月〜金曜日 18時54分〜19時00分


生駒市、東大阪市、奈良・平群町 

 大阪府と奈良県の府県境にある生駒山は古代から信仰の山とされてきた。その生駒山の大阪、奈良両側の山麓や南へ延びる生駒山系の山麓には、由緒ある古社寺が多い。今回はこれらの古社寺を訪ね歩いた。


 
生駒聖天宝山寺(生駒市)  放送 3月26日(月)
 生駒山上を目指すケーブルカーに乗って宝山寺駅で下車、坂と石段の左右に料理旅館や土産物店が続く門前町・聖天通りを抜け、石畳の宝山寺参道へ出るとその両側には全国から寄進された石燈籠が立ち並んでいる。
 延宝6年(1678)湛海律師が「あらたかな神、仏は霊地に祀らなければ威徳が現れない」と、その霊地を探し求め生駒山に入った。生駒山の東麓から古都・奈良の町の東に御蓋山、高円山を望み、役行者(えんのぎょうじゃ)や弘法大師・空海の修行の旧地でもあるこの地を選び、自ら刻んだ不動明王像(国・重文)を本尊として祀り、さらに大聖歓喜天を勧請して祀って宝山寺を開いた。

本尊不動明王像

(写真は 本尊不動明王像)

聖天堂

 本堂と聖天堂のうしろの岩山に役行者、弘法大師が修行した言われる岩屋・般若窟がある。役行者がこの岩屋に般若経を納めたことから般若窟と呼ばれ、この寺の始まりとされている。湛海もここで修行して「人は修行によって救われる」と悟ったと言われる。
 大聖歓喜天は人間の持つさまざまな願いを余さず叶えてくださると「生駒の聖天さん」とか「聖天さん」と呼び親しまれて庶民の信仰を集めた。ことに商売繁昌を願う商人の町・大阪の人たちの信仰が篤く、ご利益を授かろうと参詣者が絶えることがない。

(写真は 聖天堂)

 宝山寺の開祖・湛海は絵画、仏像彫刻の才にも秀でたものがあったようで、本尊の不動明王像や厨子入五大明王像(国・重文)を彫っているほか、本尊の脇侍も湛海の作と伝えられている。また、元禄12年(1699)東山天皇から皇子誕生祈願の勅命を受け、皇子二人の誕生が相次いだ。
これがきっかけとなり皇室や宮家の信仰が篤くなり、明治時代初めまで皇室の勅願寺とされてきた。
 宝山寺の門前町・聖天通りは大正11年(1922)に生駒ケーブルが開通してから楽に宝山寺参詣ができるようになり、参詣客や観光客が増えて活気を呈し、今も多くの料理旅館などが軒を連ねている。

厨子入五大明王像

(写真は 厨子入五大明王像)


 
往馬大社から竹林寺へ
(生駒市) 
放送 3月27日(火)
 近鉄生駒駅から生駒線に沿って南へ下って行くと、奈良県の天然記念物に指定されている太古からの自然の森に包まれた中に鎮座する往馬(いこま)大社がある。正式社名は往馬坐伊古麻都比(いこまにいますいこまつひこ)神社と言う。
 創立年代は定かでないが、総国風土記の雄略天皇3年(458)の神社名が最古の記述とされ、この年に鎮座されたとすると1550年になんなんとする古社である。また正倉院文書にも記載が見られ、奈良時代から朝廷との関わりがあったようで、延喜式神名帳では官幣大社に列せられていた。

七社の本殿(往馬大社)

(写真は 七社の本殿(往馬大社))

本尊 文殊菩薩像(竹林寺)

 この神社は生駒山を御神体として祀る自然崇拝から発し、その後、この地の産土神の伊古麻都比神と伊古麻都比売神(いこまつひめのかみ)を祭神とし、中世には神功皇后ら五柱を合祀、近世には生駒谷17郷の氏神として尊崇されてきた。
 往馬大社は火の神として信仰が篤く、平安時代から代々の天皇の大嘗祭(だいじょうさい)に使う火きり木を納めていたとの記録があり、昭和や平成の大嘗祭の儀式には、ご神木の桜の木が使われた。10月11日の秋祭は古式豊かな「火取り」の行事が行われる火祭りとして知られている。中世からの祭祀集団として多くの宮座があったが、現在は上郷と下郷の2座が残り、対抗するように祭事を行っている。

(写真は 本尊 文殊菩薩像(竹林寺))

 往馬大社の南方500mほどに位置する竹林寺は行基の開創と伝わり、境内には行基の墓所がある。行基(668〜749)は和泉国の生まれで奈良時代の高僧。諸国をまわって橋を架けたり、道を作るなどの土木事業を行ったり、社会福祉事業に努めたほか、寺を創建して庶民に仏教を広め菩薩と崇められた。
 行基は菅原寺(現奈良市菅原町)で没し、遺命により竹林寺に葬られた。文暦2年(1235)の墓の発掘調査で墓誌名のある銅製容器に入った銀製骨壷が出土し、この行基の墓の発見によって竹林寺は行基信仰で大いに栄えた。行基の墓誌の残片(国・重文)は奈良国立博物館に保存されている。

行基墓

(写真は 行基墓)


 
信貴山朝護孫子寺(平群町)  放送 3月28日(水)
 生駒山系南端の標高437mの信貴山の東麓中腹にあって、大和平野を一望する朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は「信貴の毘沙門さん」としておなじみのお寺。正式の山号は信貴山歓喜院朝護孫子寺と言う。寺名は中興の祖・明蓮(みょうれん)が延喜2年(902)醍醐天皇の病気平癒を祈願した時の願文「朝廟安穏 守護国土 子孫長久」から朝護孫子寺の寺号を賜った。
 寺伝によれば聖徳太子が用明天皇2年(587)排仏派の物部氏との戦いに臨んで、この山で戦勝祈願をした時、毘沙門天が現れ必勝の秘法を授けられ物部守屋を討つことができた。太子はこの山に毘沙門天(多聞天)を祀り「信ずべき 貴ぶべき山」即ち信貴山と号したと言う。

聖徳太子像

(写真は 聖徳太子像)

本尊 毘沙門天王像

 平安時代以降は外敵退散、悪魔降伏を祈る毘沙門天信仰から武人の崇敬を集めた。河内の豪族・河内正康も毘沙門天に深く帰依し、産まれた子に多聞丸と名づけ、その子が後の楠木正成であると伝えられている。
 この寺の参道でにらみをきかせる巨大な福虎像は有名だが、これは日本で初めて毘沙門天が聖徳太子の前に現れたのが、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻であったことから朝護孫子寺の縁日になっており、この日には厄除け、福徳開運を祈る参詣者が多い。特に正月の初寅の日は大変なにぎわいで、門前には魔除けの張り子の虎を売る店がずらりと並ぶ。

(写真は 本尊 毘沙門天王像)

 寺宝で有名なのが国宝の信貴山縁起絵巻3巻である。飛倉の巻は明蓮が行う飛鉢の法の不思議さを描き、延喜加持の巻は明蓮が醍醐天皇の病気平癒を果たした図、尼公の巻は明蓮の姉の尼公が訪ね来て、明蓮と共に毘沙門天を奉じた物語を描いている。作者は鳥獣戯画を描いたと言われる鳥羽僧正と伝えられているが確証はない。
 本堂は度々、兵火や火災で焼失しており、現在の本堂は昭和33年(1958)に鉄筋コンクリート造で再建された。本堂正面に掲げられている「毘沙門天王」の扁額の左右には、黄金のムカデや庇の下に彫り物のムカデが見られるが、ムカデは毘沙門天の使いだと言う。寺ではムカデを建物内で見つけると箸などつまんで外へ逃がしてやるそうだ。

信貴山縁起絵巻

(写真は 信貴山縁起絵巻)


 
大和棟の民家・藤田家住宅
(平群町) 
放送 3月29日(木)
 生駒山系東部山麓の尾根を切り開き、高い石垣の上の敷地に建つ藤田家住宅は元禄年間(1688〜1704)に建てられた間口20.2m、奥行12.9mの大型の農家建築。
 建築後、江戸時代に2回、明治時代末に1回、合わせて3回の改修が加えられている。主屋の本屋根は切妻造茅葺き、両妻は高塀造の瓦葺き、庇も瓦葺きで落屋根は中央に煙出しがある切妻造の瓦葺きとなっている。本屋根下は居室などの居住空間で、落屋根下は勘定部屋、土間、釜屋などの作業空間となっており、大和棟形式の民家として国の重要文化財の指定に指定されている。

藤田家住宅外観

(写真は 藤田家住宅外観)

藤田家住宅古図

 藤田家には前の建物の古図が伝わっており、それによれば前の建物は元和年間(1615〜23)に建てられており、茅葺きの入母屋造だった。現在の建物も最初はこの姿で再建されたが、最初の改造の時に大和棟に変更された。一般民家にあるように土間に通じる内玄関だけでなく、代官や役人ら重要な来客が直接畳の間に出入りできる外玄関が付けられている。
 内玄関を入ると高い天井の梁や桁、大黒柱には太い大材が用いられ、その豪壮な組み合わせが大庄屋の威勢をしのばせる。天井はすべて竹を用い、座敷の天井は竹を押しつぶした「ひしゃぎ竹」を使い、ほかは割竹による簀(すのこ)天井となっている。

(写真は 藤田家住宅古図)

 広い土間の奥が釜屋(台所)で、6連の大きなかまどがデンと築かれている。土間の広さ、かまどの大きさから大勢の村人の集まりにも対応できるように作られている。屋敷内にあった離れ座敷は明治42年(1009)に移築されて平群町役場の議場となり、役場が移転した後は奈良県立郡山高校の裁縫室・作法室(茶室)として利用され、昭和42年(1967)まで残っていた。
 藤田家は元は武州・藤田庄(埼玉県本庄市)の荘園の荘官出身で、鎌倉時代に上杉家に仕えて武士となり、上杉家滅亡後に仕えた甲斐の武田氏が滅びた後、室町時代に大和に移り、元和年間(1615?24)に平群に転封され、その後、帰農して大庄屋となった。

藤田家住宅内部

(写真は 藤田家住宅内部)


 
石切さん(東大阪市)  放送 3月30日(金)
 関西にある数多くの神社の中でも、最も庶民的なお社と言えるのが「石切さん」こと、石切剣箭(いしきりつるぎや)神社。また「デンボ(はれもの、できもの)の神さん」としても知られ、腫れ物をはじめもろもろの病気から人びとを守ってくださるご利益があると祈願をする人が多い。
 その現れが楼門をくぐり、さらに石の鳥居をくぐると本殿の前の石畳の参道でお百度を踏む参詣者の姿。一心に祈りながらお百度詣りをする参詣者の表情には、石切さんのご利益を信じる強い信仰心が表れている。毎日、これほど多くの人がお百度を踏んでいる神社は全国でも珍しく、お百度の数を数えるこよりを売っている露店もあるほどだ。

石切剣箭(つるぎや)神社

(写真は 石切剣箭(つるぎや)神社)

剣箭

 石切剣箭神社の社名の「剣箭」とは、どんな強固な岩でも何の苦もなく切り刺し、貫くような剣と矢が御神体であることを表しており、従ってそのご利益も非常に大きいとされる。楼門の屋根の棟にはこの剣箭が掲げられている。
 この神社の祭神は物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)と可美真手命(うましまでのみこと)の二柱。創建の時期は定かでないが、平安時代中期に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社であり、同じ時期に完成した日本三代実録にも、貞観7年(865)に社格が昇格したと記されている古社である。

(写真は 剣箭)

 誰もが抱えているのが病と悩み。これを取り除いてもらえるのが石切さんとなれば、参詣者が絶えないのも当然かも知れない。この庶民の心情をよく表しているのが、近鉄奈良線石切駅から続くだらだら坂と呼ばれる長い参道に軒を連ねる店。土産品、食堂はもとより日用品、おばちゃん向けのファッション、和漢薬などの店のほかに占いの館、祈祷の店が目につく。
 悩みを持った人たちは、自分や家族らの将来をワラをもつかむ思いで占ってもらったり、祈祷してもらうのであろう。またこの参道の商店街には、昭和時代の雰囲気が色濃く残っており、この雰囲気を懐かしんで訪ねてくる人たちもいるとか。

だらだら坂

(写真は だらだら坂)


◇あ    し◇
生駒聖天宝山寺近鉄奈良線生駒駅から生駒ケーブルで宝山寺駅下車徒歩10分。 
往馬大社近鉄生駒線一分駅下車徒歩5分。 
竹林寺、行基墓近鉄生駒線一分駅下車徒歩15分。 
信貴山朝護孫子寺近鉄生駒線信貴山下駅からバスで信貴山下車すぐ。 
藤田家住宅近鉄生駒線平群駅下車徒歩10分。 
石切剣箭神社近鉄奈良線石切駅下車徒歩10分。 
近鉄京阪奈線新石切駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
生駒聖天宝山寺0743−73−2006 
往馬大社0743−77−8001 
竹林寺0743−76−8229 
信貴山朝護孫子寺0745−72−2277 
藤田家住宅0745−45−0240 
石切剣箭神社0729−82−3621 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

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