月〜金曜日 18時54分〜19時00分


藤井寺市、河内長野市

 南河内地方の藤井寺市、河内長野市あたりは古代から開け、王家や豪族の古墳が点在している。優れた文化や技術を持った渡来人が早くから住み着き、古代から文化の先進地となった。中世以降も歴史の舞台にしばしば登場しており、由緒ある古社寺も多く、高野街道沿いには古い町並も残っている。


 
道明寺天満宮(藤井寺市) 放送 3月12日(月)
 菅原道真が梅の花をこよなく愛し、太宰府へ赴任する時に妻子に「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」と詠んだ歌は有名である。こうしたことから全国の天満宮では梅が見られるが、ここ道明寺天満宮の梅林も見事な花をつけている。2月から3月にかけて90種900本の梅が咲きそろい、地元の愛好家による盆梅展も開かれて、境内一帯が芳香に包まれる。
 全国各地にある天満宮の神紋は梅の花をデザインした梅鉢がほとんど。道真は学門の神様として崇められて各地で天神信仰が盛んになり、菅原氏の後裔とされる家系では梅鉢を家紋としている。
ほかに天神を信仰する大名や武将の中には梅鉢を家紋にしている人物もいる。

拝殿

(写真は 拝殿)

梅林

 道明寺天満宮が鎮座するこのあたりは、土師(はじ)の里と呼ばれているが、垂仁天皇の時代に野見宿禰(のみのすくね)が、埴輪を作って殉死の制度に代えた功によって、土師の姓とこの一帯を所領地として賜ったことによる。
 宿禰は天照大神の御子で遠祖の天穂日命(あめのほひのみこと)を祀って創建した土師神社が道明寺天満宮の始まりとされる。仏教伝来に伴って土師寺も建立され、後に道真の別名・道明にちなんで道明寺に寺名が改められた。道真没後の天暦元年(947)に道真が彫った道真像を祀ったの道明寺天満宮で、明治維新の神仏分離令で道明寺が分離され、約200m西に移された。

(写真は 梅林)

 道真は40歳の時、土師寺の住職だった伯母の覚寿尼を訪ね、4月から7月まで滞在して大乗経の写経や道明寺の本尊となっている十一面観音像(国宝)を刻んだ。また写経する際に使った青白磁円硯(せいはくじえんけい)は国宝に指定されている。
 太宰府に向かう途中、淀川河口に船を止め、土師寺の伯母を訪ねて別れを惜しみ一夜を過ごし、犀角柄刀子(さいかくえとうず)で自分の像を刻んでおり、この像が祭神として天満宮に祀られている。この犀角柄刀子は道明寺天満宮に伝わり国宝に指定されている。このほか天満宮には国宝、重要文化財の社宝が多く、菅公絵伝屏風に道真の生涯が60枚の扇面に描かれた金地扇面彩色画は、貴重な存在とされている。

盆梅展

(写真は 盆梅展)


 
観心寺(河内長野市) 放送 3月13日(火)
 金剛山西方の緩やかな傾斜地に建つ観心寺は、飛鳥時代末の大宝元年(701)役小角(えんのおずぬ)によって草創され、初めは雲心寺と呼ばれていた。100年余り後の大同3年(808)に弘法大師・空海が、境内に北斗七星を勧請、本尊で秘仏の如意輪観世音菩薩像を刻み、寺号を観心寺と改めた。
 弘法大師は高野山の根本道場建立に専念するため、観心寺を筆頭弟子の道興(どうこう)大師・実恵(じちえ)に寺を任せた。実恵は伽藍(がらん)建立を弟子の真紹(しんしょう)と共に取り組んだ。金堂を中心に北斗七星の七つの星塚が取り巻いており、北斗七星を祀る寺は観心寺がわが国唯一で、貧狼星(とんろうじょう)巨門星(こもんじょう)などの星塚を一巡するとその年の厄が払われると言われている。

金堂

(写真は 金堂)

北斗七星・星塚 貧狼星(とんろうしょう)

 弘法大師自刻の本尊・如意輪観世音菩薩像(国宝)を祀る壮大な金堂は、建武の新政後の建武元年(1334)ごろに後醍醐天皇の勅により楠木正成が造営した。単層入母屋造の和様、禅宗様、大仏様の折衷形式で「観心寺様式」と呼ばれる代表的な建物とされている。昭和59年(1984)の大修理まで度々の修理が行われており、大阪府下最古の国宝建造物である。
 本尊の如意輪観世音菩薩像は秘仏となっており4月17、18日の2日間のみ開扉され、拝観できる。榧(かや)の一木造で六つの腕を持つ六臂(ろっぴ)像で、右ひざを立て、豊満な顔に切れ長の鋭い目が印象的な平安時代初期の最高傑作と言われている。

(写真は 北斗七星・星塚 貧狼星
                                  (とんろうしょう))

 南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えた武将・楠木正成は、観心寺と関わりが深い。8歳から15歳まで楠木家の菩提寺だった観心寺の中院で学んでおり、境内には正成の首塚もある。金堂脇の建掛塔(たてかけのとう)は、正成が建武中興の無事を祈って三重塔を発願して建立しようとしたが、湊川の戦で討死したため、初層までで建立が中断された。初層の屋根は茅葺きにされて今日の姿として伝わっており、塔内には大日如来像が安置されている。
 また南朝の後村上天皇が一時、観心寺塔頭の総持院を行宮としたこともあり、住吉行宮で没した後、観心寺に葬られ檜尾(ひのお)陵をなっている。

建掛塔

(写真は 建掛塔)


 
天野山金剛寺(河内長野市) 放送 3月14日(水)
 河内と和泉の境にある天野山の天野川の清流に沿う渓谷に位置する金剛寺は、奈良時代の天平年間(729?49)に行基が聖武天皇の勅願で草創、平安時代初期の弘仁年間(810?24)に弘法大師・空海が真言密教の修行をしたと言う古刹。
 平安時代末には寺運が衰え、堂塔伽藍も荒廃したが、高野山の阿観上人が後白河法皇の勅願で承安2年(1172)から金堂や宝塔、御影堂、鐘楼、坊舎の再建にとりかかった。鳥羽上皇の皇女で後白河法皇の妹の八条女院が阿観に深く帰依したことも諸堂を復興に大きな力となった。

摩尼院書院(南朝行在所)

(写真は 摩尼院書院(南朝行在所))

奥殿(北朝行在所)

 八条女院の信仰が機縁で、平城天皇の第三皇子で弘法大師の弟子となった真如親王の筆になる弘法大師像を御影堂に安置し、寺のすべての行事を高野山と同じにして、女人禁制の高野山に参詣できない女性の参詣を金剛寺が受け入れた。こうして女性が弘法大師とご縁を結ぶ霊場としたので「女人高野」と呼ばれるようになった。八条女院は父の鳥羽上皇からの寵愛を受けていたことから大きな力を持ち、金剛寺と朝廷との交渉ごとに携わったほか、女院の所領からの財力が金剛寺の再興に大きな力となった。
 また八条女院の侍女の大弐局と六条局の姉妹も阿観に帰依して出家、それぞれ浄覚、覚阿と改めた。阿観は後に浄覚に寺務の一切を譲り、さらにその後に浄覚が覚阿に寺務を譲ったので、女人高野の色彩が一層強まった。

(写真は 奥殿(北朝行在所))

 金剛寺は南北町時代には南朝との関わりが深く、後村上天皇が大和の賀名生から逃れて金剛寺に移り、摩尼院を行在所として5年あまり滞在した。食堂(じきどう)を天野殿と呼んで政庁として政務を執り行い、境内には後村上天皇が観月の宴を催した観月亭がある。この後も長慶天皇、後亀山天皇が金剛寺を行宮としており、南朝3代にわたる行宮となった。
 また北朝の光厳、公明、崇光の3上皇も3年間、金剛寺を御座所としており、南北両朝が同座した時期もあって天野行宮≠ニ呼ばれたが、この南北朝の争いのはざまにあって金剛寺の被った被害も大きなものがあった。

観月亭

(写真は 観月亭)


 
太閤も愛でた僧房酒
(河内長野市)
放送 3月15日(木)
 日本酒の酒造技術が飛躍的に向上し、その技術がほぼ完成したと言われる室町時代末期は、各地の寺院が酒造りと流通の中心となっており、その酒が「僧房(坊)酒」と呼ばれた。
 そうした寺院の中でも天野山金剛寺で醸された「天野酒」はひときわ優れたもので、室町時代中期の永享4年(1432)後花園天皇の実父・伏見宮貞成が、その日記の中で天野酒の味を褒めている。この時代から戦国時代にかけて「天野の比類なき美酒は言語に絶す」などと絶賛され、楠木正成をはじめ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ら名だたる武将たちが愛飲したと言う。

西條酒造

(写真は 西條酒造)

天野酒 僧房酒

 太閤秀吉はこの酒をとりわけ愛で、度々使者を金剛寺へ遣わして天野酒を買い求めた。さらに良酒醸造に専念することを命じた朱印状まで下付したほどで、その朱印状は今も金剛寺の宝物館に保存、展示されている。
 このように好評を博していた天野酒だったが、江戸時代にその醸造が途絶えたしまった。その天野酒を昭和46年(1971)に復活させたのが、河内長野で享保3年(1718)に創業し、280年余りの歴史を持つ西條酒造。金剛寺の協力を得て、当時の文献を元に酒米の精米から仕込まで、古式に則った製法で僧房酒・天野酒をよみがえらせた。まったりとして柔らかい口当たりで、雅な味わいの天野酒の酔いは中世の酔いと言えそうだ。

(写真は 天野酒 僧房酒)

 河内長野市には造り酒屋が4軒あったが、今は西條酒造だけになった。天野酒の復活に執念を燃やした西條酒造だけに、自社銘柄酒も蔵人たちが手間ひまと愛情をかけ、日本酒愛好家に満足してもらえる酒造りに心がけている。
 幕末から明治時代初期に建てられた西條酒造の建物は、国の登録有形文化財に指定されており、高野街道に面した正面の格子が美しい。この古い建物の酒蔵には昔からの野生酵母が住み着いており、醸造を手助けしてくれるので簡単には近代建築に建て替えられないそうだ。復活した僧房酒・天野酒は300ml入り1500円で販売している。

高野街道

(写真は 高野街道)


 
玉を彩る技(藤井寺市) 放送 3月16日(金)
 藤井寺市の住宅街の中にある藤村トンボ玉工房では、江戸時代からの技術を継承して、ブローチ、ネックレスなど、蜻蛉玉(とんぼだま)のアクセサリーや装飾品が生み出されている。トンボ玉とは目にもあでやかな美しい模様と色彩を持ち、紐を通す穴があいているガラス玉のことで、その模様や色はガラス玉の表面にエナメルなどで描くのではない。
 無色のクリスタルガラスを800度以上の炭火の炎で熱し、各種金属の酸化物を混ぜて発色させた色ガラスを組み合わせ、溶かしながら合わせて作りあげていく。炭火の炎は温度が一定のバーナーの炎と違い、炎の強弱によってできあがる玉が異なるところに面白みがあると言う。

蜻蛉玉(とんぼだま)

(写真は 蜻蛉玉(とんぼだま))

玉巻

 トンボ玉は紀元前10世紀ごろエジプトで作られたと言われているが、最近、紀元前18世紀ごろメソポタミヤで作られたのが最初だとも言われるようになった。いずれにしても地中海東部で初めて作られ、その後、シルクロードを通じて奈良時代に日本に伝わり、正倉院にも多数保存されている。
 その後、平安時代に断絶したが、江戸時代にオランダから再び技術が伝わり、大名や金持ちたちが競って求めていた。長崎、大阪、江戸などで印籠、煙草入などの結〆玉、日本髪に飾るかんざしや根掛のほか、装飾品として作られるようになったが、その中でも大阪は盛んで「玉造」の地名が残っているほどだ。

(写真は 玉巻)

 藤村トンボ玉工房の先代・藤村英雄さんは再現不可能と言われた中国・戦国時代の七つの星模様や清朝の乾隆帝時代の小桜玉の復元に成功している。先代の唯一の弟子だった2代目・藤村真澄さんがその技術を引き継ぎ、さらに真澄さんの3人の子たちにも受け継がれようとしている。
 トンボ玉は昔から愛用されてきた結〆玉、髪飾り、装飾品が需要が少なくなった。このため最近は玉だけでなく指輪、ブローチ、ネックレス、イヤリング、ペンダント、ループタイ、カフスボタンなどにも使えるように形を改めたり、色や模様なども現代のファッションにマッチするように工夫したものを作っている。

象嵌

(写真は 象嵌)


◇あ    し◇
道明寺天満宮近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩3分。
観心寺南海電鉄高野線、近鉄長野線河内長野駅から
バスで観心寺下車すぐ。
天野山 金剛寺南海電鉄高野線、近鉄長野線河内長野駅から
バスで天野山下車徒歩すぐ。
天野酒蔵元・西條合資会社南海電鉄高野線、近鉄長野線河内長野駅下車徒歩5分。
藤村トンボ玉工房近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
道明寺天満宮072−953−2525
観心寺0721−62−2134
天野山 金剛寺0721−52−2046
天野酒蔵元・西條合資会社0721−55−1101
藤村トンボ玉工房072−938−7536
河内長野市観光協会0721−53−1111

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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