月〜金曜日 18時54分〜19時00分


亀山市、鈴鹿市、四日市市

 今週は滋賀、三重県境の鈴鹿峠から東海道の宿場町を東へ四日市までたどってみた。鈴鹿峠の東側の宿場町・関町は平成17年(2005)1月に亀山市と合併している。訪れた鈴鹿峠から坂下宿、関宿、亀山宿、庄野宿、石薬師宿、四日市宿は、時代の移り変わりとともに町は変化しているが、街道筋には今も宿場町の面影があちこちに残っていた。


 
鈴鹿峠から坂下宿へ(亀山市) 放送 10月23日(月)
 滋賀と三重の県境の鈴鹿峠は、かつて東海道中で箱根と並ぶ最大の難所であった。現在は国道1号が通り、峠の下をトンネルが抜けており、この国道に沿って残っている旧東海道が昔の面影をしのばせている。
 鈴鹿峠の名物は今から270年ほど前の江戸時代中期に建立された、高さ5.44m、重さ38トンもある巨大な石燈籠「万人講常夜燈」である。この常夜燈は四国・金比羅神社の常夜燈として建てられた。東海道を行き来する行商人の信者たちが、常夜燈に灯りをともして道中の安全を海の向こうの金比羅神社に祈った。鈴鹿峠は平安時代から盗賊が出没して旅人たちが大いに悩まされたとも伝えられている。

万人講常夜燈

(写真は 万人講常夜燈)

坂下宿

峠から三重県側へ茶畑の脇を抜ける往時さながらの土道や石畳の道を下ると、片山神社を経て東海道五十三次48番目の坂下(さかのした)宿へたどり着く。
 坂下宿は今はひっそりとした町並になっているが、かつては「坂の下では大竹、小竹」と鈴鹿馬子唄にも唄われた立派な本陣や脇本陣、それに48軒もの旅籠(はたご)でにぎわった東海道でも屈指の宿場だった。この坂下宿に鈴鹿馬子唄会館があり、保存会の人たちによって「正調鈴鹿馬子唄」が唄い継がれている。

(写真は 坂下宿)

 旅人たちの中には坂下宿や関宿で馬を雇い難所の鈴鹿峠を越えた。その馬子たちが馬を引きながら唄ったのが鈴鹿馬子唄。馬子唄としては日本の南限とされ、その歌詞は宿場町の情緒的な風情を唄い込んでおり、ほかの馬子唄にない艶っぽさがある異色の馬子唄と言われている。
 坂下宿から関宿に向かうと東側に筆捨山がある。歌川広重も東海道五十三次・坂之下」でこの筆捨山を描いている。正式の名は岩根山だったが、室町時代の絵師・狩野元信がこの山の姿を思うように描けず、筆を捨てたことに由来してこの名がつけられたと言う。

鈴鹿峠

(写真は 鈴鹿峠)


 
関宿(亀山市) 放送 10月24日(火)
 坂下宿の東が東海道47番目の宿場町・関。東西の追分の間1.8kmの道筋には、江戸、明治時代の古い町家が200軒ほど残っていて、他の宿場町より旧東海道の面影を色濃くとどめている。街道筋の町家にはさまざまな形の虫籠(むしこ)窓、自由に上げ下げのできる棚の揚げ店など、現代建築には見られないものが多く残っている。こうした街道筋の景観が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されてる。
 古代には伊勢・鈴鹿の関が置かれ、美濃(岐阜県)・不破の関、越前(福井県)・愛発(あらち)の関と並んで古代三関のひとつであった。現在の地名もこの鈴鹿の関に由来している。

片岡鍛冶店

(写真は 片岡鍛冶店)

関宿旅籠玉屋歴史資料館

 「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と唄われた、関宿を代表する大旅籠のひとつが玉屋。平成6年(1994)から保存修復工事を行い、江戸時代の旅籠の姿を取り戻し「旅籠玉屋歴史資料館」として一般公開、江戸時代の貴重な旅籠建築そのものに加えて、当時の旅籠の道具類や食器、書画、庶民の旅の歴史資料などを見ることができる。土蔵には歌川広重の「東海道五十三次」の浮世絵が展示されている。
 また、関宿の伝統的な町家を「関まちなみ資料館」として公開して、関の文化財や関宿に関する歴史資料を展示している。

(写真は 関宿旅籠玉屋歴史資料館)

 関宿の東の追分は東海道と伊勢街道の分岐点で、伊勢神宮遥拝のための大鳥居が立っている。
この大鳥居は伊勢神宮の20年毎の式年遷宮で立て替えられる内宮・宇治橋南詰の大鳥居を移して再建している。西の追分は東海道と大和街道の分岐点。
 関宿の町並を一望するには、関が江戸から106里余りあることから「百六里庭」と名づけられた小公園に建つ眺関亭がベストポジション。東の追分近くには大名行列の一行を送迎した御馳走場がある。また関には江戸時代から続いている鍛冶屋や桶屋が健在で、昔ながらの手作業で刃物や花桶などを作っている。

御馳走場

(写真は 御馳走場)


 
広重の見た城下町(亀山市) 放送 10月25日(水)
 東海道五十三次46番目の宿場町・亀山は、東西2.5kmで、西隣の関宿と比べると小規模な宿場町だったが、亀山城の城下町を加えると大きな町であった。
 街道沿いの野村一里塚は、慶長9年(1604)に徳川家康の命によって、当時の亀山城主・関一政が築いたと伝わる。三重県内の東海道には一里塚が12カ所あったが、その中で唯一原形をとどめている一里塚である。本来は街道の両側に塚が築かれ塚上に巨樹が植えられていた。野村一里塚は大正3年(1914)に南側の塚が取り壊され、現在残る塚には樹齢400年、高さ33mのムクの大樹が、旅人を導くかのように枝葉を広げている。

加藤家長屋門

(写真は 加藤家長屋門)

かめやま美術館

 一里塚は東海道、東山道、北陸道に江戸・日本橋を起点に一里(約4km)ごとに塚を築き、旅人の目安としたものである。一里塚5間(9m)四方言われ相当大きなものであった。こうした一里塚は今も各地の旧街道筋にわずかながら残っている。
 東海道五十三次と言えば歌川広重の絵があまりにも有名だが、亀山の情景は「亀山雪晴」。亀山城の多聞櫓を取り入れ、雪晴れの空のかなたに鈴鹿峠が望める。亀山市内の「かめやま美術館」は、歌川広重の保永堂版「東海道五十三次」をメインに街道・旅をテーマに収集した版画を展示しており見ておきたい。

(写真は かめやま美術館)

 亀山城は豊臣秀吉の武将だった岡本宗憲が、旧城の南東の丘陵地に平山城を築いた。約2000mの白亜の土塀が巡らされ、これがチョウの舞う姿に見えたことから「粉蝶(こちょう)城」とも呼ばれていた。江戸時代に入り東海道の要衝を占める城として、譜代大名を中心に城主が目まぐるしく変わった。
 当初は天守閣があったが江戸時代初期に取り壊され、その跡に平屋建ての多聞櫓が建てられた。
その多聞櫓は明治維新後もそのまま残り、三重県内に残る唯一の城郭建造物として三重県の史跡に指定されている。旧城郭の一角には家老・加藤家の長屋門と土蔵が残っており、江戸時代中期の武家屋敷建築様式を伝えている。

亀山城跡

(写真は 亀山城跡)


 
庄野宿から石薬師宿へ
(鈴鹿市)
放送 10月26日(木)
 亀山宿から東へ2里の庄野宿。歌川広重が描く「庄野の白雨」は、突然降り出したしのつく雨の坂を行く駕篭や鍬をかついで走り抜ける農夫たちの姿に臨場感があふれ、広重の作品にはめずらしく動的でスピード感がある。「雪の蒲原」「雨の庄野」は広重の東海道五十三次の絵の中でも傑作として知られる。
 庄野宿は慶長6年(1601)に東海道に宿場が定められてから23年後の寛永元年(1624)に東海道45番目の宿として設けられた。

庄野宿資料館(旧小林家住宅)

(写真は 庄野宿資料館(旧小林家住宅))

石薬師寺

 江戸時代に油屋だった旧小林家住宅を鈴鹿市が買い取り、母屋の一部を当時の姿に復元して庄野宿資料館として一般公開、庄野宿本陣の大名別の宿帳などの文書や高札、諸藩朱印控帳や当時の民具、農具などを展示している。あわせて小林家の子孫で日本画家の故小林彦三郎氏の作品や文書などが展示されている。
 庄野宿から次の石薬師宿までの距離が近いことは、東海道中では愛知県の御油?赤坂間に次ぐものである。初め四日市?亀山間に宿場がなく、旅人が難渋していたので元和2年(1616)に石薬師宿、さらに庄野宿が設けられた。庄野、石薬師宿とも泊まり客や取り扱う荷物が少なかったので、あまり繁栄していなかったようだ。

(写真は 石薬師寺)

 江戸時代から鈴鹿が誇ってきた特産品で国の伝統工芸品に指定されているのが「鈴鹿墨」と「伊勢形紙」。これらの特産品については東海道筋からは外れるが、鈴鹿市伝統産業会館で詳しく紹介している。
 鈴鹿墨の製造は奈良時代末の延暦年間(782〜806)に遡る。鈴鹿山中の松の木の油を燃やしたすすで墨を作った。江戸時代に入って墨の需要が増えて一大生産地になり、現在も奈良と並んで墨の主産地となっている。伊勢形紙は着物の柄や文様を染めるのに用いられ、現在、全国の生産量の99%を占めている。最近は染色用具だけでなく、美術工芸品やふすま、しょうじ、あんどんなど装飾品として使われている。

鈴鹿墨

(写真は 鈴鹿墨)


 
街道筋の名物(四日市市) 放送 10月27日(金)
 四日市と言えば石油コンビナートに代表される工業都市のイメージが強いが、江戸時代には東海道五十三次43番目の宿場町として栄えていた。当時の宿場町の中心地は現在、近鉄四日市駅前の繁華街となって宿場町の面影はない。わずかに江戸の辻と呼ばれる道端に「すぐ江戸 京いせみち」と刻まれた複製の道標が建てられ、かつての宿場町の存在を知らせている。
 現在は国道と県道になっている東海道と伊勢参宮街道の分岐点の「日永の追分」には、伊勢神宮遥拝の鳥居や常夜燈が立ち、すぐそばの道標には「右京大坂道」「左いせ参宮道」「すく江戸道」と刻まれている。

神宮遙拝鳥居

(写真は 神宮遙拝鳥居)

なが餅 笹井屋

 この日永の地名に因む街道名物が「なが餅」。柔らかい餅を長さ20cm、幅3cm近くまで長く伸ばし、小豆のあんを入れ鉄板で焼きあげた素朴なものだ。この形から牛の舌とも呼ばれ、ほかに日永の餅、永餅、長餅、笹餅などと呼ばれたこともあったが、今はなが餅となっている。
 なが餅は戦国時代の天文19年(1550)初代当主が、四日市宿の鹿化(かばけ)川河畔に茶店を開いて作ったのが始まりで、以来、そのまろやかな甘さで旅人たちの疲れを癒してきた。現在は近鉄四日市駅近くに本店を移し、昔ながらの味で四日市の土産品として根強い人気がある。

(写真は なが餅 笹井屋)

 もうひとつの四日市名物は柄の丸い「日永うちわ」。日永うちわの起源は定かでないが、江戸時代から東海道を行き来する旅人やお伊勢参りの客たちの土産物として売り出された。この付近に自生していた女竹(めだけ)を使い、柄とうちわの骨が一体となった作りが握りやすく、柔らかな風が送れると喜ばれた。うちわ絵には美人画や富士山、伊勢神宮などが描かれていた。
 明治時代まで10数軒あった製造業者も生活様式の変化で需要が減り、今は1軒だけになった。
最近はうちわ絵に歌川広重の東海道五十三次の浮世絵や伊勢形紙を使い、これが室内装飾品として人気がある。

日永うちわ(稲藤)

(写真は 日永うちわ(稲藤))


◇あ    し◇
鈴鹿峠、万人講常夜燈JR草津線貴生川駅からあいくるバスで熊野神社前駅下車
徒歩約20分。
JR関西線関駅からバスで伊勢坂下下車徒歩約40分。     
坂下宿JR関西線関駅からバスで伊勢坂下下車。
鈴鹿馬子唄会館JR関西線関駅からバスで鈴鹿馬子唄開館前下車。
関宿JR関西線関駅下車徒歩5分。
関宿旅籠玉屋歴史資料館JR関西線関駅下車徒歩10分。
亀山宿JR関西線亀山駅下車徒歩5分。
野村一里塚JR関西線亀山駅下車徒歩25分。
亀山城跡JR関西線亀山駅下車徒歩10分。
かめやま美術館JR関西線亀山駅からバスで太岡寺下車徒歩3分。
庄野宿、庄野宿資料館JR関西線加佐登駅下車徒歩10分。
石薬師宿JR関西線加佐登駅からバスで佐々木記念館前下車徒歩3分。
石薬師寺JR関西線加佐登駅からバスで上田口徒歩5分下車。
鈴鹿市伝統産業会館近鉄名古屋線鼓ヶ浦駅下車徒歩10分。
日永の追分近鉄内部線追分駅下車徒歩3分。
なが餅・笹井屋近鉄四日市駅下車徒歩20分。

近鉄四日市駅からバスで中町下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
亀山市商工農林課0595−82−1111
亀山市観光協会0595−97−8877
鈴鹿馬子唄会館0595−96−2001
亀山市関支所0595−96−1212
関宿旅籠玉屋歴史資料館0595−96−0468
かめやま美術館0595−83−1238
鈴鹿市観光協会0593−80−5595
庄野宿資料館0593−70−2555
鈴鹿市伝統産業会館0593−86−7511
四日市観光協会0593−57−0381
なが餅・笹井屋0593−51−8800

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会