月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市・万葉の平城京・春

 2010年に古都奈良は平城遷都1300年を迎える。遷都とともに飛鳥の宮から平城京へ移り住んだ万葉人たちは、初めは飛鳥の里を思い出し、懐かしむ歌を詠んだ。平城京の生活に慣れて親しむようになると、素晴らしい奈良の都を歌いあげ、天平文化に華を添えた。今回は万葉集に歌われた平城京の地を訪ねながら、当時に思いを馳せてみた。


 
平城新都 放送 5月7日(月)
 「あをによし 奈良の家には 万代(よろずよ)に 我も通はむ 忘ると思ふな」=作者不詳。
「藤原京より寧楽宮(ならのみや=平城宮)に遷る時の歌」と題し、泊瀬川(初瀬川)と佐保川を利用して、藤原京の用材を運んだ苦労と天皇への思いを、労働者の声として詠んだ平城新都賛歌の反歌で、奈良の新宮殿を我が家と思って永遠に仕え、通って行きますと歌いあげている。
 和銅3年(710)藤原京から平城京への遷都に際し、飛鳥、藤原の宮殿、寺院など多くの建物が解体され、その用材が泊瀬川、佐保川の水運によって平城京へ運ばれ、新都が造営された。

佐保川

(写真は 佐保川)

宮内省復原建物

 奈良市では2010年の「平城遷都1300年記念事業」のイベント計画が進められており、平城宮跡ではすでに朱雀門や東院庭園、役所の建物、築地塀などが復原されている。2010年の完成を目指して第一次大極殿の復原作業が奈良文化財研究所の手で進められており、1300年前の姿が徐々に再現されつつある。
 和銅3年(710)から造営が始まった平城京は、唐の都・長安をモデルにした東西4.3km、南北4.8kmで、東に東西1.6km、」南北2.1kmの外京があり、総面積は2500haで長安の約10分の1の規模だった。天皇の住まいの内裏や大極殿、朝堂院、二官八省の役所がある平城宮は平城京の北端にあり、東西1.3km、南北1kmで甲子園球場の約30倍の120ha。

(写真は 宮内省復原建物)

 平城京跡の本格的な発掘調査は、奈良文化財研究所の手によって昭和34年(1959)から始まり、現在も調査は続いている。平城京跡からは建物跡や瓦、土器、木簡などの遺物が数多く出土し、徐々に平城京の規模や建物の配置などが明らかになっている。
 平城宮遺構館には出土した建物の柱跡などの遺構に屋根をかけて保存し、出土したままの姿で遺構を見学することができる。平城宮資料館には木簡や土器などの出土品や平城宮の模型が展示されている。こうした資料や復元模型、建物跡などを見ながら宮跡を見学すると、人口約10万人(20万人説もある)の平城京と約150人の貴族と約7000人の役人が政務を司っていた平城宮の姿が脳裏に甦ってくる。

平城京最大の柱(平城宮跡遺構展示館)

(写真は 平城京最大の柱
(平城宮跡遺構展示館))


 
朱雀大路 放送 5月8日(火)
 「春の日に 萌(は)れる柳を 取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ」。天平勝宝2年(750)春3月、国司として越中(富山県)に赴任していた大供家持が詠んだ。
 春の日に芽吹いた柳を手に取って見ていると、都大路のことが思われる。この歌の題に「柳黛(りゅうたい)を引っ張って奈良の都に思いを馳せた歌」とあるように、柳の葉を美女の細い眉に見立て、家持は都大路をそぞろ歩く都の美しき人にも思いを馳せたのであろう。当時、都大路には街路樹として柳が植樹されており、平城宮に仕える貴族や役人たちは、柳並木の通りが通勤の道であり、散歩道であったと思われる。

平城京復原模型(なら奈良館)

(写真は 平城京復原模型(なら奈良館))

平城京羅城門跡

 朱雀大路は平城宮南側中央の壮麗な朱雀門から真っすぐ南へ羅城門まで延びる幅74mの平城京のメインストリートだった。昭和12年(1937)に完成した大阪市のメインストリートの御堂筋は、幅約44mの道路を建設する計画に「飛行場でも作る気か」と、非難されたほど浪速っ子を驚かせた。その御堂筋の倍近い道幅の画期的な奈良時代の朱雀大路は、都の中央を貫いて街を左京、右京に分かち、街路樹に柳が植えられた平城京を代表する景観であった。
 朱雀大路は朱雀門から南の羅城門まで約4km。この朱雀大路を中心に南北、東西に531mごとに大路を通し、さらにその間に南北、東西に3本の小路を設けて碁盤の目状に区画されたのが平城京の街であった。

(写真は 平城京羅城門跡)

 平城宮は高さ5mの築地大垣に囲まれ12の宮城門があった。その中で朱雀大路の終点の南玄関にそびえていたのが朱雀門だった。
 二層構造の入母屋造の朱雀門は幅25m、奥行10m、高さ20mと推定され、昭和39年(1964)の模型作りから復原作業がスタートした。朱雀門の構造や形式がわかる資料がないため作業は難航したが、同時代の法隆寺、薬師寺、東大寺などの門を参考にして模型が作られた。門の色は古代特有の丹土(につち)の赤とされ、34年の歳月を費やして平成10年(1998)春、壮麗な朱雀門が平城宮跡によみがえり、平城宮の世界文化遺産登録と相まって古都奈良の観光スポットとなった。

朱雀門

(写真は 朱雀門)


 
あおによし奈良の都 放送 5月9日(水)
 「あをによし 奈良の都は 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり」小野老(おののおゆ)朝臣。この歌は平城京を讃える歌としてあまりにも有名でよく知られている。
 「奈良の都は咲く花が照り輝くように今真っ盛りである」とこの歌が詠まれた場所は九州の太宰府である。小野老は「大宰少弐」と言う太宰府の次官でナンバー2の高官。おそらく役人たちの酒の宴席で、挨拶のような形でこの歌を詠んだものと考えられる。都から遠く離れた地で望郷の思いが募り、都に残してきた妻や家族、友人たちを思うと不安も募ったのであろう。このような思いは宴に同席していた他の役人たちも同様であったろう。

第二次大極殿復原模型

(写真は 第二次大極殿復原模型)

第二次大極殿跡

 小野老は自分を自分で安心させようと「奈良の都は今真っ盛り、皆さん心配なされますな」と歌ったのではないだろうか。
 「薫ふ」は現代の嗅覚による臭いではなく、古代では照り輝くような美しさを表す視覚によるものであった。では「咲く花」は何の花であったのだろうか。藤の花ではないだろうかとの説もある。確かに春日大社に砂ずりの藤があるように、奈良の春日山などには藤の花が多い。しかし、もっと華やかで誰もが愛する花と言えば、やはり桜が連想される。満開の桜の花で都が彩られた春爛漫のように奈良の都が栄えていることを、小野老は重ね合わせるように詠んだのではなかろうか。

(写真は 第二次大極殿跡)

 平城京は和銅3年(710)に藤原京から遷都してから延暦3年(784)桓武天皇が長岡京へ遷都するまでの74年間であるが、この間、聖武天皇が天平12年(740)恭仁宮へ、そして紫香楽宮、難波宮と相次いで都を移し、再び天平17年(745)に平城京に戻った時期を境に奈良時代を前期と後期に分けられる。
 このため大極殿も前期の第一次大極殿とその東の第二次大極殿(東の大極殿)があり、天皇の住まいの内裏、儀式や政務が行われた朝堂院などもそれぞれ2度にわたって建設された。また儀式や宴会を催した東院、南苑、西池宮、松林苑などの庭園があったとの記録がある。地方の役所に勤務していた役人たちはこのように壮麗な平城宮を様子を思い出すたびに、望郷の念を強くしたのであろう。

東院庭園

(写真は 東院庭園)


 
ある僧の嘆き 放送 5月10日(木)
 「白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば 知らずともよし」=作者不詳。この歌の題は「元興寺の僧の自ら嘆く歌」とあり、天平10年(738)に詠まれた。白玉は真珠のこと。
 海底深くの貝の中にある真珠の多くは、人が海底に潜って拾い上げてくれなければ、その価値が見いだされない。人に見出されることなく、その価値を知られないまま朽ち果ててゆく真珠もある。
自分の才能もそれと同じで、人に知られていないだけで、その素晴らしさは自分だけが知っていればよい。この歌には二面性がある。この僧は人に認められることを諦めきっているのだろうか、それともやはり認められたかったのか。

浮図田

(写真は 浮図田)

極楽堂

 元興寺は排仏派の物部守屋を破って仏教を受け入れた蘇我馬子が、飛鳥時代の崇峻天皇元年(588)に日本で初めて創建した仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)が起源で、和銅3年(710)の平城遷都の8年後の養老2年(718)に奈良の現在地に移され、寺名も元興寺と改められた。
 当時は南都七大寺のひとつで、広大な寺域に金堂、講堂、五重塔、僧房などの伽藍(がらん)が建ち並ぶ大寺院だったが、都が平安京へ遷都してから衰退の道をたどった。室町時代の土一揆による火災、江戸時代の火災で伽藍のほとんどが焼失、極楽坊と僧坊の一部を残すのみとなった。ほかに五重塔の模型とされる高さ5.6mの五重小塔(国宝)が伝わっており、境内には浄土往生を願って造立された石塔、石仏約2500基が集められた浮図田(ふとでん)がある。

(写真は 極楽堂)

 現在の本堂・極楽坊(国宝)は、僧坊のひとつであって浄土信仰に心を寄せ、浄土教を研究していた僧・智光が「智光曼陀羅(国・重文)」を本尊として安置していたことから極楽坊、極楽堂、曼荼羅堂などと呼ばれていた。禅室(国宝)も当時の僧坊のひとつで念仏道場だった。極楽坊、禅室の屋根には飛鳥の法興寺から運んできた瓦が、1400年経過した今も残っている。この屋根の瓦は丸瓦を重ねて葺く「行基葺き」と言われる独特の手法の葺き方である。
 元興寺は奈良時代には南都七大寺の中で指導的な役割を果たし、多くの学僧が修行を重ねており、自らを嘆く歌を詠んだ僧も修行僧のひとりだったのであろう。

本尊 智光曼茶羅

(写真は 本尊 智光曼茶羅)


 
春日野に遊ぶ 放送 5月11日(金)
 「春日野に 煙(けぶり)立ち見ゆ 娘子(をとめ)らし 春野のうはぎ 摘みて煮らしも」=作者不詳。春日野から煙が立っているのが見える。おとめたちが春の野のヨメナを積んで煮て食べる宴が行われているのだろう。その宴に翁や天皇が現れて、おとめたちに求婚、彼女らは儀礼的に承諾する。そこで春の花嫁が誕生、秋の豊作は間違いなしと言うのが年中行事のひとつで、当時は大切な農耕儀礼であった。
 万葉集の冒頭は雄略天皇の春を告げる若菜摘みの歌で始まっている。雄略天皇の歌もおとめに求婚する形になっているが、これも秋の豊作を祈願する農耕儀礼のひとつとみられており、記紀伝承時代からこのような慣わしがあったようだ。

春日野園地

(写真は 春日野園地)

飛火野

 平城京の東方、若草山、御蓋山、春日山の麓に広がる春日野は、平城宮で朝廷に仕える貴族や役所で働く役人たちが、自然を愛で野遊びを楽しんだところで、万葉集にある恋の歌などを詠んだ。
 春日野の一角には藤原氏の氏神だった春日大社、氏寺の興福寺の境内が広がり、天皇や皇后らの皇族、貴族たちが参拝のためによく訪れていた。今もシカが群れ遊ぶ春日野や飛火野、春日大社から春日山原始林、東大寺あたりは心安らぐ一帯である。このあたりには由緒ある建物なども残っており、古都奈良を訪れる観光客のみならず、地元の人たちも散策やジョギングなどで自然を楽しんでいる。

(写真は 飛火野)

 シカが草を食む浅茅ヶ原には宝形造りで茅葺き屋根の円窓(まるまど)亭(国・重文)や鏡のような鷺池に六角形の優美な姿を映す浮見堂など、奈良を代表する風景がある。
 春日大社から"ささやきの道"を抜けた所の風光明媚な高畑に、文豪・志賀直哉(1883〜1971)が昭和4年(1929)自ら設計して建てたモダンな旧居があり、鎌倉に移り住むまでの10年間、家族と共に過ごし、ここで「暗夜行路」などの作品を執筆した。志賀直哉を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、堀辰雄ら白樺派の文人や画家たちが訪れ、文学論や芸術論などを語り合う文化サロンとなり、いつしか"高畑サロン"と呼ばれていた。今もその雰囲気が漂っており、散策を楽しむ人たちが多い。

浮見堂

(写真は 浮見堂)


◇あ    し◇
平城宮跡
平城宮跡資料館
近鉄西大寺駅下車徒歩10分。
近鉄西大寺駅、JR関西線奈良駅からバスで
二条町下車すぐ。
平城宮跡遺構展示館近鉄西大寺駅、JR関西線奈良駅からバスで
平城宮跡下車すぐ。
朱雀門近鉄西大寺駅下車徒歩30分。
近鉄西大寺駅からバスで平城宮跡下車徒歩20分。
JR関西線、近鉄奈良駅からバスで二条大路南2丁目下車
徒歩3分。
平城宮跡東院庭園近鉄西大寺駅、JR関西線奈良駅からバスで
平城宮跡下車徒歩3分。
なら奈良館
(近鉄奈良駅ビル4〜5階)
近鉄奈良線奈良駅下車。
元興寺近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅下車徒歩20分。
春日野近鉄奈良線奈良駅、JR関西線奈良駅下車徒歩30分。
◇問い合わせ先◇
なら奈良館0742−22−7070
平城宮跡(奈良文化財研究所)0742−30−6752
0742−30−6756
元興寺0742−23−1376
春日大社0742−22−7788 

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