月〜金曜日 18時54分〜19時00分


特選“西国観音霊場巡り”

 平安時代に花山法皇が始めたとされる西国三十三ヶ所観音霊場めぐりは、近畿各地の観音信仰の寺々をたどる巡礼の道。千年の時を経て現代もなおこの道をたどる人々の姿は絶えることがない。今回は花山法皇が修行した那智山の第一番青岸渡寺に始まって、紀州、和泉、河内、大和の観音霊場をたどる。


 
西国三十三カ所第一番札所
・青岸渡寺
放送 8月28日(月)
 観音菩薩は33通りの姿に化身してこの世に現れて衆生を救うとされ、それに基づいて西国三十三カ所の寺を巡礼する観音信仰が盛んになった。
 平安時代、わずか19歳で天皇の位を退き出家した花山法皇は、播磨国の書写山円教寺で修行した後、那智山でも3年間修行した。その後、観音巡礼の旅を発願、深く感銘を受けた那智山の青岸渡寺を第1番札所と定めた。この花山法皇の観音巡礼が発端となり、貴族から庶民までの西国三十三カ所観音巡礼が盛んになった。

那智山 青岸渡寺

(写真は 那智山 青岸渡寺)

裸形上人像

 仁徳天皇の時代に熊野浦に漂着したと伝えられるインド僧の裸形(らぎょう)上人が、那智の滝で苦行の末に観音菩薩を感得し、金八寸(約28cm)の如意輪観音像を安置する庵を結んだのが青岸渡寺の始まりと言われる。寺号は青い海の果てに観音の浄土があると言う意を表している。
 その後、推古天皇の勅願で大和国の生仏(しょうぶつ)上人が、現在地に堂宇を建立、現本尊の如意輪観音像を刻み、その胎内に裸形上人の感得観音像を納めたと寺伝にある。西国三十三カ所巡礼や熊野三山に参拝する熊野詣が盛んになり、第1番札所の青岸渡寺は隆盛を極めた。

(写真は 裸形上人像)

 織田信長の軍勢の兵火で焼失した本堂を、天正15年(1587)豊臣秀吉が弟の秀長に命じて再建させたのが現在の本堂(国・重文)である。その後、明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)令で青岸渡寺は荒廃したが、明治7年(1874)以降、徐々に復興し現在の盛観を取り戻した。
 本堂付近から三重塔を近景に眺める那智の滝も素晴らしいが、眼前にさえぎるもののない三重塔からの那智の滝の眺めには、しばしこの世の憂さを忘れさせてくれる。
 御詠歌は「ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ」。

本尊 如意輪観世音菩薩(お前立ち)

(写真は 本尊 如意輪観世音菩薩(お前立ち))


 
西国三十三カ所第三番札所
・粉河寺(粉河町)
放送 8月29日(火)
 粉河寺の創建は鎌倉時代初期に描かれた「粉河寺縁起絵巻(国宝)」によると次のようだ。奈良時代末の宝亀元年(770)この地の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)が、山中で異様な光を発する場所を見つけ、日ごろの殺生を悔いてこの地に草庵を建てた。ある日、ひとりの童子が訪ねて宿を乞い、その礼に千手千眼観世音菩薩像を刻みいずことなく立ち去った また、河内国の長者・佐太夫の娘の重病を治した童子が「用あらば粉河を訪ねよ」と言って去った。 翌年、粉河を訪ねた佐太夫が、孔子古の草庵に安置されている千手千眼観世音菩薩像が、娘が礼として童子に与えた小刀と緋の袴を手にしているのを見た。娘の病を治してくれたのは観音様だと知った佐太夫は観音に帰依して孔子古と共に寺を大きくした。

粉河寺縁起絵巻

(写真は 粉河寺縁起絵巻)

千手千眼観世音菩薩(千手堂)

 平安時代に西国三十三カ所を定めた花山法皇が粉河寺に巡行、第3番札所と定めた。以来、朝廷や貴族らの信仰を集め、親子で関白になった藤原頼通、師実父子ら藤原一族、平重盛、維盛、足利義持、義教ら貴人や武将の参詣が続き寺運は隆盛を極め、清少納言の「枕草子」にもその名が見える。
 広大な寺域に七堂伽藍(がらん)や550余坊が建ち並び、紀州では高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇っていたが、天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めで多くの堂塔が焼失した。現在の堂塔は江戸時代に入って紀州徳川家などの保護と援助で再建されたもので、享保5年(1720)再建の本堂は、本尊を安置する二重屋根の金堂と参詣者が土足で入れる一重屋根の礼堂がひとつに結合された珍しい形を取っている。

(写真は 千手千眼観世音菩薩(千手堂))

 総ケヤキ造りの本堂は西国三十三カ所霊場の中で最も大きな建物である。寺域への入口の壮大な大門(国・重文)や「風猛山」の扁額がかかる中門(国・重文)など、大小20余の堂塔が甍(いらか)を連ねる様子は平安時代の隆盛時をほうふつさせる。
 本堂前の紀州の名石を集めて作られた石庭「粉河寺庭園」は国の名勝に指定され、枯山水の石組が力強い美しさを見せている。この庭は本堂前とその下の広場の間の土留めの役目を果たし、本堂を仰ぎ見る前景も兼ねている。石組の中は蘇鉄を主にサツキなどの刈り込みで埋めている。
御詠歌は「ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや」。

粉河寺庭園

(写真は 粉河寺庭園)


 
西国三十三カ所第四番札所
・施福寺
放送 8月30日(水)
 標高601mの槙尾山の山頂近くに本堂が建つ施福寺は、西国観音巡りの西国三十三カ所第4番札所。巡礼者は険しい山道、自然石の石段をあえぎながら登り本堂にたどり着く。境内からは大阪・和歌山府県境に連なる金剛生駒紀泉国定公園の素晴らしい山並みの眺めが楽しめる。
 仏教が日本に伝来して間もない西暦540年ごろの開創と言う施福寺は、日本でも有数の古刹で、秘仏の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩像は毎年5月15日にだけ開扉される。

本堂

(写真は 本堂)

馬頭観音堂

 この本尊は行基菩薩の高弟で施福寺中興の祖と言われている法海上人が、安居会(あんごえ)の修行の結願の日に、紫雲に包まれた千手観音を感得し、その姿を刻んで安置したのが西国三十三カ所観音霊場の本尊。
 本尊と背中合わせになる後堂(うしろどう)に祀られている馬頭観音像は、その昔、花山法皇が西国三十三カ所巡礼中に3番札所・粉河寺から施福寺へ向かう途中の山中で道に迷った時、馬が現れて道案内をしたと言う故事に由来している。この時に花山法皇が詠んだ「みやまじの ひばらまつばら わけゆけば まきのをでらに こまぞいさめる」が、施福寺の御詠歌となっている。

(写真は 馬頭観音堂)

 空海が真言宗を開いた時に真言宗に転じ寺運も大いに栄え、寺坊800余り、約3000人の僧を抱えていた大寺だったが、江戸時代初期に真言宗から天台宗に改宗した。
 天正9年(1581)織田信長の軍勢の兵火にかかり、一山ことごとく焼失した。慶長年間に豊臣秀頼の寄進によって再興されたが、往時の盛観を取り戻すことはできなかった。それでも元禄年間には80余りの坊舎あったが、弘化2年(1845)山火事で、仁王門を残しほとんど焼失、安政年間に再建されたのが現在の諸堂である。三十三観音堂には西国三十三カ所と番外三ヵ寺の本尊の観音像が安置されている。

三十三観音堂

(写真は 三十三観音堂)


 
西国三十三カ所第五番札所
・葛井寺(藤井寺市)
放送 8月31日(木)
 葛井寺(ふじいでら)は神亀2年(725)聖武天皇の勅願によって行基が開創したと伝えられている南河内の古刹だが、百済系渡来人・葛井氏の氏寺として建立されたと見るのが通説となっている。 寺に伝わる「葛井寺参詣曼荼羅(さんけいまんだら)」によると、創建当時は金堂、講堂、東西両塔を備えた薬師寺式の伽藍(がらん)を誇っていた。その後、南北朝時代の戦乱による兵火や地震で堂塔が焼失、倒壊、現在の本堂、南大門は江戸時代中期に再建されたものである。旧南大門で現在は西門へ移築された四脚門(国・重文)は、豊臣秀頼が慶長6年(1601)に建立した。葛井寺に現存する建物の中で最も古いもので、桃山時代の様式や意匠が各所に取り入れられた門として貴重な存在。

南大門

(写真は 南大門)

本堂

 本尊の十一面千手千眼観世音菩薩座像(国宝)は、創建当時から無傷のままその姿を今に伝えている。また、この十一面千手千眼観世音菩薩座像は胸の前で合掌している2本の大きな手、仏具を持つ40本の中型の手、さらに1001本の小さな手があり、全部で1043本の手を持ち、そのすべての掌に眼が刻まれている。千手観音像は合掌する手と合わせて42本の手を持っているのが一般的とされ、実際に1000本の手がある観音像は、葛井寺の本尊を含めて数例しかない。また葛井寺の本尊はなぜか1001本と1本多いのも謎である。
 頬のふくらんだ丸い顔立ち、先をとがらせた抑揚のある鼻や唇、細くしなやかな体形は、東大寺法華堂の諸像と同じく天平時代の作風と言える。

(写真は 本堂)

 本尊は秘仏で毎月18日の御開帳の日に、厨子の扉が開けられその姿を拝観することができる。千の眼で人びとを導き、千の手で迷える衆生を救うとされる葛井寺の十一面千手千眼観音像は、平安時代から西国三十三カ所第5番札所として信仰を集め、今も観音巡礼の参詣者が毎日絶えない。
 西国三十三カ所の観音霊場を巡拝した花山法皇が、葛井寺を参拝した時に「まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも」と詠まれると、本尊の眉間から紫煙が出て、その煙が聖武天皇寄贈と伝えられる石灯籠までたなびいたと伝えられている。
この歌は葛井寺の御詠歌となり、紫雲がたなびいた灯籠は紫雲石灯籠と呼ばれるようになった。傷みが激しいため、今は裏庭に保存され本堂前の紫雲石灯籠は明治時代に作られたレプリカである。

紫雲石の燈籠

(写真は 紫雲石の燈籠)


 
西国三十三カ所第六番札所
・壺阪寺
放送 9月1日(金)
 盲目の夫・沢市と夫の開眼を祈る妻・お里の夫婦愛をテーマにした説話、人形浄瑠璃、歌舞伎の「壺坂霊験記」の舞台として有名な壺阪寺は、高取山の中腹に堂々たる伽藍(がらん)を構えている。
 大宝3年(703)元興寺の僧・弁基上人によって開かれ、西国三十三カ所第六番札所の観音信仰道場でもあり、正式な名称は南法華寺。弁基上人が壷坂山の霊峰に心ひかれて修行中、秘蔵の水晶の壺の中に観音さまの姿を感得した。この壺を坂の上に祀り、感得した観音の姿を彫って本尊としたのが始まりと伝えられ、壺阪の名の由来にもなっている。

お里・沢市の像

(写真は お里・沢市の像)

十一面千手千眼観世音菩薩

 本尊の十一面千手観音菩薩像が元正、桓武、一条天皇の眼病を治したと言う由緒から、今にいたるまで眼病に霊験があらたかなお寺として広く信仰を集め、お里・沢市の物語も生まれた。
 壺阪寺は目の不自由な人たちの福祉にも力を入れている。目の不自由な人が香・聴・触の3つの感覚で自然を愛し楽しむ施設「匂いの花園」は、約2300平方mの庭に約100種の四季の花が植えられ、点字で花の名が表示されている。このような花園は壺阪寺とニューヨークのブルックリン植物園だけと言う。盲老人福祉施設「慈母園」は、オープン当時の昭和36年(1961)には日本で初めての目の不自由な人の老人ホームだった。ほかに特別養護盲老人福祉施設や重度精神薄弱者厚生施設などを運営している。

(写真は 十一面千手千眼観世音菩薩)

 壺阪寺は創建後、平安時代には大伽藍を擁し全盛を極めていたが、火災で堂塔を焼失し、現在は室町時代から江戸時代にかけて再建された本堂の八角堂、礼堂、三重塔(いずれも国・重文)や阿弥陀堂、因幡堂などがある。
 境内に立つ高さ20m、世界最大の観音石像はインドでのハンセン病救済の社会奉仕事業のお礼として、インド政府から贈られたもので、日印の友愛の礎となっている。ほかに釈迦の生涯を描いた石造大仏伝図、大涅槃石像、天竺渡来大石堂などの石造物がある。壺阪寺の奥の院と言われる香高山には、岩肌に彫られた五百羅漢と呼ばれる石仏群がある。
 御詠歌は「いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん」。

多宝塔

(写真は 多宝塔)


◇問い合わせ先◇
西国一番 那智山・青岸渡寺0735−55−0404
西国三番 風猛山・粉河寺0736−73−4830
西国四番 槇尾山・施福寺072−592−2332
西国五番 紫雲山・葛井寺072−938−0005
西国六番 壺阪山・南法華寺(壺阪寺)0744−52−2016

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