月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・紀中の名所、特産品探訪 

 和歌山県の紀中は温暖な気候に恵まれ、温州ミカンの産地として知られ、海からは新鮮な魚介類が水揚げされている。アリの熊野詣≠ニ言われた熊野三山への参詣道の熊野古道も通っており、熊野詣の王子跡や歴史ある社寺も多い。こうした紀中の名所、特産品を探訪してみた。


 
紀州鉄道(御坊市)  放送 1月15日(月)
 御坊市は戦国時代の16世紀に建立された浄土真宗本願寺の日高別院が「御坊所」「御坊様」と呼ばれたのがその名の由来である。
 室町時代末期の細川、三好両軍の戦いの時、細川勢に加勢した日高・有田地方の領主で亀山城主の湯川直光は苦戦、山科本願寺に助けを求め、大和、河内の門徒衆の助力で亀山城に帰ることができた。この恩に報いるため吉原(現美浜町吉原)に坊舎を建て、本願寺に寄進したのが日高別院の始まり。その後、羽柴秀吉の亀山城攻めの兵火で坊舎は焼失したが、現在地に坊舎が再建されて寺内町として発展した。

西本願寺 日高別院

(写真は 西本願寺 日高別院)

紀州鉄道の車内

 JR紀勢線御坊駅0番ホームから日高別院のある御坊市街地へ向かって走る紀州鉄道は、全長2.7km、全部で5駅の間を8分で走るミニ・ローカル線。平成14年(2002)に千葉県の成田国際空港近くに芝山鉄道(全長2.2km)が開業するまでは、日本一短い鉄道だった。
 会社の設立は昭和3年(1928)で、旧国鉄御坊駅が市街地から遠く離れた所に設けられたため「それなら自分たちの手で鉄道を」と、町の篤志家らが中心になって鉄道会社を立ち上げた。昭和6年(1931)にまず御坊駅?紀伊御坊駅間が開業、その後、西御坊駅から日高川駅へと線路を延ばした。

(写真は 紀州鉄道の車内)

 当初は特産品のミカンや木材を日高川の港まで運ぶ貨物輸送が中心だったが、国鉄の貨物取り扱い廃止や物資の輸送が海運から陸運に変わり、平成元年(1989)西御坊駅?日高川駅間の営業を廃止した。
 レトロな車両が家々の軒先をかすめるように走る路線は、鉄道ファンに愛されている。紀州鉄道5駅のうち最も新しいのは、ホームに学門地蔵が祀られている「学門駅」。学門地蔵のお守りをセットにした入場券(550円)、入場券(120円)を発売しており、受験生たちから「学校の門に入場」と大人気で、受験シーズンには毎年この入場券を求める受験生が多い。この入場券は紀伊御坊駅で発売しており、郵送による販売もしている。

学門地蔵

(写真は 学門地蔵)


 
道成寺(日高川町)  放送 1月16日(火)
 安珍清姫の悲恋物語や娘道成寺などの能楽、人形浄瑠璃、歌舞伎などで全国に知られる道成寺は、大宝元年(701)の創建で、和歌山県下で現存する最古の寺である。
 道成寺を創建した宮子姫は御坊の海士(あま)の娘。生まれた時は頭に髪が生えず、母親が海底で黄金の観音像を見つけ、これを祀って祈願したところ黒髪が生え、美しい娘に育った。この黒髪の1本をツバメがくわえて藤原京の藤原不比等の屋敷の巣に持ち込んだ。この黒髪を見つけた不比等が「さぞかし美人であろう」と黒髪の主を探させ養女とした。この宮子姫が後に文武天皇の皇后、聖武天皇の母となった。

本尊 千手観世音菩薩・施無畏手

(写真は 本尊 千手観世音菩薩・施無畏手)

清姫之像(左)・安珍之像(右)

 文武天皇の皇后・宮子は、幸せにしてもらった観音様を故郷に祀りたいと文武天皇に願い出た。天皇の勅願寺として紀大臣道成が義淵僧正を開山に創建、道成の名を取って道成寺としたと伝わる。
 本尊の千手観音菩薩立像、脇侍の日光、月光両菩薩立像はいずれも国宝。このほか国の重要文化財に指定された仏像、建造物などが多い。その中のひとつが安珍・清姫の悲恋物語を描いた重要文化財指定の「道成寺縁起絵巻」。この縁起絵巻の写本を安珍・清姫像が安置されている縁起堂で、僧侶が広げて行う絵説き説法が道成寺を参詣した人たちの人気を集めている。

(写真は 清姫之像(左)・安珍之像(右))

 平安時代中期の延長6年(928)奥州・白河の美男僧・安珍が、熊野詣の途中でとある庄司の家に泊まった。その家の娘・清姫が安珍に恋して言い寄った。安珍は「熊野詣の途中なので帰りに…」と言い逃れ、帰途は素通りした。これに気づいた清姫が後を追い、日高川を大蛇に身を変えて渡り、道成寺の大鐘の中にかくまわれていた安珍を見つけ、大鐘に蛇体を巻きつけ、口から紅蓮の炎を吐いて鐘もろとも安珍を焼き殺すと言う、人間の業の深さを思わせる物語。
 道成寺境内には安珍の亡骸と鐘を埋めた安珍塚、鐘楼跡には石碑が立ち、寺の近くには清姫が化身した大蛇を埋めた蛇塚がある。

安珍塚

(写真は 安珍塚)


 
アメリカ村(美浜町)  放送 1月17日(水)
 美浜町の煙樹ヶ浜から景勝地・日ノ岬に向かう途中の小さな漁村の三尾集落が、旧三尾村で別名・アメリカ村として知られている。純和風の住宅に混じって洒落た洋風のたたずまいの住宅が目につき、時には英語交じりの会話が交わされると言う、アメリカ村らしい風景と雰囲気を醸し出している。
 かつての三尾村は耕地が少なく、古くから村人たちは生きる糧を海に求めてきた。漁業の近代化に伴い、新天地を求めた漁民たちのアメリカ大陸、特にカナダ西部への移民が始まった。

日ノ御崎燈台

(写真は 日ノ御崎燈台)

アメリカ村資料館

 旧三尾村の大工・工野儀平衛さんは、横浜で大工の仕事をしている時、商船の乗組員からカナダの農業と漁業の状況を聞き、その将来性に期待して明治21年(1888)単身カナダへ渡った。
 そのカナダでサケの大群を目にし、漁業の将来性を確信して翌年から弟や親類、縁者、村の人たちを呼び寄せた。カナダへの移民は最盛期の昭和10年(1935)には2千数百人に達した。三尾村からの移民者の面倒を献身的にみた工野さんは、やがてカナダ移民の父とも言うべき存在となった。

(写真は アメリカ村資料館)

 カナダ移民者から肉親への送金が村の経済を潤し、神社への寄付者の寄付金額がドルで記載されているほどだった。移民の歴史は決して恵まれたものばかりではなく、苦難の連続でもあった。中でも第2次世界大戦時には敵国民として強制収容させられた時代もあった。こうしたカナダ移民の歴史を知る資料が日ノ岬パークの「アメリカ村資料館」に展示されている。
 戦後、村へ引き揚げたり、老後を故郷で過ごそうと帰国してきた人たちは、故郷に木造洋館風の家を建て、ベッド、パンとコーヒーの朝食、英語交じりの生活などから「アメリカ村」と呼ばれるようになった。

アメリカ村

(写真は アメリカ村)


 
醤油のふるさと(湯浅町)  放送 1月18日(木)
 鎌倉時代中期の建長元年(1249)中国・宋に留学した法燈国師は、修行のかたわら径山寺味噌(きんざんじみそ)の製法を教わり帰国した。法燈国師は現在の由良町に興国寺を建立し、地元の人たちに径山寺味噌の製法を教えた。
 湯浅で法燈国師に教わって味噌が作られる過程で、樽底に沈殿した液体が調味料に適していることが分かり、これに改良を加えてたものが醤油に発達、湯浅が醤油発祥の地となった。湯浅醤油の元になった径山寺味噌は、今も湯浅、由良両町の特産品として作られている。

生醤油

(写真は 生醤油)

明治初期・湯浅豪商図

 湯浅醤油は戦国時代の天正年間(1573〜92)に大阪へ出荷し、湯浅醤油として有名になった。時代は下って江戸時代には紀州藩・徳川家の保護を受けた湯浅の醤油産業は、江戸方面へも販路を拡大して大いに栄え、文化、文政年間(1804〜30)には、湯浅の町の1000軒のうち92軒が醤油屋だったと言う。
 その後、千葉の銚子をはじめ全国にその製法が伝えられたが、近年は大量生産の醤油メーカーの商品が主流を占め、湯浅醤油の醸造元は少なくなったが、地元の老舗では湯浅だまり≠フ名に誇りを持ち、昔通りの製法で1年半の歳月をかける天然醸造を守っている。

(写真は 明治初期・湯浅豪商図)

 湯浅醤油の老舗・角長(かどちょう)は、消え行く昔ながらの湯浅醤油の製法やその資料、醤油製造に使われた道具類を「職人蔵」に展示している。この職人蔵は幕末の慶応2年(1866)に建てられた仕込蔵を転用したもので、道具類は醤油の製造工程順に並べられており、当時の醤油造りの様子がよく分かる。
 職人蔵の名はかつて仕込蔵の中で職人たちが醤油造りに汗水をたらし、湯浅醤油を天下の醤油に仕上げた職人たちを讃えて名づけられた。

角長醤油

(写真は 角長醤油)


 
黒竹の里(日高町)  放送 1月19日(金)
 日高町から北東の隣町・広川町に通じる熊野古道の鹿ヶ瀬(ししがせ)峠の日高町側に、全長503mにわたる石畳の道が残っている。この石畳は熊野古道に現存する最長の石畳道で、山間の静寂の中に続くこの石畳道は、今も古の趣を漂わせている。
 平安時代に都の上皇、天皇や女院、貴族たちが熊野三山を目指して歩んだ道で、鹿ケ瀬峠は熊野古道の中でも指折りの難所だった。平安時代の歌人・藤原定家は「崔嵬(さいかい)の険阻(けんそ)」と記して嘆いている。峠の頂上付近には、往時のにぎわいをしのばせる茶屋跡や旅籠(はたご)跡などが残っている。

題目板碑

(写真は 題目板碑)

黒竹の竹林

 日高町から湯浅町に通じる熊野古道には熊野九十九王子のうち八王子跡がある。石畳道の手前には題目板碑と呼ばれる8基の石塔婆が立ち並んでいる。法華堂跡に散在していたものを1ヵ所に集めたもので、室町時代中期の永享、嘉吉、寛正などの年号が刻まれている。このほか沿道には爪書き地蔵などの石仏が数多く祀られている。
 この日高町?湯浅町までの熊野古道約17km、約4時間50分のコースは、最近、熊野古道巡りのハイキングコースとして親しまれ、古道沿いの史跡や自然を楽しみながら歩く人が多い。

(写真は 黒竹の竹林)

 もうひとつ、熊野古道を歩くハイカーたちの目を楽しませてくれるのが、日高町原谷地区の古道沿いに広がる約60haの黒竹の竹林。黒竹は中国原産で青竹と比べて幹が細く、文字通り外皮が黒いのが特徴で、原谷地区は黒竹の生産高日本一を誇っている。
 伐採した黒竹は年季の入った職人の目と手で、油抜き、伸ばしといった工程を経ると独特の艶が出てくる。この艶と風雅さを持った黒竹は、釣竿や建築、家具の装飾材、室内装飾などに重宝されている。原谷地区の紀州黒竹民芸品組合で民芸品製作の見学ができ、完成した民芸品の販売が行われている。

民芸品

(写真は 民芸品)


◇あ    し◇
浄土真宗西本願寺日高別院紀州鉄道西御坊駅下車徒歩7分。 
学問地蔵紀州鉄道学門駅下車。 
道成寺JR紀勢線道成寺駅下車徒歩5分。 
アメリカ村JR紀勢線御坊駅からバスでアメリカ村下車。 
アメリカ村資料館JR紀勢線御坊駅からバスで日ノ岬パーク下車。 
角長(かどちょう)醤油JR紀勢線湯浅駅下車徒歩15分。 
鹿ヶ瀬(ししがせ)峠JR紀勢線紀伊内原駅からタクシーで金魚茶屋下車
徒歩35分。 
JR紀勢線紀伊内原駅下車徒歩約2時間20分。
JR紀勢線湯浅駅下車からバスで河瀬下車
徒歩約1時間10分。
JR紀勢線湯浅駅下車徒歩約2時間40分。
熊野古道石畳道JR紀勢線紀伊内原駅からタクシーで金魚茶屋下車
徒歩15分。 
JR紀勢線紀伊内原駅下車徒歩約2時間10分。
題目板碑JR紀勢線紀伊内原駅からタクシーで金魚茶屋下車
徒歩5分。 
JR紀勢線紀伊内原駅下車徒歩約2時間。
黒竹の里・原谷JR紀勢線紀伊内原駅からタクシーで原谷下車。 
JR紀勢線紀伊内原駅下車徒歩約1時間15分。
◇問い合わせ先◇
和歌山県観光連盟073−441−2775 
紀州鉄道紀伊御坊駅0738−23−0001 
道成寺0738−22−0543 
美浜町役場0738−22−4123 
アメリカ村資料館0738−62−2326 
角長醤油0737−62−2035 
日高町観光協会0738−63−3806 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会