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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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藤井寺市、河内長野市 |
南河内地方の藤井寺市、河内長野市あたりは古代から開け、王家や豪族の古墳が点在している。優れた文化や技術を持った渡来人が早くから住み着き、古代から文化の先進地となった。中世以降も歴史の舞台にしばしば登場しており、由緒ある古社寺も多く、高野街道沿いには古い町並も残っている。 |
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道真は40歳の時、土師寺の住職だった伯母の覚寿尼を訪ね、4月から7月まで滞在して大乗経の写経や道明寺の本尊となっている十一面観音像(国宝)を刻んだ。また写経する際に使った青白磁円硯(せいはくじえんけい)は国宝に指定されている。 |
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(写真は 盆梅展) |
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南北朝時代に南朝の後醍醐天皇に仕えた武将・楠木正成は、観心寺と関わりが深い。8歳から15歳まで楠木家の菩提寺だった観心寺の中院で学んでおり、境内には正成の首塚もある。金堂脇の建掛塔(たてかけのとう)は、正成が建武中興の無事を祈って三重塔を発願して建立しようとしたが、湊川の戦で討死したため、初層までで建立が中断された。初層の屋根は茅葺きにされて今日の姿として伝わっており、塔内には大日如来像が安置されている。 |
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(写真は 建掛塔) |
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金剛寺は南北町時代には南朝との関わりが深く、後村上天皇が大和の賀名生から逃れて金剛寺に移り、摩尼院を行在所として5年あまり滞在した。食堂(じきどう)を天野殿と呼んで政庁として政務を執り行い、境内には後村上天皇が観月の宴を催した観月亭がある。この後も長慶天皇、後亀山天皇が金剛寺を行宮としており、南朝3代にわたる行宮となった。 |
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(写真は 観月亭) |
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河内長野市には造り酒屋が4軒あったが、今は西條酒造だけになった。天野酒の復活に執念を燃やした西條酒造だけに、自社銘柄酒も蔵人たちが手間ひまと愛情をかけ、日本酒愛好家に満足してもらえる酒造りに心がけている。 |
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(写真は 高野街道) |
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藤村トンボ玉工房の先代・藤村英雄さんは再現不可能と言われた中国・戦国時代の七つの星模様や清朝の乾隆帝時代の小桜玉の復元に成功している。先代の唯一の弟子だった2代目・藤村真澄さんがその技術を引き継ぎ、さらに真澄さんの3人の子たちにも受け継がれようとしている。 |
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(写真は 象嵌) |
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