月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和泉市

 和泉市やその周辺は古くから人が住み着いていた。約1万年前の旧石器時代の遺物が出土したり、日本でも有数の弥生時代の遺跡・池上曽根遺跡、豪族の割拠を示す大小の古墳、古社寺、熊野詣の王子跡など、史跡や文化財の多い所である。


 
青年空海修行の場 放送 7月17日(月)
 槙尾山の山中にある西国三十三カ所第4番札所・施福寺は、俗に槇尾寺とも呼ばれており、1450年ほど前の昔、欽明天皇の勅願によって行満上人によって開かれた。
 槇尾寺の呼び名は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、書写した法華経1部8巻28品を葛城の峰々に安置し、最後の巻尾をこの地の如法峯に納めたことから「巻(まき)の尾(お)」と呼ばれ、これが槙尾に変化した。以来、修験道の道場として発展、行基菩薩も飛鳥時代末の慶雲3年(706)に槙尾山に登り修行している。

弘法大師像

(写真は 弘法大師像)

愛染明王(愛染堂)

 修験道の道場だけに山麓からの参道は、西国三十三カ所観音霊場巡りの中でも屈指の難所で、観音八丁と呼ばれる約1kmの道中で、聞こえてくるのは鳥の声と参道脇のせせらぎだけである。
 役行者、行基が修行したこの地に、延暦12年(793)若き日の弘法大師・空海が入り、奈良の大安寺の高僧で施福寺の住職となった勧操(ごんそう)大徳が戒師となって剃髪、得度して仏門に入った。この時、空海は20歳であった。

(写真は 愛染明王(愛染堂))

 空海が剃髪した場所は現在、愛染堂が建ち、この堂内には愛染明王像のほかに勧操大徳像、弘法大師像が安置され、御髪堂には剃髪した空海の髪が納められている。施福寺の近くには空海が捨身の修行したと伝えられる捨身嶽があり、境内には姿見の井戸、知恵水、音無川、灯明松など、空海に関わる遺跡がある。
 その後、中国・唐に留学し、帰朝した空海は京へ上る前の2年間、再び施福寺に入って真言宗を開くための思索を練ったと言われる。

弘法大師御髪堂

(写真は 弘法大師御髪堂)


 
西国三十三カ所第4番札所
・施福寺
放送 7月18日(火)
 標高601mの槙尾山の山頂近くに本堂が建つ施福寺は、西国観音巡りの西国三十三カ所第4番札所。巡礼者は険しい山道、自然石の石段をあえぎながら登り本堂にたどり着く。境内からは大阪・和歌山府県境に連なる金剛生駒紀泉国定公園の素晴らしい山並みの眺めが楽しめる。
 仏教が日本に伝来して間もない西暦540年ごろの開創と言う施福寺は、日本でも有数の古刹で、秘仏の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩像は毎年5月15日にだけ開扉される。

本堂

(写真は 本堂)

馬頭観音堂

 この本尊は行基菩薩の高弟で施福寺中興の祖と言われている法海上人が、安居会(あんごえ)の修行の結願の日に、紫雲に包まれた千手観音を感得し、その姿を刻んで安置したのが西国三十三カ所観音霊場の本尊。
 本尊と背中合わせになる後堂(うしろどう)に祀られている馬頭観音像は、その昔、花山法皇が西国三十三カ所巡礼中に3番札所・粉河寺から施福寺へ向かう途中の山中で道に迷った時、馬が現れて道案内をしたと言う故事に由来している。この時に花山法皇が詠んだ「みやまじの ひばらまつばら わけゆけば まきのをでらに こまぞいさめる」が、施福寺の御詠歌となっている。

(写真は 馬頭観音堂)

 空海が真言宗を開いた時に真言宗に転じ寺運も大いに栄え、寺坊800余り、約3000人の僧を抱えていた大寺だったが、江戸時代初期に真言宗から天台宗に改宗した。
 天正9年(1581)織田信長の軍勢の兵火にかかり、一山ことごとく焼失した。慶長年間に豊臣秀頼の寄進によって再興されたが、往時の盛観を取り戻すことはできなかった。それでも元禄年間には80余りの坊舎あったが、弘化2年(1845)山火事で、仁王門を残しほとんど焼失、安政年間に再建されたのが現在の諸堂である。三十三観音堂には西国三十三カ所と番外三ヵ寺の本尊の観音像が安置されている。

三十三観音堂

(写真は 三十三観音堂)


 
大阪府立弥生文化博物館 放送 7月19日(水)
 弥生時代は稲作が始まり金属器を使い始めた紀元前4世紀から〜巨大古墳が出現する3世紀後期までの約6〜700年間を言う。朝鮮半島などからの渡来人が稲作や金属加工などの新技術をもららし、それまでの狩猟、漁労、採集の暮らしから生産経済へと移行していった時代である。
 日本文化の源流である弥生時代の生活や文化が、資料や映像、模型などを使って分かりやすく紹介されているのが、弥生時代の環濠集落跡がある「池上曽根遺跡史跡公園」南の大阪府立弥生文化博物館。

卑弥呼の館

(写真は 卑弥呼の館)

弥生の戦士

 館内には「米つくりの始まり」「新しい技術の誕生」「ムラ・戦い・クニ」「交流」「死とまつり」「弥生人」のテーマに分けて、弥生時代の文化と生活を紹介している。
 古代史に論争を巻き起こしている卑弥呼が住んでいた「卑弥呼の館」や弥生人の家族の一家団欒の様子が模型を使って再現されている。米つくりのコーナーでは、春の田起こしから秋の収穫までの様子が分かる。弥生時代も田植えを行っていたようで、機械化されるまでの現代の稲作作業と大きな違いはなかったようだ。

(写真は 弥生の戦士)

 稲作が始まったことにより富が集積され、富を守り集団を率いる首長が生まれた。これらの富と権力を奪い合う戦いが起こり、集団を守るための環濠集落が形成され、金属武器の製作が始まった。戦いで戦死して埋葬された弥生人の人骨には、武器が突き刺さったままのものが出土している。
 そして弥生文化最大の謎とされるのが銅鐸。祭祀用具とされているが、その謎は解明されていない。現代の技術で銅鐸を作ったのが「平成の銅鐸」。この銅鐸作りで弥生時代の鋳造技術の優秀さには、現代技術を持ってしても越えられない面もあったことが分かった。

平成の銅鐸

(写真は 平成の銅鐸)


 
泉井上神社 放送 7月20日(木)
 大阪府の南部一帯を和泉、あるいは泉州と呼ぶが、その地名の由来となったのが和泉市府中に鎮座する泉井上神社である。
 社伝によると仲哀天皇2年(200)神功皇后がこの地に行啓した際、急に清水がこんこんと湧き出した。それが今も境内に見られる「和泉清水」で、皇后はこの瑞祥と喜び、霊泉として祀ってこの地を「和泉」と呼ぶようになったと伝えられている。豊臣秀吉はこの和泉清水の水を大坂城まで運ばせ、茶の湯に用いたとも言われている。

和泉清水

(写真は 和泉清水)

泉井上神社

 泉井上神社の創建の時期は定かでないが、神武天皇が東征の成就を祈願したとの伝えもある。現社名は神功皇后の「和泉清水」に由来すると言われている。
 奈良時代の霊亀2年(716)ここに和泉監(いずみのげん)が置かれてこの地が国府となり、地方政治の中心地となった。それに合わせて泉井上神社の傍らに和泉地方の五つの神社を合祀して和泉国総社が建立され、以来、今日まで変わることなく泉州全体の氏神として崇敬が寄せられている。

(写真は 泉井上神社)

 和泉国総社は楠木正成、新田義貞、足利将軍、豊臣秀頼ら武人らの崇敬も篤く、社運は栄えた。現在の総社の社殿(国・重文)は、秀頼が慶長10年(1605)に再建したと伝えられている。総社は明治時代に入って泉井上神社に合併したが、その後、再び分離され、現在は泉井上神社の境内社となっている。
 泉井上神社は戦国時代までは1万石の待遇を受け、広い境内地を所有していたが、豊臣秀吉によって石高を減じられ、明治時代初めには境内が広すぎるとして、一部を召し上げられた。

総社本殿

(写真は 総社本殿)


 
池上曽根遺跡 放送 7月21日(金)
 和泉市池上町から泉大津市曽根町にかけて広がる池上曽根遺跡は、総面積60万平方mもあり、その遺跡内に濠で囲まれた全国でも屈指の規模を持つ弥生時代の環濠集落跡がある。
 この遺跡は明治36年(1903)ごろ発見され、戦後、本格的な発掘調査が数回にわたって行われ、集落跡から100余の縦穴住居跡や土器、金属器、生活用品、祭祀器などが出土した。環濠集落を中心に約11万平方mが国の史跡に指定され、史跡公園として建物の復元などの公園整備が行われた。

いずみの高殿

(写真は いずみの高殿)

やよいの大井戸

 池上曽根史跡公園には2000年前の弥生時代の集落が再現されている。その中でも「いずみの高殿」と名付けられた大型堀立柱建物がグンと目をひく。東西19.2m、南北6.9m、約80畳分の広さの高床を持つ、全国最大級の弥生時代の復元建物である。屋根回りに取り付けられた板には、弥生時代の代表的な文様が刻まれてる。
 その傍らの「やよいの大井戸」は、クスノキの大木をくりぬいて内径2mの井筒にしていたものが復元され、実物は園内の弥生学習館に展示されている。

(写真は やよいの大井戸)

 ほかに弥生時代の一戸建住宅の円形と方形の竪穴住居が復元されている。こうした竪穴住居は近畿地方では古墳時代後期の1500年前まで、東北地方では鎌倉時代まで使われていた。
また金属器の製作工房に使われていた小型堀立柱建物や調味料の「魚醤(ぎょしょう)」を製造した半地下式の小型竪穴などが復元されている。
 公園内の池上曽根弥生学習館では、土器や勾玉、ガラス玉、土笛、ブレスレット作りなどが実費で体験できる。いつ訪れても作れるものと予約が必要なものがあり、スタッフが親切に作り方を指導してくれる。

池上曽根弥生学習館

(写真は 池上曽根弥生学習館)


◇あ    し◇
槙尾山施福寺(槇尾寺)南海本線泉大津駅、JR阪和線和泉府中駅近くの
南海バス車庫前、泉北高速鉄道
泉中央駅からバス(途中槇尾中学校前で乗り換え)で
槇尾山下車徒歩20分。
大阪府立弥生文化博物館、
池上曽根史跡公園、
池上曽根弥生学習館
JR阪和線信太山駅下車徒歩7分。
南海本線松ノ浜駅下車徒歩20分。
泉井上神社JR阪和線和泉府中駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
槇尾山施福寺0725-92-2332
大阪府立弥生文化博物館0725-46-2162
泉井上神社0725-44-8182
池上曽根弥生学習館0725-20-1841
池上曽根弥生情報館0725-45-5544

◆歴史街道とは

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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