月〜金曜日 18時54分〜19時00分


箕面市、池田市

 箕面市と池田市は戦後、ベッドタウンとして発展した大阪北西部の都市。両市とも自然に恵まれた背後地を利用した公園を持ち、近隣の人たちに憩いの場を提供している。また古代から開けてきた歴史を示す社寺や文化財も多く、伝統行事なども受け継がれている。


 
燃ゆる滝道(箕面市) 放送 12月11日(月)
 大阪で紅葉の名所と言えば箕面。江戸時代から大坂商人たちの行楽の地でもあり、今も秋は紅葉、春は桜の観光地として庶民に親しまれている。
 明治4年(1871)に明治新政府は、東京の高尾山とともにわが国初の公園に指定、明治31年(1898)に大阪府立箕面公園になった。昭和42年(1967)に東京都の高尾山とともに明治100年を記念して国定公園に指定された総面積963平方kmの公園。公園内の高さ33mの岩壁落ちる箕面滝は天下の名瀑として知られているが、もともとは役行者に始まる修験者の荒行の場と伝えられている。

野口英世 像

(写真は 野口英世 像)

唐人戻り岩

 樹林の間から見る滝の形が農具の「箕」に似ていることから箕面滝と呼ばれ、これが地名の由来にもなった。春の桜、初夏の新緑、夏の納涼など四季折々に異なった景観と雰囲気を見せる滝だが、特に秋の紅葉と箕面滝のマッチングは見事で、多くの行楽客がこの景色を満喫している。
 阪急電鉄箕面駅からの箕面滝に通じる箕面川沿いの滝道は、変化する川面の美しさや鳥のさえずりなどが楽しめる手ごろなハイキングコース。滝道の両側には名物の紅葉のてんぷらなどの土産物店が軒を連ね、秋は紅葉のトンネルをくぐって緩やかに登りながら箕面滝へと導いてくれる。

(写真は 唐人戻り岩)

 滝道の途中に野口英世像が立っているが、これは大正4年(1915)に彼が米国留学から帰国した時、母を伴って自然豊かな箕面に遊んだことに因んで造立された。滝の手前にはこれまた母を伴って滝見物に訪れ、母に孝養を尽くした頼山陽の碑文があり、これらのことから箕面滝は「孝養の滝」とも呼ばれている。
 滝の手前に大きな二つの岩が道をふさぐようにそそり立っている。駕篭に乗って滝見物に訪れた中国・唐の使節が、この巨岩に恐れをなして逃げ帰ったと伝わる唐人戻岩(とうじんもどりいわ)や、突き出た岩が天狗の鼻のようだと言われる天狗鼻などの奇岩巨岩も景色にアクセントをつけている。

頼山陽の詩碑

(写真は 頼山陽の詩碑)


 
箕面弁財天・瀧安寺(箕面市) 放送 12月12日(火)
 箕面公園で箕面滝と並んで紅葉を愛でる絶好のスポットである瀧安寺(りゅうあんじ)は、斉明天皇4年(658)=一説には白雉元年(650)=に役行者によって開かれと伝わる。
 役行者は箕面滝で苦行を重ね秘法を感得して修験道の奥義を究めたが、その時、現れた弁財天の助けを受けたので、その報恩のために堂宇を建立して箕面寺と称したのが始まりと言う。こうしたことから修験道の根本道場となり、中世には僧坊80余が建つ大寺院となった。

箕面滝

(写真は 箕面滝)

弁天堂

 瀧安寺には多くの修験者が修行のために参籠し、その中には行基、空海、円珍、日蓮、法然、蓮如ら名僧、高僧の名が見える。
 本堂に祀られている弁財天像は、1400年の歴史を持つ日本最初、最古の弁財天像と伝わり、60年に一度開帳される秘仏で、江の島、琵琶の湖竹生島、宮島の弁財天ともに日本四弁済天のひとつでもある。
瀧安寺の山門は光格天皇が御所の門を下賜したもので「瀧安寺」と書かれた山門の扁額は、京都・聖護院の第30代座主・盈仁(えいにん)法親王の筆による。

(写真は 弁天堂)

 この扁額は後醍醐天皇が元弘の乱の失敗で隠岐に流された時、護良親王が瀧安寺に天皇還御の祈願を依頼、天皇が隠岐を脱出することができたので、建武の中興の際に後醍醐天皇から「瀧安寺」の寺号勅額が贈られた。
 戦国時代の天正年間(1573〜92)に始まった「箕面の富」は、江戸時代の「富くじ」の元祖とされ、宝くじ発祥の寺とも言われている。箕面の富は金銭が当たるのではなく、毎年行われた1月7日のお富み法会の時、大当たりの開運錦のお守りと一緒に鏡餅、福杖、長命箸などの賞品が授けられた。これが発展して江戸時代の「富くじ」となり、現代の「宝くじ」となった。

箕面山 瀧安寺

(写真は 箕面山 瀧安寺)


 
西国三十三ヵ所・第23番札所・勝尾寺(箕面市) 放送 12月13日(水)
 箕面滝から山道をさらに北へ進み、標高450mほどのところに勝尾寺(かつおうじ)がある。
神亀4年(727)摂津国の国司・藤原敦房の子の善仲(ぜんちゅう)、善算(ぜんさん)の双子の兄弟が草庵を結び修行を重ねていた。天平神護元年(765)光仁天皇の皇子・開成(かいじょう)が、この二人に師事して修行を積んだ。開成は伽藍(がらん)を建立、十一面観音菩薩像を本尊として弥勒寺と号した。
 浄土宗の宗祖・法然上人は、讃岐配流の帰途、勝尾寺で草庵を結び修行しており、今の二階堂がその旧跡と伝えられている。

多宝塔

(写真は 多宝塔)

本堂

平安時代初期に第6代座主・行巡上人が清和天皇の病気平癒を祈り、その効が顕れたことで天皇から「我が権力よりも力あり、王に勝つ寺、勝王寺」と寺号を賜ったが、それでは畏れ多いと「王」を控えて勝尾寺と号するようになった。
 以後、清和天皇の「王に勝つ」の寺号の由来から勝運の寺として知られ、清和天皇の血筋である源氏の武将をはじめ多くの武将たちの信仰を集め、必勝の祈願寺となった。同時に観音信仰の霊場の西国三十三ヵ所第23番札所しても多く人たちの信仰を集めている。

(写真は 本堂)

 勝尾寺のお守りのような存在が七転び八起きの「勝ちダルマ」。勝敗を決する勝負事や選挙、スポーツ、人生のさまざまな試練を乗り越えるために「勝ちダルマ」を求め、必勝祈願をしてもらう人が多い。勝尾寺のいたる所に勝運成就の勝ちダルマが奉納されている。
 勝尾寺の堂塔は源平合戦の際に兵火で焼失したが、源頼朝らの援助で再興された。現在の堂塔は頼朝再興の朱塗りの山門を除いて、ほとんど豊臣秀頼によって再建されたものである。
 御詠歌は「おもくとも つみにはのりの かちおでら ほとけをたのむ みこそやすけれ」。

勝運成就 奉納ダルマ

(写真は 勝運成就 奉納ダルマ)


 
呉服の里(池田市) 放送 12月14日(木)
 呉服(くれは)神社はわが国の機織り、裁縫の祖・呉服媛(くれはとりのひめ)を祀る着物、呉服の神社。伝説によると5世紀前期の応神天皇の時代、猪名津彦命(いなつひこのみこと)を中国・呉の国に遣わし、呉王に乞うて機織り、染色の高度な技術を身につけた呉服媛、綾織媛(あやはとりのひめ)姉妹ら4人を伴い日本へ帰ってきたという。
 呉服媛らは九州・筑紫浦、摂津・武庫の浦を経て猪名の港(唐船ヶ渕=池田市猪名川の呉服橋と絹延橋との中間)に到着した。この猪名の港近くに織殿を建て機織り、染色の技術を伝授させた。

呉服神社

(写真は 呉服神社)

絵馬

 姉妹は少しも倦むことなく昼夜にわたって絹糸を染め、布を織り、裁縫の技術をわが国に伝えた。呉服らが絹糸を染めた所を染殿井、その糸を掛けて晒した松を絹掛松と言い、その跡が今も池田市内に伝わっている。
 この機織りの技術が伝わったことで、それまでは熱さ寒さに合わせて着替える習慣のなかった日本に、寒暑に合わせた着物が登場した。呉服媛は仁徳天皇の代になって139歳で亡くなったと言われ、天皇はわが国に機織りの技術を伝え、衣服に大きな変革をもたらした呉服媛の功績を称え、神祠を建てて媛を神として祀った。

(写真は 絵馬)

 後醍醐天皇は呉服媛に呉服大明神の名を贈ったが、このころからわが国では絹布の着物を呉服(ごふく)と呼ぶようになり、今日では和服の着物のことを呉服と言っている。呉服媛と一緒に渡来した綾織媛も呉羽神社の北の伊居太(いけだ)神社に祀られている。
 呉羽神社は一時衰退したが、朝廷の崇敬が篤かったことから平安時代中期の天禄年間(970〜73)に源満仲が社殿を再興、慶長9年(1604)豊臣秀頼が社殿を修復している。

ステンドグラス

(写真は ステンドグラス)


 
織姫をしのぶ菓子(池田市) 放送 12月15日(金)
 和菓子はそれぞれの土地の風土になぞらえたり、伝説に因んで作られるものが多いが、池田市で昭和3年(1928)に創業した「香月」は、池田市の伝承、伝説を菓子を通じて知ってもらおうと菓子作りに創作を凝らしている。
 「猪名の月」とか「猪名の石」「池田栗」など、地名を冠したお菓子のほかに、池田市を代表する伝説のひとつ、わが国に機織りと裁縫の技術を伝えた呉服媛(くれはとりのひめ)、綾織媛(あやはとりのひめ)に因む菓子がある。

御菓子 司香月

(写真は 御菓子 司香月)

綾織(あやは)

 この二人の織姫に因む菓子が「くれは」と「あやは」。織物をイメージした「くれは」は、青梅の甘露煮を白あんとふっくらとしたお餅のような求肥(ぎゅうひ)で包んだお菓子。
 染め上げた絹糸を掛けた絹掛の松をイメージした「あやは」は、黒と白の豆を散らした白あんに卵、抹茶、粉を混ぜてしっとりと蒸し上げた浮島作りのお菓子。いずれも遠い中国から日本に渡り、異国で機織りの技術を伝えた織姫をしのび、心を込めて作られたお菓子と言える。

(写真は 綾織(あやは))

 古くからの池田市の特産に池田炭がある。炭の切り口が菊の花のようだったことから「菊炭」とも呼ばれ、豊臣秀吉が茶会に用いたり、宮中の茶会用に献上したと言う優れた炭である。
 この炭を細かなミクロパウダー状にした粉末をもなかの皮に入れたのが「池田炭入り里炭もなか」。墨の粉は体内の有害物を吸着して排出する効能があり、胃腸の漢方薬として古くから用いられており、人体に有効なゲルマニウムやカルシウムなどを含み、健康作りにもよい菓子だそうである。

里炭もなか

(写真は 里炭もなか)


◇あ    し◇
箕面公園阪急電鉄箕面線箕面駅下車徒歩5分。
箕面大滝阪急電鉄箕面線箕面駅下車徒歩50分。
瀧安寺阪急電鉄箕面線箕面駅下車徒歩15分。
勝尾寺地下鉄、北大阪急行千里中央駅から
バスで勝尾寺下車徒歩5分。
呉服神社阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩5分。
和菓子・香月阪急電鉄宝塚線池田駅下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
大阪府公園協会箕面公園管理事務所072−721−3014
瀧安寺072−721−3003
勝尾寺072−721−7010
呉服神社072−753−2243
和菓子・香月072−751−3675

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

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