月〜金曜日 18時54分〜19時00分

9月25日からナレーターの道上洋三が復帰致します。
皆様ご心配おかけ致しました。

特選“着物で古都散策”

 ここ数年、若い人たちの間で和装が再評価されてきている。彼らは伝統をふまえつつも、自分たちの新しい感覚で着物を着こなしているようだ。また冠婚葬祭といった「よそいき」に限らず、普段着として着物を着るというシーンも珍しくなってきている。今週は着物姿の映える京都、奈良の名園や小道を歩いてみたい。


 
洛翠の庭園 放送 9月18日(月)
 料理旅館「洛翠」は、元は明治時代の実業家・藤田家の別邸で、約千坪(3300平方m)の庭園は、明治42年(1909)に造園の巨匠・7代目小川治兵衛(屋号・植治)によって作られた。
 関西財界の重鎮・藤田伝三郎は長州・萩の生まれで、幕末には高杉晋作が創設した奇兵隊に加わっていた。明治維新後は実業家に転身、岡山県児島湾の干拓事業、大阪紡績、阪堺、山陽鉄道などを開設したほか、琵琶湖の大津から長浜までの汽船を運航するなど、琵琶湖に関係の深い事業を手がけていた。この琵琶湖への思い入れが、別邸に伊能忠敬の地図を図面代わりに、琵琶湖の形を忠実に模した池を配した庭を作るきっかけになった。

庭園

(写真は 庭園)

くずれ組み

 洛翠の庭の池の水は琵琶湖疏水から直接引き入れられ、再び疏水に流れ出ており、池は琵琶湖疏水の支流とも言える。池に作られた島や橋も実物に見立てられており、瀬田の唐橋あたりには飛び石の沢渡で池が渡れる。現在の琵琶湖大橋の位置にも石の一文字橋が渡されており、55年も早くこの庭の池には「琵琶湖大橋」が架けられていたとも言える。竹生島に見立てた小島は、中国の蓬莱山を思わせるような島で、100年近くも経過している赤松が元気に育っている。
 植治の作庭の特徴である、山から崩れ落ちてきた石が自然に止まった形の積み方をした、くずれ組みの石組みが池のほとりにある。石臼の廃材を利用した臥龍橋は平安神宮の臥龍橋とよく似ているなど、数え上げればきりがないほど特徴的な庭である。

(写真は くずれ組み)

 池のほとりの庭園内にも趣向が凝らされている。賓客だけを通した不明(あかず)門は、伏見桃山城から移築したものとされていて、天井には龍が描かれていた痕跡が残っている。
 庭園の南東にある画仙堂は、中国・清から伝来したと伝えられる建物で、詩仙堂、歌仙堂とともに京都三仙堂に数えられ、琵琶湖・堅田の浮御堂に似ている。大正3年(1914)に作られた茶室・渓猿亭(けいえんてい)は、当時のお金で坪当り150円の建築費をかけて建てられたもので、各所に贅(ぜい)が尽くされている。洛翠では由緒ある画仙堂を結婚式場に提供している。琵琶湖を模した池の水面に花嫁衣装姿を映しながら、石臼の臥龍橋を渡って画仙堂に入る結婚式は、新郎、新婦にとってよき思い出の門出になっている。

画仙堂

(写真は 画仙堂)


 
正伝寺(京都市) 放送 9月19日(火)
 船山の西麓・西賀茂の静寂の中に建つ正伝寺は、宋から来朝した兀菴普寧(ごつたんふねい)禅師を開山として、兀菴の弟子・東巌慧安(とうがんえあん)禅師が文永10年(1273)に一宇を建立したのが始まりの禅寺。創建当時は烏丸今出川にあったが、天台宗の迫害を受けて破壊された後、弘安5年(1282)現在地に再建された。 後醍醐天皇の勅願寺、室町幕府3代将軍・足利義満の祈願所となり隆盛だったが、応仁の乱で焼失するなどの非運にあい、その後、江戸時代になって再建された。

獅子の児渡し(小堀遠州作)

(写真は 獅子の児渡し(小堀遠州作))

障壁画(狩野山楽筆)

 白砂を敷きつめた方丈庭園は龍安寺の石庭に似た枯山水だが、龍安寺が一樹一草も使っていないのに対して、こちらは一石も使わない刈り込みばかりの珍しい庭園である。当時の作庭は石組を主としたものが多く、石をいっさい使わずに庭園美を創出した才能は非凡なものであると言われている。
 この庭は江戸時代初期、小堀遠州の作と伝えられ、ヒメクチナシ、サツキを使った刈り込みは、東の土塀沿いに北東に向かった斜面に7・5・3に配されている。今は比叡山が借景となっているが、作庭当時はこの地が森林地帯であったらしく意図されトいたものではなかったようだ。

(写真は 障壁画(狩野山楽筆))

 龍安寺の石庭が「虎の児渡し」と言われているのに比して、正伝寺の庭は「獅子の児渡し」と称されている。方丈(国・重文)は伏見城の御成殿を承応2年(1653)正伝寺に移築したもの。その部屋には狩野山楽の筆になる障壁画があり、今日に残る山楽の貴重な作品とされている。
 方丈の広縁の天井は血天井と言われ、天井の斑点は伏見城に立てこもって城を死守した徳川家康の重臣・鳥居元忠が、落城の際に割腹した血で染まった床板を使ったものとされている。この斑点は学者の鑑定で血液によるものであることが証明されている。

血天井

(写真は 血天井)


 
古今の庭園 放送 9月20日(水)
 二条城内には豪壮で絢爛(けんらん)たる建物によく調和した素晴らしい庭があり、城内を訪れた人たちの心を慰めている。二の丸御殿の南西にある二の丸庭園(国・特別名勝)は、築城時に小堀遠州が作庭した池泉回遊式庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したとされる。
 池の中央に蓬莱島、その左右に鶴島と亀島を配し、4つの橋が架けられ西北隅には滝が設けられている。池の汀に配された大小さまざまな形と色の岩石が、色彩豊かで変化に富んだ力強い石組みにされ、豪壮な城郭建築とよく調和した石組み庭園の美しさを見せている。

二の丸庭園

(写真は 二の丸庭園)

清流園

 この庭は二の丸御殿の大広間から眺められるように作られていた。寛永3年(1626)後水尾天皇を迎えるための御殿が池の南側に建てられたので、こちらからも眺められるように一部改造された。最近は新たに梅、桜、椿などが植えられ、園内の四季折々に彩りを添えている。
 江戸時代の庭園の趣を見せている二の丸庭園に対し、本丸の石垣や櫓(やぐら)門を借景にして雄大に広がる清流園は、昭和40年(1965)に作られた現代風の趣向を取り入れた庭。この庭園は江戸時代初期の豪商・角倉了以の屋敷から建物の一部と庭石約800個を譲り受け、さらに全国から集めた銘石300個を加え、二条城にふさわしい雄大、明朗、風雅をモチーフに作庭された。

(写真は 清流園)

 総面積1万6500平方mの清流園は、池泉回遊式の和風庭園部分と芝生を主体にした洋風庭園部分から成っている。せせらぎが池に注ぐ眺めを前にした場所に茶室・和楽庵がある。この和楽庵は表千家の残月亭を模して造られており、市民の茶会や国賓のもてなしなどに使われている。
 この清流園の地は江戸時代には城を守っていた城番武士の宿舎があり、明治時代に苑地となり、大正時代には大正天皇の御大典の殿舎が建てられていた。この地にも二条城の歴史の変遷が刻まれており、これらの歴史の流れを念頭に庭を眺めると遠い昔に思いを馳せることができる。

茶室和楽庵

(写真は 茶室和楽庵)


 
春日野散策 放送 9月21日(木)
 どこを歩いても史跡、風物、家並みなどの眺めが、静かに楽しめる奈良の街。春日大社の参道から浅茅ヶ原、高畑界隈にかけては、奈良時代には万葉人と言われた貴族たちが野遊びを楽しんだ所で、ロマティックな雰囲気が感じられ、カップルや若い女性たちに人気の高いコース。
 春日さんの大鳥居、奈良公園内をのどかに歩く鹿、浅茅ヶ原の宝形造りで茅葺き屋根の円窓(まるまど)亭(国・重文)、鏡のような鷺池に六角形の優美な姿を映す浮見堂など、どれもが奈良を代表するおなじみの風景で、いずれも“絵になる”ものばかりだ。

浮見堂

(写真は 浮見堂)

志賀直哉旧居

 春日大社から“ささやきの道”を抜けた所の高畑に文豪・志賀直哉(1883〜1971)の旧居がある。大正14年(1925)京都・山科から引っ越してきた志賀直哉が、昭和4年(1929)風光明媚な高畑に自ら設計して住宅を建て、鎌倉に移り住むまでの10年間、家族と共にここで過ごした。
 数寄屋風造りで、洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えた当時としては大変モダンで合理的な建物で、彼のモダンな感覚がうかがえる。志賀直哉はここで「暗夜行路」のほか「痴情」「プラトニック・ラブ」「邦子」などの作品を執筆した。

(写真は 志賀直哉旧居)

 また、志賀直哉を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、堀辰雄、足立源一郎ら白樺派の文人や画家がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う文化サロンとなり、いつしか“高畑サロン”と呼ばれるようになった。書斎や2階の客間からは若草山や三蓋(みかさ)山、高円(たかまど)山の眺めが美しく、庭園も執筆に疲れた時に散策できるように作られていた。
 志賀直哉旧居の南東にある白毫寺は天智天皇の皇子・志貴親王の離宮を寺にしたもので、境内からの眺望が素晴らしい。奈良三名椿として知られる五色の椿は、紅白のまだら模様の花びらをつけ、秋の萩の花とともに参詣者の目を楽しませてくれる。

サンルーム

(写真は サンルーム)


 
茶席の雅趣 放送 9月22日(金)
 高台寺に住む北政所は茶をたしなむことも多かったようで、境内には「わび」「さび」を楽しむ茶室が多い。境内東端の山上に創建当時に伏見城から移築してきた茶室「傘亭」と「時雨亭」が残っているほか、江戸時代の豪商・灰屋紹益遺愛の茶室「鬼瓦席」「遺芳庵」がある。
 「傘亭」と「時雨亭」はともに千利休の意匠によるもので、傘亭は二間四方の茅葺き平屋建て。天井はないが天井部分に自然木と竹の垂木が放射状に組まれ、唐傘を開いたように見えるところからその名があるが、正式には「安閑窟」と呼ばれ、中央に「安閑窟」の板額が掲げられている。

傘亭

(写真は 傘亭)

時雨亭

 時雨亭は入母屋造りの茅葺き二階建て。階上部分が茶室になっており、東側に床をつけ、南側と西側の二面と北側半分は開け放って、眺望を楽しむことができる茶室で、かつては遠く大阪方面を望むことができたという。
 元和元年(1615)大坂夏の陣で淀君と秀頼が大坂城で自刃し、大坂城が落城して豊臣家が滅亡した時、北政所は高台寺境内の高台にあったこの時雨亭から、炎に包まれて落城する大坂城を見届け泣き崩れたと言う。北政所はこの時の胸の内を「大坂城落城と豊臣家滅亡は感無量で言葉もない」と伊達政宗への手紙に書き綴っており、秀吉と過ごした大坂城での思い出がよみがえったのであろう。

(写真は 時雨亭)

 方丈北庭に灰屋紹益が愛したことでしられる鬼瓦を掲げた四畳半の茶室の「鬼瓦席」、紹益が吉野太夫をしのんで建てたと言われる「遺芳庵」がある。遺芳庵は茅葺き屋根に吉野窓と呼ばれる優しい感じのする丸窓をつけた茶室で、高台寺境内な風雅な趣を強めている。
 臨済宗の禅寺である高台寺は、他の禅宗寺院と同様に厳しい禅修行の道場であった。だが、境内の諸堂宇の建物や庭園をはじめ桃山文化の粋を凝らした美術工芸品などがあり、北政所・ねねの寺でもあることから、優雅でほのぼのとした雰囲気がこの寺の魅力で、多くの人を引きつけている。

鬼瓦席

(写真は 鬼瓦席)


◇問い合わせ先◇
洛翠(料理旅館)075−771−3535
正伝寺075−491−3259
二条城(元離宮二条城事務所)075−841−0096
志賀直哉旧居0742−26−6490
高台寺075−561−9966

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