月〜金曜日 18時54分〜19時00分


西宮市

 六甲山系の東端の南麓に広がる西宮市は、市内に湧き出る宮水を使った灘の生一本の醸造地としても知られている。今は阪神間のベッドタウンとなっているが、住宅地などの開発は明治時代末から大正時代に始まった。こうした開発の名残が残る西宮市の六甲山の山麓地帯の訪ねてみた。


 
桜の夙川 放送 4月16日(月)
 阪急電鉄、阪神電鉄の向こうを張って、両電鉄線の中間にJRが設けた新駅「さくら夙川」が2007年3月18日に開業した。駅名に桜の名所・夙川の名称をずばりつけてアピールするところなどは、関西における鉄道経営の競争の激しさを物語っている。
 阪神間ではそれほどに名高い夙川の桜は、夙川の両岸の河川敷公園に約1600本以上植えられている。昭和24年(1949)に当時の辰馬卯一郎・西宮市長の提唱で植えられた1000本の若木が成長して、既存の松林と共に独特の景観を呈し、阪神間の代表的な桜の名所に発展した。

夙川

(写真は 夙川)

桜

 夙川河川敷公園の桜は、平成2年(1990)に全国「さくらの名所100選」にも選定された。桜は西宮の市花にもなっており、夙川の河川敷だけでなく住宅地にも植えられ、春の夙川一帯の街は一年中で最も華やかな景色を現出する。
 夙川河川敷公園は河口から上流の銀水橋付近まで約4kmにわたって整備され、春の桜、夏の緑、秋の紅葉、常緑の松林が、四季を通じて市民らに自然の美しさと憩いの場を提供している。さらに夙川に沿って上流へ遡れば、北山公園や西宮市北山緑化植物園に通じている。

(写真は 桜)

 夙川あたり一帯は古くは「香櫨園」と呼ばれ、明治40年(1907)に開園した遊園地の名に由来しているが、阪急電鉄の夙川駅が開業してから地名も夙川に改められた。
 夙川公園の歴史は古く、昭和12年(1937)に街路事業として整備され、川沿いの松林などが全面的に保護された。昭和26年(1951)戦後の復興事業の一環として、夙川公園の整備が都市計画に組み入れられ、桜の植樹などが始まった。同時に付近一帯の住宅開発が進み、阪神間のベッドタウンとして急速に発展し、夙川河川敷公園の価値が一層高まったきた。

松林と桜

(写真は 松林と桜)


 
始まりは楽園 放送 4月17日(火)
 西宮市には「園」のつく地名が多い。プロ野球の阪神タイガースの本拠地や高校野球で知られた甲子園球場がある甲子園をはじめとして、甲陽園、香櫨園、苦楽園、甲東園、甲風園、昭和園(現北昭和町、南昭和町)などが見られる。
 この「園」のつく地名は、もともと楽園、遊園、公園、また理想の住宅地である田園都市の意味からつけられた。電鉄会社が乗客誘致のために遊園地や住宅地の開発、学園誘致などを進め、夢のあるイメージを伴わせるために「園」のつく地名を採用したようだ。

甲陽園

(写真は 甲陽園)

阪神電車香櫨園

 甲山の南麓の「甲陽園」は、太陽がさんさんと降りそそぐ「温暖の地」と言うことで大正7年(1918)に開発、整備が始まり、遊園地、温泉、旅館などを備えた行楽地となった。さらに富裕層が住宅や別荘を相次いで建設し、大正13年(1924)に阪急電鉄甲陽線が開通して甲陽駅が開業、この地は全盛時代を迎えた。また甲陽キネマ撮影所と言う映画撮影所も建設されが、昭和初めの不況で撮影所は姿を消した。
 昭和時代に入ると住宅地としては大阪、神戸から遠距離すぎて通勤の便が悪く、遊園地も近代設備の遊園地がほかに登場したことにより客足が遠のき衰退した。戦後、住宅需要の高まりとともに宅地造成が進み再び発展期を迎えた。

(写真は 阪神電車香櫨園)

 今は阪神電鉄の駅名にその名残を留めている「香櫨園」は町名としては残っておらず、阪神電鉄の香櫨園駅から海岸までの地域を香櫨園と称している。
 香櫨園は西宮市域の最初の開発地として、香櫨園駅の北の丘陵地帯に明治40年(1907)に開園した遊園地が始まりとなった。香櫨園の名はこの開発事業を手がけた香野蔵治、櫨山喜一両氏の姓に因み命名された。遊園地内には博物館、動物園、音楽堂、ウォーターシュートなどが設けられた関西最大の遊園地となったが、遊園地としては時期尚早だったため次第に衰退した。後に阪急電鉄夙川駅が開業し、香櫨園区の名称が夙川区に改められ、香櫨園の名は発祥の地から消えた。

香櫨園浜

(写真は 香櫨園浜)


 
カトリック夙川教会 放送 4月18日(水)
 阪急電鉄神戸線夙川駅から西へ5分、六甲山を背景に尖塔がそびえるネオ・ゴシック様式の美しい建築は、カトリック夙川教会の聖堂である。
 夙川教会は大正10年(1921)西宮市内でわずか66平方mの建物を借り、聖ロザリオの聖堂と名づけられ阪神間で最初のカトリック教会として発足した。大正12年(1923)に現在地に土地を購入、神戸山手教会の古い建物を移築して仮聖堂し、夙川教会の基礎ができた。

カトリック夙川教会

(写真は カトリック夙川教会)

ステンドグラス

 昭和7年(1932)現在の聖堂が完成、阪神間の中軸となる教会として発展してきた。この聖堂は信徒であるヨゼフ梅木省三氏の設計、施工によるもので、内部はステンドグラス、祭壇、各部の装飾が美しく、柱のない広大な空間となっているため音響的にも素晴らしいものである。
 「日本人の手による昭和時代初期の優れた西洋建築」として、日本建築史に残るべき建物であり、今日の日本でも有数の荘厳な聖堂として宗教の垣根を越えて訪れる人の心を打つ。

(写真は ステンドグラス)

 このような素晴らしい聖堂を建築するには、当時のブスケ神父や信者の努力のほかに、建築費にも多大な気配りをした梅木省三氏の献身的な協力があって実現した。
 平成7年(1995)に阪神地方を襲った阪神淡路大地震で、この聖堂も大きな被害を受けた。この時、築後62年を経過していたにもかかわらず倒壊を免れたことは、設計、施工をした梅木省三氏の技術力の高さによるものであろう。震災後、一時は地下室でミサを行うほどだったが、今はすっかり修復が終わり、甦った美しい尖塔が六甲山をバックに映えている。

祭壇

(写真は 祭壇)


 
神の山・甲山 放送 4月19日(木)
 阪神間の人びとにはおなじみの甲山は西宮市のシンボルの山でもある。「甲山」の名称の起こりにはさまざまな説がある。神功皇后が国家平安を祈願して金の甲冑や武具を埋めたことから「甲山」と名付けられた。山頂に神が降りたことから「神の山」が「甲山」になった。また山容が兜に似ているのでずばり「甲山」と呼んだ。大阪湾に入る船が目印にした「向こう山」が「武庫山」になり、さらに「甲山」になったとの説などが伝えられている。
 いずれにしても太古から人びとは、美しい山には神が宿るとして畏敬してきた。甲山もその例にもれず神の山として信仰されてきたことには違いない。また頂上からの眺めのよさでも知られている。

甲山

(写真は 甲山)

神呪寺

 甲山南麓の中腹に建つ真言宗の神呪寺(かんのうじ)は「西の高野山」とか「甲山大師」と呼ばれ親しまれてきた。天長8年(831)淳和天皇の第四妃・真井(まない)御前が、弘法大師・空海を請じて開いた。真井御前は宮中の生活に無常を感じ都から逃れて甲山で修行を続け、大師の手で剃髪、如意尼として神呪寺開祖となった。
 神呪寺の本尊で秘仏の如意輪観世音菩薩座像(国・重文)は、弘法大師が真井御前の美しい姿を写して彫ったと伝えられており、毎年5月18日に開扉され拝観できる。この如意輪観音像は河内長野市の観心寺、奈良県宇陀市の室生寺の観音像とあわせて日本三如意輪観音とされている。

(写真は 神呪寺)

 神呪寺は創建後、甲山周辺を何度も移転した記録が残っている。戦国時代には織田信長の軍勢の兵火で焼失し、現在地に再建されたのは江戸時代になってからで、本堂は天保11年(1840)、仁王門は寛政11年(1799)に完成している。
 仁王門は中央の屋根が高く、仁王像が安置されている左右が低い構造になっている珍しい様式。
伽藍(がらん)の守護神としては普通は「あ」「うん」の表情で知られる金剛力士像が安置されるが、ここの仁王像は四天王のうちの増長天像と広目天像が安置されている。ちなみに持国天像と多聞天像は本尊の両脇に安置され、本尊を守護している。

仁王門

(写真は 仁王門)


 
甲山八十八カ所 放送 4月20日(金)
 神呪寺(かんのうじ)本堂の南に向き合う目神山は神呪寺の境内になっており、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行をしたと言われる地があり、山頂にはその石像が立っている。この役行者の修行地を中心に四国八十八カ所霊場を模した甲山八十八カ所霊場がある。
 この霊場は江戸時代中期の寛政9年(1797)神呪寺中興の祖とされる62代住職・蓮眼が、この山一帯に参詣順に四国八十八カ所の石像を立て、ひとつの霊場としたものである。

目神山

(写真は 目神山)

石像

 鳴門市の第1番・霊山寺から高知、愛媛を回って香川県の第88番・大窪寺に至る四国八十八カ所巡りが、ここ甲山では約2.5km、約2時間で巡礼でき、神呪寺本堂で満願となる。
 四国八十八カ所を巡礼しようとすれば、大急ぎのマイカー巡礼でも1週間から10日ほどかかり、歩いて回る歩き巡礼だと2ヶ月もかかるとされている。忙しい現代では八十八カ所巡礼のためにこうした時間を割くことが困難だったり、体力や経済的な面で巡礼ができない人が多い。こうした人たちにとって甲山八十八カ所は、手軽に巡礼ができる最適な霊場と言える。

(写真は 石像)

 甲山八十八カ所巡礼コースには、弘法大師がこもって修行したと言う九相の滝の岩穴があり、今も信者たちが水籠もりの修行をしている。八十八カ所巡りの石像周辺にはたくさんの巨岩が点在しており、霊場の雰囲気を一層高めている。
 この甲山八十八カ所巡礼コースは眺望が開けていることでも評判がよい。背後の甲山やその中腹の神呪寺、西宮市街地から大阪湾の風景が望める。360度のパノラマ眺望が楽しめる甲山へのハイカーたちが、ハイキングの途中でこの巡礼コースを回る人もいる。

九想の滝

(写真は 九想の滝)


◇あ    し◇
夙川河川敷公園阪急電鉄神戸線夙川駅、甲陽線苦楽園駅下車すぐ。
JR東海道線さくら夙川駅下車すぐ。
阪神電鉄香櫨園駅下車すぐ。
カトリック夙川教会阪急電鉄神戸線夙川駅下車徒歩5分。
甲山阪神電鉄西宮駅、JRさくら夙川駅、阪神電鉄夙川駅から
バスで甲山大師下車徒歩20分。
阪急電鉄甲陽線甲陽園駅下車徒歩40分。
神呪寺、甲山八十八カ所霊場阪神電鉄西宮駅、JRさくら夙川駅、阪神電鉄夙川駅から
バスで甲山大師下車徒歩10分。
阪急電鉄甲陽線甲陽園駅下車徒歩30分。   
◇問い合わせ先◇
西宮市文化まちづくり部0798−35−3425
夙川公園(西宮市環境緑化部)0798−35−3611
カトリック夙川教会0798−22−1649
神呪寺、甲山八十八カ所0798−72−1172

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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