿憲(えいけん)上人によって創建され、以後、朝倉、柴田、松平氏など歴代領主の祈願所として栄えた。

鐘楼門

(写真は 鐘楼門)

本尊 薬師如来

 睿憲上人は中国に渡ろうとしたが、玄界灘で船が難破し、越前の崎浦の浜に漂着した。この地に一宇を建てたのが瀧谷寺の起こりで、ここに「瀧谷寺跡」と伝えられる旧地がある。
 上人はこの地の神社に参籠中、「宝珠の留まるところが有縁の地なり」の霊夢に導かれ、現在の瀧谷寺境内にある龍泉の池のほとりで宝珠を見つけ、ここに伽藍(がらん)を建立した。これが「摩尼の宝珠」と呼ばれ、今も寺宝として伝えられていて、山号・摩尼宝山の由来となっている。当時、この地の流れる渓流はあちこちで滝が流れ落ちており、この景観から寺号の瀧谷寺が名付けられた。

(写真は 本尊 薬師如来)

 境内には国の重要文化財の鎮守堂や観音堂、開山堂など貴重な建物が建ち並び、宝物館には仏教の楽器のひとつである国宝の金銅毛彫宝相華文磬(こんどうけぼりほうそうげもんけい)をはじめ、多くの国宝、重要文化財などが所蔵、展示されている。
 本尊の薬師如来像を祀る本堂裏の庭園は、起伏に富んだ自然と自然石の斜面を生かし、松やツツジのほかに銘石、石灯籠が巧みに配された名庭園(国・名勝)。一方、観音堂の正面の9つの石を心字型に配した石庭は、観音様の慈悲の心を現している。

名勝庭園

(写真は 名勝庭園)


 
東尋坊  放送 7月7日(金)
 断崖絶壁が続く東尋坊は国の天然記念物に指定され、福井県を代表する名勝として、毎日大勢の観光客が訪れる。海中深くからそそり立つ断崖絶壁が屏風のように、1kmにわたって続く海食景観で、輝石安山岩の柱状節理は地質学的に珍しいもの。日本では唯一東尋坊だけに見られ、世界では3例しかないと言う。柱状節理はマグマが冷えて固まる時に柱状に割れ目ができるもので、火山国の日本には各地で見られるが、輝石安山岩のものはない。
 遊覧船で巡るとローソク岩、ライオン岩、千畳敷などと名付けられた奇岩、奇礁が連なる自然の造形美が、次々と眼前に現れる。

東尋坊

(写真は 東尋坊)

東尋坊観光遊覧船

 池と呼ばれる大小の入り江が8カ所あり、最も大きな奥行40mの大池へ奥深く船で乗り入れると、そそり立つ50mもの断崖を真下から見上げる形になり、その迫力に圧倒されてしまう。このように東尋坊遊覧船で海上から眺めると、陸上からの眺めとは異なった迫力で東尋坊が迫ってくる。また逆にビルの8〜9階に相当する断崖の上に立って、波が打ち寄せる海面を見下ろすと、さすがに足がすくむ。
 三国港から東尋坊に至る荒磯遊歩道には、三国ゆかりの高見順、三好達治、高浜虚子らの文学碑が立ち並んでおり、これらの文学碑と荒磯の岩と海の風景を眺めながら歩くのも趣がある。

(写真は 東尋坊観光遊覧船)

 東尋坊の名は、1300年前の悪名高い僧兵の名に由来するとの伝説がある。
勝山市にあった平泉寺は多くの僧兵を抱えていたが、近郷の民、百姓を苦しめる悪僧兵たちがおり、その悪僧兵の旗頭とも言えるのが東尋坊だった。
 手を焼いていた寺は何とか追い出そうと寺侍の真柄覚念に頼んだ。覚念は東尋坊を三国見物に誘い、酒盛りをして東尋坊を前後不覚に酔いつぶし、断崖から海に突き落とした。突き落とされた命日になると海が荒れたので、僧侶が絶壁の上で東尋坊の供養をしたところ海が荒れるのが収まり、この海岸を東尋坊と呼ぶようになった。

夕景

(写真は 夕景)


◇あ    し◇
みくに龍翔館えちぜん鉄道三国芦原線三国駅下車徒歩10分。 
旧岸名家えちぜん鉄道三国芦原線三国駅下車徒歩15分。 
旧森田銀行本店、近藤古美術店、  料理茶屋・魚志楼えちぜん鉄道三国芦原線三国駅下車徒歩10分。
瀧谷寺えちぜん鉄道三国芦原線三国駅下車徒歩7分。  
東尋坊えちぜん鉄道三国芦原線三国駅からバスで
東尋坊下車徒歩1分。
◇問い合わせ先◇
三国町観光協会0776−82−5515 
三国町教育委員会文化課0776−82−7200 
みくに龍翔館0776−82−5666 
旧岸名家0776−82−0947 
旧森田銀行本店0776−82−0299 
近藤古美術店0776−82−0098 
料理茶屋・魚志楼0776−82−0141 
瀧谷寺0776−82−0216 
東尋坊観光遊覧船0776−81−3808 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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