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月〜金曜日 18時54分〜19時00分 |
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京都市・大原野 |
桓武天皇が奈良の平城京から長岡京へ都を移した所が、西山と呼ばれる山並の山麓に広がる乙訓の里。この山麓に続く竹林はJRや阪急電鉄の電車の車窓からも目に入り、筍(たけのこ)の産地として知られる。この丘陵地帯のうち大原野の一帯は、豊かな自然が残り、古社寺が多く、古代に開けたことを示す古墳も数多く点在している。 |
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西国三十三ヵ所第20番札所・善峯寺(よしみねでら)は釈迦岳の支峰・善峯の山頂近くにある。1日数本のバスが善峯寺まで乗り入れているが、冬期は小塩停留所止まり。小塩からだと約2kmの九十九折の阿智坂を登らねばならない。善峯寺の開祖・源算上人はここに修行道場を建てようとしたが、山が険しく困難を極めていた時のある夜、老翁が現れ「力を貸してやろう」と言って消えた。次の夜、野猪の大群が現れて牙で岩をうがち、地ならしをしてくれたとの伝説が残っている。 |
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(写真は 桂昌院お手植えのしだれ桜) |
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多宝塔前にある国の天然記念物の「遊龍松」は桂昌院お手植えとも言われている。高さ2mの五葉松が左右へそれぞれ20数メートルも枝を延ばしており、このような形の松は珍しく、まさしく龍が遊ぶ姿と言える。 |
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(写真は 遊龍の松) |
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その後、承和5年(838)仁明天皇の勅命で塔頭49院が建立され、寺観を整えた。仁寿年間(851〜854)に文徳天皇が大原野神社の別当寺とし、勝持寺と改め勅願寺とした。このように盛況を極めた勝持寺だったが、応仁の乱の兵火によって仁王門を除くすべての堂塔を焼失、荒廃した。焼失後の勝持寺は天正年間(1573〜92)に堂塔が再建され、江戸時代に入って徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院の援助によって堂塔が修復されたが、往時の面影を取り戻すまでには至らなかった。 |
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(写真は 西行桜) |
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西山山麓の丘陵地帯の地質と気候が筍栽培に適しているとは言え、農家は土壌作りに1年間を通じて大変な手間をかける。特に冬場には筍が芽を出す地下茎を保護するために土かけと言う土入れなどが欠かせない。おいしい筍を食べるには、地上に頭を出す前の地中の筍を経験とカンで探り当て、1mもある鉄製の長いクワで掘り出す。筍の新鮮味をそこなわないために朝掘りが一番で、最近は鮮度を失わないために活性炭を一緒に詰めて出荷する。 |
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(写真は 若竹煮) |
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八十山さんに絵を手ほどきしたのは洋画家の母親・雅子さんだった。小学校のころ学校から帰ると母の横でチラシ広告の裏に絵を描いていた。平成4年(1992)には京都で親子展も催したが、その母も今は亡き人となった。竹の本場・中国の各都市で竹を題材にした作品展を開き、好評を博し「竹の文化交流」の役目も果たした。このほか日本各地はもとよりブラジル、ニューヨークなどで個展を開いている。 |
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(写真は アトリエ 八竹庵) |
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