月〜金曜日 18時54分〜19時00分


吹田市 

 吹田市は古くから人が住み着き、弥生時代の遺跡も多い。近世にはいって神崎川などを利用した水運、亀岡街道・伊丹街道などの陸運、東海道線の開通による鉄道輸送など交通の要所として発展した。現代は豊中市にまたがる千里丘陵地帯の住宅開発によるベッドタウンの性格が強まった。今回はいにしえの面影を残す吹田を探索してみた。 


 
旧仙洞御料庄屋屋敷  放送 5月14日(月)
 吹田市南部の市街地に広大な敷地を占める旧仙洞御料庄屋屋敷・旧西尾家住宅。仙洞御料とは天皇を退位した上皇の所領地のことで、西尾家は江戸時代から代々その仙洞御料を管理する庄屋を務め、皇室や伊勢神宮に米や野菜のお供え物の神饌(しんせん)を献上していた。
 仙洞御料の名産の献上品「吹田くわい」を献上する時は、菊の紋がついた献上籠(けんじょうかご)に乗せ、駕の上に「仙洞御料御用」の木札をつけ、行列を組んで進んだ。この行列に対しては高禄の大名も道を譲ったと言う。こうした献上の行事は仙洞御料が政府に移管される明治元年(1868)まで続いた。

旧西尾家住宅

(写真は 旧西尾家住宅)

計り部屋

 仙洞御料が政府に移管されて消滅した後の大正8年(1919)西尾家の水田が、この年の新嘗祭(にいなめさい)に献上する米を栽培する水田に指定された。秋に収穫された米は主屋の計り部屋で量目、品質などを検査して、新嘗祭まで計り部屋の隣りの献上蔵に格納したあと献上された。
 仙洞御料の庄屋は各地の仙洞御料ごとにあったが、西尾家は全国でも最大級の石高を誇った庄屋の歴史と伝統、格式があったので、大正時代になってからも新嘗祭の献上米栽培の水田に指定された。こうした格式の高さをしのばせる西尾家の堂々たる主屋は、400年ほど前の江戸時代初めに建てられたが、明治28年(1895)旧宅が建て替えられている。

(写真は 計り部屋)

 建て替えられた旧西尾家住宅は、基本的な間取りは江戸時代の旧宅を引き継いでおり、献上米を検査する計り部屋やこの米を保管する献上蔵など、江戸時代に仙洞御料庄屋を務めたころの建物を踏襲、当時の仙洞御料庄屋の格式を今日に伝えている。
 重厚な旧西尾家住宅には接客空間を重視した70畳近い座敷があり、ここに多くの文人、学者、芸術家、趣味人が訪れ、さまざまな文化交流の場となり、地域文化の発展に寄与した。この旧西尾家住宅は相続税として大阪国税局に物納されたが、地元住民らの保存活動が実を結んで、吹田市に有償貸与され、吹田市文化創造交流館として誰もが気軽に見学できる公的な文化施設となっている。

母屋棟台所の分電盤

(写真は 母屋棟台所の分電盤)


 
名建築に憩う・旧西尾家住宅  放送 5月15日(火)
 旧西尾家住宅は約4500平方mの敷地内に、数寄屋造りの主屋のほかに蔵、離れ、茶室、庭園などが配され、重厚な旧仙洞御料庄屋の雰囲気を今に伝えている。現在の主屋は明治28年(1895)に11代当主・西尾與右衛門が建て替えた。この11代当主は書、漢学、詩の道に秀でていたほか、茶道の薮内流の奥義を極めた文化人であり、風流人であった。こうした人柄と素養が旧西尾家住宅の造りの随所に現れている。
 欄間や長押(なげし)に取りつけられた水仙の釘隠しは桂離宮と同じデザイン、ほかの釘隠しも家紋や桔梗、柏の葉をデザインするなど、釘隠しひとつにも凝り、茶室付きの広間、暖炉付きの部屋など最新で斬新なアイデアが取り入れられている。

ビリヤード室

(写真は ビリヤード室)

茶室 積翠庵

 大正15年(1926)に建てられた離れは、11代当主の隠居所として建てられた。設計は当時、関西の近代建築界の第一人者であった武田五一で、外観は主屋や茶室と調和した和風ながら、内部は洋室棟と和室棟が渡り廊下でつながれている。
 洋室棟にはビリヤード室と数寄屋造り風のサンルーム付の応接室があり、出窓やサンルームと応接室の仕切りの欄間には、モダンなデザインとアールヌーボー風のステンドグラスがしつらえられ、華やいだ雰囲気を感じさせる。竹田は他の建築家に先駆けて取り入れた和洋折衷技法のデザインをこの離れに試みている。和室棟と洋室棟をつなぐ渡り廊下の天井は、竹と桜の皮つき丸太の木を並べた船底天井になっている。

(写真は 茶室 積翠庵)

 庭園の木立の中にある茶室「積翠庵」では、周囲の緑を愛でながらお茶が点じられる。この茶室は薮内流10代家元・休々斎の指導で明治26年(1893)に建てられたもので、大工も薮内家に出入りする大工が当たった。
 積翠庵は薮内家を代表する名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られている。燕庵を模して造ることが許されるのは、薮内流皆伝を授かった者だけで、11代当主がいかに薮内流の茶の道に通じていたかを物語っている。
屋敷内の庭園も休々斎と薮内流9代家元の次男・薮内節庵の合作で作庭され、庭園内のあちこちに茶人らしいデザインがうかがえる。

雲脚席

(写真は 雲脚席)


 
麦酒のふるさと  放送 5月16日(水)
 吹田はかつて"水どころ"であった。古代から広大な千里丘陵をくぐり抜けてきた地下水が湧き出ており、万葉集にも清冽な清水が湧き出ている様子が歌われている。このような霊泉がそこかしこに湧き出ていたのが、昔の吹田村で、吹田市役所近くの泉殿宮(いづどのぐう)にも霊泉が湧き出ていて、吹田三名泉のひとつとされていた。
 この霊泉の地・吹田に日本で初めての本格的なビール工場が建設され、明治24年(1891)から製造を始めた。これが現在のアサヒビール吹田工場で、日本でのビール生産を軌道に乗せるスタートとなった。

泉殿官

(写真は 泉殿

泉殿霊泉

 明治22年(1899)日本人の嗜好に合う純国産ビールの製造を目指す大阪麦酒会社が設立された。関係者はビール醸造に適した良質の水を求め、神戸から京都にかけて関西一円に醸造所建設に適した適水適地探しを始めた。この適水適地探しは、ビール製造の原料や製品の輸送を念頭において交通の便のよい、淀川流域を中心に行われ、淀川の支流・神崎川沿いの吹田の豊富な地下水に調査チームは釘付けされた。
 早速、泉殿宮の霊泉をミュンヘンへ送って判定してもらったところ「麦酒醸造には適水である」との折り紙がつけられ、2年後に泉殿宮の隣接地に壮麗堅固な煉瓦造りの醸造工場・大阪麦酒会社吹田村醸造所が完成した。

(写真は 泉殿霊泉)

 その後、大阪麦酒会社は他の麦酒会社と合併しながら発展し、日本の最大手のビール会社となった。吹田工場も神崎川の水運、現在のJRの吹田駅、吹田操車場の鉄道の利便性も手伝って、工場を拡張し現在では年間大瓶5億7000本分のビールを生産している。
 アサヒビール吹田工場の建設当時の建物は、地下室を備えた地上4層の赤煉瓦造りだった。これほどの大工場でデザイン的にも優れた煉瓦造りの建物は貴重な存在で、この赤煉瓦造りの建物の一部が平成元年(1989)まで残っていたが、同年、外壁の一部だけを残して姿を消した。今はコンピュータ制御による近代的な工場で、おいしいビールが夏場の需要期に向けフル生産されている。

明治29年竣工当時のレンガ壁画

(写真は 明治29年竣工当時のレンガ壁画)


 
岸部の昔  放送 5月17日(木)
 吹田市最東部地区、旧吉志部東村の町並みには草葺き屋根の民家も見られ、街道沿いには五輪塔形の道標も見うけられ、昔の村のままの風情が残っている。
 この旧吉志部東村で江戸時代に同村など10数ヵ村を束ねる大庄屋を務めていた中西家住宅住宅がある。全長25m、高さ5mの白壁の長屋門を構える中西家住宅は、約3400平方mの広大な敷地に主屋など10棟の建物が、江戸時代後期の文政9年(1826)に建てられた。つい最近まで中西家の生活が営まれていたので、手入れがよく行き届いている。平成15年(2003)に国の登録有形文化財に指定され、このほど土地と建物の一部が吹田市に寄贈された。吹田市は月2回程度、抽選で見学会を開くとともに学術研究や文化交流の場として活用する。

中西家住宅

(写真は 中西家住宅)

吉志部神社

 吉志部5ヵ村の産土神として長く地域の信仰を集めている吉志部神社が紫金山史跡公園がある丘の麓に鎮座している。現在の本殿(国・重文)は慶長15年(1610)に再建されたものだが、幅の広い正面の柱間が、七つ割になっている流造七間社と言う全国的にも珍しい造り。軒下には桃山時代の華麗な技法による彫り物の装飾、柱などには極彩色で描かれた花紋、唐草などが目を引く。
 創建当時は七社明神と呼ばれ、祭神が天照大神ほか七柱を祀るための造りとして七間社となった。地元住民らが本殿の上に覆い屋根をかけて守ってきたので、良好な保存状態で現代に伝わっている。

(写真は 吉志部神社)

 吉志部神社がある紫金山史跡公園一帯は、良質な粘土を産出したので古代から奈良や京都の宮廷や寺院の瓦を焼いていた。これまでに平窯9基、登窯4基の窯跡が確認されている。吉志部の地には朝鮮半島からの渡来人・難波吉師が住み着き、一大瓦工房を築いていた。吉志部瓦窯は8世紀末から9世紀初めにかけて平安京遷都に伴う宮殿用の瓦を大量に焼いた官営瓦窯だった。
 吉志部瓦窯跡が吹田市立博物館内で実物大で再現され展示されている。また吉志部瓦窯跡から出土した軒平瓦や七尾瓦窯跡から出土した軒丸瓦、緑釉のついた窯道具なども展示して、古代の吉志部が一大瓦生産地だったことをPRしている。

復元吉志部瓦窯跡(吹田市立博物館)

(写真は 復元吉志部瓦窯跡
(吹田市立博物館))


 
江坂・垂水の歴史散歩  放送 5月18日(金)
 吹田市の西南端、地下鉄御堂筋線の江坂駅周辺の江坂地域は、高層ビルが建ち並び大勢の人が行き交う繁華街となっている。一挙にこのような街に発展したのは、昭和45年(1970)に開かれた大阪万国博覧会がきっかけで、それまではこのあたりは一面に田んぼが広がる田園地帯だった。
 地名も元来は「榎坂」だったが、歴史を無視して古い地名を葬り去り「江坂」と命名した。しかし今も街の片隅に、わずかながら榎坂時代の痕跡を留めているのが、吹田街道沿いにある「榎坂東」「榎坂西」の石の道標である。

蔵人の町並

(写真は 蔵人の町並)

垂水の滝

 こうした道標が残る旧蔵人村の豪農の住宅が建ち並ぶ通りの風景が、江戸時代の風情を感じさせる。この付近は古くから開け、弥生時代から室町時代にかけての複合遺跡の蔵人遺跡があり、これまでの発掘調査で井戸、水路、石組み溝、堀立柱建物跡などが確認されている。この遺跡の東にある垂水遺跡では、弥生時代の竪穴式住居跡、高床式建物跡などの遺構と土器、石器などが確認されている。
 古くから人が住み着いたひとつには、この地域が千里丘陵からの地下水がいたる所で湧き出ていたことによるもので、垂水神社境内にある垂水の滝もそのひとつである。

(写真は 垂水の滝)

 万葉集にある志貴皇子が詠んだ「石(いわ)はしる 垂水の上の さわらびの 萌(も)えいづる春に なりにけるかも」の歌は、垂水神社の垂水の滝を詠んだと言う説が有力。このように清冽な清水が湧き出ていた千里丘陵地帯も、住宅開発などで地下水脈が断たれて湧き出る水が涸れたところが多い。垂水の滝も水量が細くなり、ほとばしると言った風情は薄れている。
 垂水神社はこの地方に勢力を持っていた阿利真公(ありまのきみ)が、干ばつに見舞われた年に垂水の水を難波長柄豊碕宮の孝徳天皇に献上した功績で、垂水公(たるみのきみ)の姓を与えられた。これを機に祖先の崇神天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祀ってこの神社を創設したと伝わっている。

垂水神社

(写真は 垂水神社)


◇あ    し◇
旧仙洞御料庄屋屋敷
西尾家住宅(吹田文化創造交流館)
JR東海道線吹田駅、阪急電鉄千里線吹田駅下車
徒歩10分。
アサヒビール吹田工場 JR東海道線吹田駅下車徒歩10分。 
阪急電鉄千里線吹田駅下車徒歩8分。
泉殿宮 JR東海道線吹田駅下車徒歩10分。 
阪急電鉄千里線吹田駅下車すぐ。
中西家住宅 JR東海道線岸辺駅下車徒歩5分。 
阪急電鉄京都線正雀駅下車徒歩10分。
吹田市立博物館、吉志部神社、
吉志部瓦窯跡、吉志部古墳
阪急電鉄千里線吹田駅からバスで佐井寺北下車
徒歩8分。
阪急電鉄千里線吹田駅からバスで岸部下車
徒歩10分。
JR東海道線岸辺駅下車徒歩20分。
垂水神社 阪急電鉄千里線豊津駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
吹田市役所文化のまちづくり室 06−6384−1305
吹田市立博物館 06−6338−5500 
吹田市文化創造交流館・旧西尾家住宅 06−6381−0001
アサヒビール吹田工場 06−6388−1231 
アサヒビール吹田工場見学予約・
問い合わせ
06−6388−1943
泉殿宮 06−6388−5680 
吉志部神社 06−6388−5735 
垂水神社 06−6384−1526 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会