月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・哲学の道

 東山の山裾、銀閣寺前から熊野若王子神社まで、疎水沿いの南北約2kmほどの小道は、哲学の道と呼ばれる。大正時代に学者や学生が思索にふけりながら散策したことがその名の由来で、哲学者・西田幾多郎の「人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾は行くなり」の石碑がある。哲学の道沿いにはサクラ、ツツジ、カエデ、シャガなどの木々が四季折々の表情を見せてくれ、観光客のみならず京都市民にとっても癒しの散策道である。


 
法然院 放送 4月2日(月)
 西田幾多郎の石碑の近くにある法然院は、専修念仏の元祖で浄土宗の宗祖・法然上人が鎌倉時代初めに草庵を結び、弟子の安楽、住蓮と念仏三昧の行をしていた念仏道場の旧跡。後鳥羽上皇の女官が安楽、住蓮を慕って出家したため、上皇の怒りにふれ法然は讃岐に流され、安楽、住蓮は死罪となり草庵は荒廃していた。
 江戸時代に入り延宝8年(1680)知恩院第38世・万無上人が、法然上人ゆかりのこの旧地に、念仏道場の建立を発願、弟子の忍澂(にんちょう)らが伽藍(がらん)を築き、法然院万無教寺とした。法然院伽藍は普段は非公開で堂内へ入っての拝観はできないが、年2回4月1日〜7日と11月1日〜7日に伽藍内が特別公開されている。

西田幾多朗の碑

(写真は 西田幾多郎の碑)

白砂壇

 ツバキの花が落花している石敷きの参道から茅葺きの山門をくぐり、本堂へ向かう参道の左右に配された盛り砂を「白砂壇(びゃくさだん)」と言い、風情がある文様は水を象徴している。この二つの砂壇の間を通り抜けることにより、心身を清めて浄域へ入ることを意味している。
 本堂のそばにある方丈庭園は中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石を配置した浄土庭園として知られている。この庭園には京の名水として有名な清水が建立以来、絶えることなく湧き出し、庭園の池を潤している。この名水は伽藍を建立した忍澂が錫杖で地面を突いたところ浄水が湧き出したとされ、法然院の山号「善気山」にちなみ「善気水」と呼ばれている。

(写真は 白砂壇)

 本堂北側の坪庭は三銘椿の庭と呼ばれ、花笠椿、貴(あて)椿、五色散椿の3本のツバキが植えられている。3月下旬から4月上旬にかけてそれぞれのツバキが花をつけ、参詣者の目を楽しませる。
 年2回、特別公開される本堂には本尊・阿弥陀如来座像や観世音菩薩立像、大勢至菩薩座像のほかに法然上人像、万無上人像などが安置されている。本尊前の須弥壇には25菩薩を象徴するツバキ、ツツジ、アジサイなど25輪の季節の生花が、毎朝散華される。
 法然院の墓所は学者墓と言われるように東洋史学者・内藤湖南、考古学者・浜田耕作、哲学者・九鬼周造、経済学者・河上肇、作家・谷崎潤一郎らの墓がある。

本尊 阿弥陀如来坐像

(写真は 本尊 阿弥陀如来坐像)


 
白沙村荘 放送 4月3日(火)
 哲学の道の北端に広大な庭園を持つ白沙村荘(国・名勝)は、明治、大正、昭和時代に活躍した日本画の大家・橋本関雪(1883〜1945)の旧邸で、今は関雪記念館として一般公開されている。
 関雪がこの邸宅を完成させたのは大正5年(1916)で、それから61歳で没するまで約30年間、1万平方mの池泉回遊式庭園を造り続けた。庭の一木一草一石はすべて他所から運び込み、自分の意のままに配置して造りあげた大庭園で、白沙村荘の名は近くを流れる白川の砂を庭園に用いたことに由来する。関雪は「庭を作ることも、絵を描くことも一如不二のものである」と言い、関雪にとっては庭を作ることも絵を描くことも同じであり、庭園を含めた邸宅全体が一個の作品であるとも言える。

茶室

(写真は 茶室)

薮の羅漢

 関雪が邸宅を建築したころは、現在の哲学の道にあたる南禅寺から銀閣寺までの間は、途中に住宅がぽつんぽつんとあるほかは見渡す限りの水田だった。道路よりも低い水田を庭園の外堀と池泉を除いて盛り土をして用地を造成、邸宅などを建築した。その後も7、8回に渡って少しずつ土地を買い足して庭を広げ、庭石は鞍馬あたりで買い求め運ばせた。
 庭には大分県国東(くにさき)の石幢(せきどう)や石塔、鎌倉時代の石燈籠などの石造美術品約180点が配置されており、さながら石造博物館のようである。村荘の西北部の竹林の周囲にはさまざまな表情の羅漢石仏が点在しており、訪れた人びとを和ませてくれる。

(写真は 薮の羅漢)

 大文字の送り火が映し出されると言う池のほとりに50畳ほどの大画室・存古楼があり、庭を観賞しながら絵筆をとった関雪の姿がしのばれる。哲学の道沿いの桜の木は、大正11年(1922)関雪夫人のヨネさんが寄贈して植樹したのがきっかけとなり、現在の桜並木が誕生した。
 白沙村荘は昭和42年(1967)から一般公開され、昭和56年(1981)から旧邸を関雪記念館にして、関雪の作品や素描スケッチなど約2000点のほか、関雪が収集したギリシャ、ペルシャ、インド、中国などの美術品を順次公開している。

存古楼

(写真は 存古楼)


 
安楽寺 放送 4月4日(水)
 法然院から南へ下って行くと間もなく同じ浄土宗の安楽寺に行き着く。茅葺きの山門から本堂にかけての庭は苔とツツジの刈り込みが美しい。
 この寺は鎌倉時代初め、法然の弟子の安楽と住蓮が専修念仏の道場として草庵を結んだことに始まる。安楽、住蓮が唱える声明は誠に美しく、多くの人を引きつけ信仰心を高めさせ、出家して仏門に入る者もいた。その中に後鳥羽上皇が寵愛していた女官の松虫、鈴虫の姉妹がいた。虚飾に満ちた御所の生活に悩んでいた姉妹は声明に魅せられ、また法然の説法を聞いて念仏によって救われたいと、上皇が熊野詣をしている留守中に安楽と住蓮の手で剃髪、出家した。

住蓮上人松虫姫剃髪図

(写真は 住蓮上人松虫姫剃髪図)

安楽上人鈴虫姫剃髪図

 これを知った上皇は激怒、専修念仏を弾圧して停止させ、法然人を讃岐国へ流罪、親鸞人を越後国へ流罪、安楽、住蓮の両僧を斬首に処し、ほかの僧にも斬首、流罪など法難がおよんだ。法然の説く専修念仏が多くの庶民の信仰を集てきたため、比叡山や奈良の寺院が専修念仏の停止を朝廷に訴えており、後鳥羽上皇は松虫、鈴虫の事件を口実に新興の専修念仏の弾圧に踏み切ったとも言える。
 流罪になった法然人が帰京、両僧の菩提を弔うために寺を創建、住蓮山安楽寺と名づけて両僧の追善の寺とした。応仁の乱後に寺は荒廃し、江戸時代初期の延宝9年(1681)旧地より西の現在地に本堂が再興された。

(写真は 安楽上人鈴虫姫剃髪図)

 境内には安楽、住蓮の五輪供養塔、境内奥の山中には松虫、鈴虫両女官の供養塔もある。安楽寺では毎年7月25日に京都の伝統野菜のひとつである鹿ケ谷カボチャ供養がある。前日、仏前に供えられた鹿ケ谷カボチャが煮炊きして参拝者に振る舞われるもので、このカボチャを食べると中風にならない中風封じのご利益がある言われている。
 この日に合わせて年に一度の安楽寺の寺宝の松虫、鈴虫の画像などの虫干しが行われて観賞できる。安楽寺は普段は非公開だが、春のツツジの季節、7月25日の鹿ケ谷カボチャ供養の日、秋の紅葉の季節に特別公開される。

鹿ヶ谷カボチャ

(写真は 鹿ヶ谷カボチャ)


 
霊鑑寺 放送 4月5日(木)
 安楽寺から少し南へ歩く霊鑑寺(れいかんじ)は臨済宗南禅寺派の尼門跡寺院。承応3年(1654)後水尾天皇が皇女・浄法身院宮宗澄を得度、入寺させて創建した尼門跡寺院で、以後、明治維新まで皇女、皇孫が歴代門跡を務めた。寺の所在地から「鹿ケ谷比丘尼御所」とか「谷の御所」とも呼ばれてきた。
 貞享4年(1687)後西天皇の皇女・普賢院宮宗栄が門跡の時、父帝の院御所の建物の一部を賜って、寺の北に移築したのが現在の書院、玄関、表門である。現在の本堂は徳川11代将軍・家斉が寄進したものでこじんまりした寺である。

謁見の間

(写真は 謁見の間)

本尊 如意輪観音像

 本尊の如意輪観世音菩薩像は恵心僧都の作で、霊鑑寺の建立当時に東方の山中で廃寺となっていた如意寺の本尊であったと伝わる。如意寺は平安時代初期に智証大師・円珍が創建した寺で、南北朝の戦乱時に焼失して以来、荒廃して廃寺となった。後水尾天皇が如意寺の観音像を本尊とする寺の創建を霊夢で感得して霊鑑寺を創建したと言われている。本尊の傍らには同じく円珍作の不動明王像もあり、霊鏡を祀ったことから霊鑑寺と称された。
 書院の襖絵は下段の間が狩野永徳、中段の間が狩野元信の四季花鳥図、居間の襖絵は円山応挙の水墨画が描かれている。

(写真は 本尊 如意輪観音像)

 書院南には特徴のある石組みと石燈籠が調和した美しい観賞式庭園がある。後水尾天皇遺愛の「日光椿」「月光椿」「散椿」「八重侘助」「黒椿」など、30数種の名椿の木が植えられており、春にはそれらが見事に咲き匂う椿の寺として知られている。
 皇室との関係が深いので、歴代天皇のゆかりの香炉、掛け軸、置物など多くの品々が伝わっている。中でも御所人形の名品は、今も変わらぬあどけない表情で、宮中の雅な趣を現代に伝えている。
この寺は普段は非公開で春と秋に特別公開があり拝観できる。

御所人形

(写真は 御所人形)


 
南に御座す神々 放送 4月6日(金)
 哲学の道の南端近くの大豊(おおとよ)神社は、平安時代初期の仁和3年(887)宇多天皇の勅願により、少彦名命、応神天皇、菅原道真を合祀して創建され、法然院から南禅寺までの一帯の産土神となっている。
 この神社は初め東山36峰のひとつ、椿ヶ峰を御神体とした山霊崇拝の神社で、社は椿ヶ峰山中にあり椿ヶ峰天神とか大宝明神と呼ばれ、疫病を鎮める神として信仰されていた。寛仁年間(1017〜21)に山裾の現在地に移され、社域も広かったが応仁の乱の兵火で社殿が消失、現在のような小さな神社となった。

大豊神社

(写真は 大豊神社)

狛鼠(大国社)

 末社の大国社は、鼠(ねずみ)が大国主命を野火の危機から救ったとの神話にちなんで、社殿前には狛犬ならぬ狛鼠が置かれ、子年にはことに参詣者が多いと言う。
 哲学の道の南限となる熊野若王子(くまのにゃくおうじ)神社は、永暦元年(1160)後白河法皇が熊野権現を勧進したのが始まりで、若王寺の鎮守社だったとも、禅林寺(永観堂)の鎮守社だったとも言われている。社名は祭神の天照大神の別称・若一王子に由来し、熊野神社、新熊野(いまくまの)神社と共に「京都三熊野」のひとつであり、紀州熊野詣の京都の起点だった。

(写真は 狛鼠(大国社))

 室町時代には足利尊氏、義満、義持ら歴代将軍が所領を寄進し、花の名所として有名な神社で尊氏や義政が花見の宴を催したとの記録がある。若王子神社も応仁の乱の兵火で社殿が焼失して荒廃したが、豊臣秀吉によって再建され、明治維新の神仏分離令で若王寺は廃寺となり、神社だけが残った。
 御神木の梛(なぎ)の木のお守りは、昔は熊野三山詣や伊勢神宮参宮の時の禊(みそぎ)のお守りとして用いられていたもので、今は受験などすべての苦労をナギ払ってくれるお守りとして求める人が多い。

熊野若王子神社

(写真は 熊野若王子神社)


◇あ    し◇
法然院京都市バス南田町下車徒歩3分。
京都市バス浄土寺下車徒歩10分。
白沙村荘・橋本関雪記念館京都市バス銀閣寺前下車すぐ。
安楽寺京都市バス法然院町下車徒歩7分。
京都市バス錦林車庫前下車徒歩10分。
霊鑑寺京都市バス上宮ノ前町下車徒歩3分。
京都市バス真如堂前下車徒歩5分。
大豊神社京都市バス宮ノ前町下車徒歩3分。
京都市バス東天王町下車徒歩5分。
熊野若王子神社京都市バス東天王町下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
法然院075−771−2420
白沙村荘・橋本関雪記念館075−751−0446
安楽寺075−771−5360
霊鑑寺075−771−4040
大豊神社075−771−1351
熊野若王子神社075−771−7420

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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