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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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大阪市・真田幸村と大坂の陣 |
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦で勝利した徳川家康は、徳川幕府の基礎を確固たるものにすべく、策を弄して豊臣家潰しを画策する。大坂夏の陣で大坂城は落城し、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡した。この大坂の陣で豊臣方の武将として大活躍するのが真田幸村。後に豊臣方の英雄として講談や少年読物にも登場する。 |
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三光神社近くの円珠庵境内のエノキの木は、古来から霊木として信仰を集めていた。真田幸村は大坂冬の陣の時、このエノキに鎌を打ちつけて戦勝を祈願し、大いに戦功をあげたとの伝えがある。以来、このエノキを「鎌八幡」と呼び、鎌を打ち込んで悪縁を絶つ願掛けをする人が増え、今も多くの鎌が打ち込まれている。 |
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(写真は 円珠庵(鎌八幡)) |
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幸村は退却の際にもさまざまな奇策を用いて徳川軍を翻弄している。家康が必ずこの道を進撃してくるだろうと予測し、樋尻口地蔵堂(平野区平野東)の地中に地雷を仕掛けた。予想通り家康はこの地蔵堂で休息し、かまどで火を焚いた。だが、家康は小用を催し、地蔵堂の外へ出ている時に地雷が爆発して命拾いをした。 |
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(写真は 首地蔵(全興寺)) |
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幸村最後の地と伝えられる安居神社境内には「真田幸村戦死跡之碑」が立っている。このほか河内から天王寺周辺にかけて大坂冬の陣、夏の陣の史跡、豊臣、徳川方の武将たちの墓や戦死の碑などが数多くある。 |
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(写真は 網代駕籠 |
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信濃国・松代藩主真田家が編纂した「先公実録」には、薩摩に落ちた幸村は、山伏の姿に身をやつして山中に住み、時折、秀頼のもとを訪ねたと記している。 |
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(写真は 新撰実録泰平楽紀大阪設立之図) |
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江戸時代中期に著された真田幸隆・昌幸・幸村三代の事績を記した「真田三代記」にも、十勇士のうち三好青海入道ら6人の名が見え、ほかに霧隠鹿右衛門と書かれているのが霧隠才蔵とみられる。また江戸時代後期の天保4年(1833)に写本した「真田三代実記」にも猿飛佐助の名が出ており、いずれも江戸時代末に作成された資料なので、あながち立川文庫の創作として片づける訳にはいかない面もある。 |
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(写真は 真田三代記(真田氏歴史館 蔵)) |
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