月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・嵐電に乗って

 洛西・嵐山と洛中の四条大宮を結んで走る路面電車の京福電鉄嵐山本線は、「嵐電」の愛称で地元の人びとの足として親しまれている。また沿線には京都を代表する古社寺や嵐山の春の桜、秋の紅葉、桂川の水辺などの観光地が多く、のんびりした嵐電を利用してこれらの観光地を訪れる観光客も多い。今週はこの嵐電に乗って沿線の名所を訪ねた。


 
嵐電で蚕の社へ 放送 9月25日(月)
 嵐電の駅には難読、珍読の駅名が多いことでも有名だが、そのひとつ「蚕ノ社(かいこのやしろ)」は駅の北側の木嶋(このしま)神社の摂社「蚕の社」が有名になりそのまま駅名になった。
 木嶋神社の正式の名は木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社で、「続日本紀」の大宝元年(701)の条にこの神社の名が記載されいることから、それ以前に創建された古社。古くから雨乞の神として朝廷などから信仰されていた。本殿東側の織物の祖神を祀る摂社・養蚕神社を、いつからか「蚕の社」と呼ぶようになった。

木嶋神社

(写真は 木嶋神社)

養蚕神社(蚕の社)

 この嵯峨野一帯は朝鮮半島から渡来した秦氏の本拠地で、養蚕、機織の技術を持った秦氏は、朝廷との関係を強めて有数の渡来人勢力となった。その象徴とも言える養蚕神社も秦氏が創建した。
 雄略天皇15年、秦酒公(はたのさけのきみ)が秦氏一族を統括するよう勅命を受け、その返礼として絹織物をうず高く積んで献上した。天皇はこれを喜び「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を賜ったと伝えられている。新撰姓氏録にもこの記述があり、この禹豆麻佐が現在の太秦の地名になった。太秦には秦河勝(はたのかわかつ)が建立した聖徳太子ゆかりの広隆寺、秦酒公と秦河勝を祀る大酒神社など秦氏ゆかりの社寺が多い。

(写真は 養蚕神社(蚕の社))

 蚕の社境内に清水の湧き出る「元糺(もとただす)の池」があり、その池の中に立つ石の三柱鳥居は、高さ3.4mの3本の石柱を三角形状に立てたもので、三方から拝める珍しい形の鳥居で神秘的な雰囲気がただよっている。三柱鳥居のそれぞれの方向から秦氏とゆかりの深い稲荷山、松尾山、双ヶ丘が遥拝でき、三柱鳥居に込めた秦氏の強い意思がうかがえる。鳥居の中心にある石を盛った神座は、この池を神格化したものである。
 土用の丑の日に元糺の池の水に手足を浸すと病気にならないとの伝えがある。この池を元糺の池と呼ぶのは、下鴨神社の鎮座地の糺より古く、下鴨神社へ祭祀を移したので「元糺」と呼ぶようになったと言われている。

三柱鳥居

(写真は 三柱鳥居)


 
御土居の名残 放送 9月26日(火)
 嵐電は全体としては京の街を東西に走っているが、西院(さい)駅から三条口駅までは真っすぐに北上している。この路線に沿う南北の通りが「西土居通(にしのどいどおり)」と言う。
 その名は天正19年(1591)天下を統一した豊臣秀吉が、都市計画の一部として都を外敵の襲来と鴨川の氾濫から守るために御土居(おどい)という土塁を築いた。、西側の御土居に沿った道路が西土居通となっている。秀吉が築いた御土居は、東は鴨川、北は鷹ケ峯、西は紙屋川、南は九条通あたりに沿って都の周囲を囲んだ。御土居は高さ5mほどで、総延長は22.5kmに及んでいた。

西土居通

(写真は 西土居通)

御土居(市五郎稲荷)

 御土居の内側を洛中、外側を洛外と呼び、要所には七口が設けられ、今に残る鞍馬口、丹波口などの地名はその名残である。御土居のほとんどは京都の都市化に伴って取り壊されてしまったが、市内のあちこちにその一部分が残っており、国の史跡などに指定して保存されている。
 三条口駅の北、西土居通沿いにある小高いこんもりした林が御土居の一部で、この林の中に市五郎稲荷のお社がある。戦前までは御土居の穴にキツネが棲みついており、このキツネを稲荷として祀ったとみられている。大宮交通公園の御土居にも平一稲荷があり「市五郎」とか「平一」はキツネの名前ではないかとも言われている。

(写真は 御土居(市五郎稲荷))

 西院駅と三条口駅の間の西土居通に御土居の一部を庭園に取り込んだ屋敷がある。戦前までは造酒屋、その後、染色業を営んでいた北村平三郎氏の旧邸で、御土居の起伏を築山として活かし、うまく庭にマッチさせていた。庭園は縮小されたが今も御土居の面影がしのべる。
 現在はこの邸宅を利用して「御土居の庭のあるおばんざい料理の店」のキャッチフレーズで居酒屋の北平が営まれている。造酒屋当時の「活世界」と言う銘柄の酒を、当時のままのラベル、昔ながらの手作りの製法で復刻してもらい、お客さんに御土居のある庭を眺めながら味わってもらっている。

京おばんざい料理 北平

(写真は 京おばんざい料理 北平)


 
車折神社 放送 9月27日(水)
 嵐電の終着駅・嵐山駅に近い車折(くるまざき)駅もこれまた難読駅のひとつ。この駅のすぐ南にある車折神社の名前にちなんで駅名が生まれた。
 車折神社の祭神は平安時代後期の和漢の大学者で、天皇に学問を講義していたほか、朝廷の官職でも要職をしめて腕を振るった清原頼業(きよはらよりなり)。頼業没後に同家の領地であったこの地に葬られ廟所が建てられ、法名の宝寿院と同じ名の寺として菩提が弔われた。頼業が生前に桜を愛でていたことから、境内には桜の木が多く、桜の宮とも呼ばれ桜の名所としても知られている。

車折神社

(写真は 車折神社)

祈念神石

 鎌倉時代中期に後嵯峨天皇が大堰川(現桂川)へ行幸の際、この社前で天皇が乗っていた牛車の轅(ながえ)が折れて動かなくなった。これが縁で天皇から「車折大明神」の神号を賜り、以後、車折神社と称するようになったと言う。
 頼業の学徳にあやかって学業成就、試験合格、また約束が違えられないことを願う人びとの信仰を集めている。社前にうず高く積み上げられている小石は神石のお礼石。神社で授かった祈念神石を自宅の神棚に祀り、願い事が成就した時にお礼の石を1個添えて神前に奉納する慣わしからこの小石の山ができた。

(写真は 祈念神石)

 何よりも車折神社を有名にしているのは境内社の芸能神社だろう。祭神の天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れた時、岩戸の前で舞を舞って天照大神を岩戸から出したと伝えられている。この神話から、芸能、芸術道の祖神として俳優や芸術家たちから信仰されてきた。
 境内を彩る朱塗りの玉垣は、人気スターや名優、芸術家たちが芸名やペンネームを記して奉納したもので、有名人の名前と色鮮やかな朱色が華やいだ雰囲気を生んでいる。また、社殿の柱や梁、屋根裏などには、所狭しと俳優の名前や写真などが願いを込めて貼られている。

芸能神社

(写真は 芸能神社)


 
有栖川・斎宮のみそぎ 放送 9月28日(木)
 嵐電の有栖川駅の西方を南へ流れる有栖川は、かつて斎宮が禊(みそぎ)をした由緒深い川である。今は斎王と呼ばれることが多い斎宮とは、古代から天皇の名代として伊勢神宮に仕えた皇女のことを言う。
 崇神天皇が皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じて、宮中に祀られていた天照大神を倭国の笠縫邑に移して祀ったのが斎王の始まりである。次いで垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、各地を巡行した後、伊勢の地に天照大神を鎮座したのが二代目の斎王とされている。飛鳥時代の用明天皇の時代を最後に一時途絶えていたが、天武天皇の時代に改めて制度化され、南北朝時代の後醍醐天皇の時代まで斎王の制度が続いた。

有栖川

(写真は 有栖川)

さざれ石(斎宮神社)

 天皇の即位ごとに斎王に選ばれた皇女は、まず宮城内の潔斎所・初斎院(しょさいいん)、次いで宮城外に設けた野宮(ののみや)で潔斎し、川で禊(みそぎ)、祓(はらい)の儀を行った。斎王に選ばれ潔斎期間の3年を経てから、官人、官女ら約500人の供を連れ、5泊6日の旅をして伊勢へ向かったが、この華やかな斎王行列を「斎王群行」と言った。
 有栖川東畔に鎮座する小社・斎宮神社はそうした野宮のひとつで、鎌倉時代初めの土御門天皇の時代までこの野宮が潔斎の場として使われたと伝えられている。

(写真は さざれ石(斎宮神社))

 斎宮神社境内には多くの小石の集められ、長い年月の間にひとつの大きな石のかたまり変化した「さざれ石」があり、この地の歴史の古さを思わせる。
 有栖川付近には「千代の古道(ちよのふるみち)」と刻まれた石碑が目につく。平安時代初め洛中から嵯峨野の大覚寺へ向かう道を「千代の古道」と言った。在原業平ら多くの歌人が歌に詠んだ古道で、大覚寺への参詣、広沢池での観月、火伏せの神の愛宕神社への参詣道でもあった。有栖川駅近くの京菓子店「笹屋良信」では、店頭に嵯峨野の銘菓として「千代の古道」「さざれ石」「嵯峨野」などを並べている。

京菓子司「笹屋良信」

(写真は 京菓子司「笹屋良信」)


 
和傘で粋に 放送 9月29日(金)
 嵐電終点・嵐山駅のひとつ手前が嵯峨駅前駅。雑踏の嵐山を控えながらあたりには静けさが漂う。この駅前駅と言う駅名は、すぐ近くのJR山陰本線(嵯峨野線)の嵯峨嵐山駅の駅前とのことから名付けられた。
 この静かな町並の中の「角宇商店」は、提灯(ちょうちん)と和傘を作り続けている老舗で、江戸時代からの作業方法が今もそのまま受け継がれている。日本に傘が到来したのは飛鳥時代の6世紀中ごろとされ、このころに朝鮮半島の百済の聖明王が蓋(きぬがさ)を大和朝廷に贈っている。当時の傘は布を張った大型の傘で、貴人たちが供の者に差し掛けさせて日除け用に用いていた。

傘・堤灯「角宇商店」

(写真は 傘・堤灯「角宇商店」)

堤灯

 提灯は盂蘭盆(うらぼん)の時に先祖の霊を迎えて供養をする盆提灯が始まりとされており、仏教が伝来した飛鳥時代に日本に伝わり作られようになったと見られている。
 電気のなかった時代の必需品だった提灯は和紙と竹で作られている。手に持つ柄がついて足下を照らすぶら提灯、江戸時代の捕り物でおなじみの御用提灯など弓のような形の柄の先につけた弓張り提灯、竹や棒の先に取り付けて玄関などに高く掲げる高張提灯、祭の時に軒先に吊るす祭礼提灯、折りたためば携帯に便利な小田原提灯など13種類ほどの提灯がある。

(写真は 堤灯)

 和傘は初めは主に日除け用として使われていたが、江戸時代から雨具としても使われるようになった。庶民が使う番傘、広げたときに蛇の目のように見え主に女性が使う蛇の目傘、茶道の野点用の大傘、本来の傘の用途の日傘、日本舞踊に使う舞傘などがある。
 水には弱いはずの紙が雨を防ぐ役目をするのは、傘の骨に張られた和紙にエゴマの油や綿実油、桐油、麻の実の油などを塗っているからだ。油が空気中の酸素と化学反応して透明の被膜を作って水をはじくようになる。これを見つけた先人の知恵から生まれたのが和紙を使った和傘である。

和傘

(写真は 和傘)


◇あ    し◇
木嶋神社(蚕の社)  京福電鉄嵐山線蚕の社駅下車徒歩5分。
市五郎稲荷京福電鉄嵐山線三条口駅下車徒歩5分。
北平(土居の庭のあるおばんざい料理店)京福電鉄嵐山線、阪急電鉄京都線西院駅下車
徒歩2分。
車折神社京福電鉄嵐山線車折駅下車すぐ。
斎宮神社京福電鉄嵐山線有栖川駅下車徒歩4分。
京菓子司・笹屋良信京福電鉄嵐山線有栖川駅下車徒歩3分。
角宇商店(提灯、和傘)京福電鉄嵐山線鹿王院駅下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
京福電鉄075−801−5315
木嶋神社(蚕の社) 075−861−2074
京都市観光振興化(御土居、斎宮神社)075−222−4133
北平(土居の庭のあるおばんざい料理店)075−311−1873
車折神社075−861−0039
京菓子司・笹屋良信075−871−0526
角宇商店 (提灯、和傘) 075−861−0246

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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