月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宇治市 

 京都市に近い宇治市は、平安時代にはその風光明媚な自然と地理的条件が貴族たちに好まれ、別荘地として持てはやされ、源氏物語宇治十帖の舞台にもなった。こうしたことから宮廷文化の雅が今も随所に感じられる。一方、高級茶・宇治茶の茶所としても知られ、他都市にない独特の雰囲気を醸し出す都市でもある。


 
新茶の味わい  放送 5月28日(月)
 「夏も近づく八十八夜…」立春から88日目、5月初めは黄緑色の茶の葉が芽吹き、茶所では茶摘みの最盛期を迎える。宇治で茶の栽培が盛んになったのは13世紀半ばから14世紀にかけてで、茶の栽培に関する記録に「宇治」の文字が現れるのも南北朝時代末の永徳年間(1381〜84)のことである。
 室町幕府3代将軍義満は宇治茶の栽培を奨励し「宇治の七茗園(しちめいえん)」と呼ばれる茶園を開かせた。この七茗園は「森、祝井、宇文字、奥ノ山、朝日に続く琵琶とこそ知れ」と歌にも詠まれたほどで、その七園のうち現在唯一残っているのが約20アールの奥ノ山茶園で、この茶園では最高級の茶葉を生産している。

奥ノ山茶園

(写真は 奥ノ山茶園)

堀井七茗園

 茶は大別すると玉露、抹茶、煎茶、番茶、焙じ茶、玄米茶がある。茶が芽吹くころに茶の木をヨシズやワラ、寒冷紗などで覆って、茶の新芽に直接日光が当てないようにする栽培方法の茶園を「覆下茶園(おおいしたちゃえん)」と言い、玉露や抹茶の元になる碾茶(てんちゃ)の甘味のある味わい深い高級茶葉を育てる。
 奥ノ山茶園で茶を栽培している堀井七茗園は、3代目・堀井長次郎が碾茶製造の機械化に取り組み、大正13年(1924)に「堀井式碾茶製造機」を完成させ、むらのない均一な碾茶の製造に成功した。これによって抹茶の原料となる碾茶の品質向上が図られ、宇治茶の名声を一層高めた。

(写真は 堀井七茗園)

 堀井七茗園では茶木の品種改良にも取り組み、在来種の中から優れた品種を絞り込み、足かけ20年の歳月をかけて改良した碾茶向きの「成里乃」と玉露向きの「奥ノ山」の新品種2種を誕生させた。
 「成里乃」は茶のうま味である「テアニン」が他の品種に比べ2倍もあり、ふくよかな香りが特徴の抹茶になる。抹茶の原料の碾茶は低温冷蔵庫で保管され、需要に応じて空調設備の整った湿気のない抹茶製造室で、60台の石臼がきめ細かに挽く。抹茶の新茶は11月の「口切りの茶事」で始まるが、堀井七茗園の当主が一子相伝の作法によって、宇治市内の県神社や京都市の平安神宮などで「茶壺口切りの儀」を行っている。

抹茶成里乃

(写真は 抹茶成里乃)


 
山紫水明の地  放送 5月29日(火)
 山々の緑を映す宇治川の滔々たる流れは、古代から中世にかけては舟運にも利用され、木津川を経由して平城京へ木材や穀物などを運んだり、東大寺造営の際には宇治から多くの木材が舟運によって搬入された。
 宇治川の中洲・塔の島の十三重石塔は、弘安9年(1286)宇治橋を架け替えた奈良・西大寺の高僧・叡尊が、宇治橋の安全と魚供養のために建立したもので、鎌倉時代の石造美術品の第一級品と言われている。塔の島の下流にある橘島には、木曽義仲追討の時に梶原景時と佐々木孝綱が先陣を争ったことで有名な「宇治川先陣の碑」が立っている。

宇治川

(写真は 宇治川)

宇治上神社

 公園となっているこの中洲の塔の島と橘島は、観光客らが宇治川の眺めを楽しんだり、鵜飼見物でにぎわう場所となっている。また、この風光明媚な中洲周辺の宇治川を上り下りしながら、船上で抹茶が味わえる舟茶席が楽しめるのも茶所・宇治ならではの趣向である。
 この中洲がある宇治川の右岸・仏徳山の麓に、応神天皇の第2皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、宇治の離宮「桐原日桁宮(きりはらひけたのみや)」を建てている。菟道稚郎子は応神天皇崩御後、後の仁徳天皇となった兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と皇位を譲り合い、遂に自害して兄を皇位に即かせたと言う悲話が伝わっている。

(写真は 宇治上神社)

 この菟道稚郎子と応神天皇、仁徳天皇の父子3人を祀っているのが宇治上神社。本殿(国宝)は平安時代中期の建立と推定され、現存する神社建築で最古のものである。中央に父・応神天皇、左に菟道稚郎子、右に仁徳天皇を祀る3棟の社殿が、大きな建物の覆屋で覆われていると言う特徴的な社殿である。離宮明神、離宮社とも称されており、同じ時期に建立された平等院とともにユネスコの世界文化遺産に登録されている。
 宇治上神社の静かな境内にある「桐原水」は、宇治七名水の中で唯一残るもので、今も清水が湧き出ている。他の宇治名水は茶の湯に使われていたようだが、桐原水は神社に詣でる前の手水として使われていた。

桐原水

(写真は 桐原水)


 
茶陶・朝日焼  放送 5月30日(水)
 宇治川をはさんで宇治・平等院の対岸にある朝日山は、すぐそばの仏徳山と並んで優美な姿を見せる山として知られ、朝日を一番先に受けるので朝日山の名がついた。その朝日山の麓に関ヶ原の戦直後の慶長年間(1596〜1615)に開かれた朝日焼窯元がある。
 初代の奥村次郎右衛門は小堀遠州の指導を受けて「朝日」の二文字を与えられ、遠州が茶器を製するために選んだ「遠州七窯」のひとつに数えられた。茶所宇治にあって京都や桃山にも近く、3代目ごろになって朝日焼は大名、公家、文人、茶人に好まれ、茶陶としての地位を築いた。

朝日山

(写真は 朝日山)

朝日焼窯元

 江戸時代中期には朝日焼も厳しい時代を迎え、5代目から7代目窯元のころには、茶を栽培しながら朝日焼の技を継承する半農半陶の生活を余儀なくされた。その後、京都の御所への出入りも許されるようになり、9代・長兵衞の時代に江戸時代初期をしのぐ盛期を取り戻したことから、9代目は朝日焼中興の祖と言われている。
 その後、明治時代から大正、昭和、平成へと親から子へ、そして孫へと朝日焼の技は引き継がれ、現在は15代・豊斎の代となっている。朝日焼も時代の変遷と共に新しい工夫を積み重ねており、茶陶にこだわらず気軽に楽しめる生活の器も生み出している。

(写真は 朝日焼窯元)

 朝日焼は朝日山の土を使って焼いている。その土は長年寝かせて自然風化させたもので、現在、窯元に残っている土は、幕末の安政年間(1854〜60)に9代目窯元が採取したものである。今は宇治川対岸の丘陵地の折居山から土を採取しているが、この土は現在の窯元の孫の代になってようやく焼物になる。
 朝日焼は土の中に含まれている微量の鉄分やその他の成分が、炎による酸化と還元によって微妙な領域が発色するのが特徴で、窯出しするまで作品の出来上がりがわからない。こうした朝日焼の優れた作品がすぐそばの朝日焼窯芸資料館に展示されており、作陶館では陶芸教室も開かれている。

八代形窯変煎茶器 十五代豊斎作

(写真は 八代形窯変煎茶器 十五代豊斎作)


 
老舗の創意  放送 5月31日(木)
 JR宇治駅に近い茶舗・中村藤吉本店は、幕末の安政6年(1859)に伊勢神宮の茅葺き職人の長男・小中村藤吉がその姓から「小」の字を抜いて創業した。以来140余年間、茶業一筋の商いを重ね現当主で6代目になるが、単に日本茶の伝統を守るだけにとどまらず、お茶の新しい味わい作りにも取り組んでいる。
 煎茶や抹茶、焙じ茶、番茶など本来の茶の商品のほかに、若者向けに茶をアレンジした生茶ゼリイ、シフォンケーキ、生ちゃこれーと、抹茶羊羹、抹茶クッキーなどの菓子類なども創作している。新茶のフレッシュな香りが味わえる新茶ゼリイは当然、新茶の季節のみの期間限定の一品。

中村藤吉本店

(写真は 中村藤吉本店)

新茶ゼリイ

 店内も趣向を凝らしている。本店内のカフェは明治、大正期に建てられた製茶工場の雰囲気をそのまま残して改装した。とりわけ太い梁が見える天井までの高さが8mもある吹き抜け、高い腰屋根の窓から陽光が差し込む広い空間は開放感いっぱいで、このカフェで味わうお茶のひとときは心が和む。オープンテラスからは中庭の樹齢200年、高さ6m、長さ12mのクロマツ宝来舟松を眺めながらの喫茶が楽しめる。
 平等院支店には豪商・菊屋久左衛門の別邸にあって伊藤博文命名の「迎鶴楼」の外観をそのまま残し、内装をモダンにしたカフェもある。

(写真は 新茶ゼリイ)

 中村藤吉本店の創業以来の家訓は「子々孫々にわたり宇治の地で茶の商いに精進し、茶の薫煙を絶やさぬように」と言う「茶煙永日香」。この家訓は初代藤吉が創業まもないころ、京都・伏見に滞在していた勝海舟に会った時、海舟から贈られ、海舟が自ら筆を執って書き上げた五文字の書が伝わっている。
 昭和3年(1928)には昭和天皇にお茶を献上し、天皇は大変なお気に入りで当時の宮内大臣からの献上の証が贈られている。また平成6年(1994)の平安建都1200年の際には、玉露、煎茶、かぶせ茶、碾茶(てんちゃ)をそれぞれ混ぜ合わせた門外不出の「中村茶」を披露するなど、宇治茶の振興にも寄与している。

天皇家への献上茶の栄誉

(写真は 天皇家への献上茶の栄誉)


 
明恵上人の教え  放送 6月1日(金)
 茶の原産地は中国・雲南省付近で、鎌倉時代初めに栄西禅師が茶の種を中国・宋から持ち帰ったのが、日本での茶の栽培の始まりとなった。京都の栂尾・高山寺の明恵上人が栄西禅師から茶の種を譲り受け、境内で栽培した。さらに上人は気候、土質が茶の栽培に適していた宇治でも茶の栽培を広めたのが、宇治茶の始まりとなった。この恩に応え宇治の茶業者は毎年、新茶を高山寺の明恵上人の御廟に献茶している。
 明恵上人は茶栽培を奨励したが、宇治の里人は茶の種を植える間隔が分からず困っていると、上人が畑の中に馬を乗り入れ、畑にてできた蹄の跡に茶の種を蒔けばよいと教えたと言う。

萬福寺総門

(写真は 萬福寺総門)

駒蹄影の碑

 この明恵上人の教えの故事を顕彰する「駒蹄影(こまのあしかげ)の碑」が黄檗山萬福寺の総門前にある。以前はこのあたりにも茶畑が広がっており、大正15年(1926)宇治の製茶家有志が茶園にこの碑を建立したが、茶園の宅地化が進んだため、昭和32年(1957)に萬福寺門前に移された。顕彰碑には上人が詠んだ「都賀山の 尾上の茶の木 分け植えて あとそ生べし 駒の蹄影」の歌が刻まれている。
 室町時代に入り茶道が興隆し、茶を服する風習が貴族や武士、僧侶の間に広まり、宇治茶は一躍、全国に知られるブランド品となった。

(写真は 駒蹄影の碑)

 江戸時代には宇治茶は徳川将軍や各地の大名たちにも献上された。中でも徳川将軍に献上するお茶の行列は「お茶壺道中」として有名で、大名行列も道を譲ったほど格式の高いものだった。「ズイズイズッコロバシゴマミソズイ 茶壺に追われてトッピンシャン…」の童謡は、お茶壺道中にあわてふためく様子を歌ったものである。
 高級茶の代名詞・宇治茶は歴史の古さと品質の高さを売り物にした抹茶、玉露、煎茶が主製品で、これら高級茶を販売する店が宇治市内には多く「お茶の重兵衛」もそのひとつ。だが、最近はお茶を様々な形にアレンジした菓子や料理なども登場している。

お茶の重兵衛

(写真は お茶の重兵衛)


◇あ    し◇
奥ノ山茶園JR奈良線宇治駅下車徒歩20分。 
京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩25分。
堀井七茗園(茶舗) JR奈良線宇治駅下車徒歩10分。
京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩15分。
宇治上神社京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩10分。 
JR奈良線宇治駅下車徒歩20分。
朝日焼窯元京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩6分。 
JR奈良線宇治駅下車徒歩17分。
中村藤吉本店(茶舗) JR奈良線宇治駅下車すぐ。
京阪電鉄宇治線宇治駅下車徒歩15分。
高山寺JR京都駅からJRバスで栂尾下車徒歩5分。 
駒蹄影の碑京阪電鉄宇治線、JR奈良線黄檗駅下車徒歩7分。 
◇問い合わせ先◇
宇治市商工観光課0774−20−8724 
宇治市観光協会、舟茶席0774−23−3334 
奥ノ山茶園・堀井七茗園0774−23−1118 
宇治上神社0774−21−4634 
朝日焼窯元0774−23−2511 
中村藤吉本店 0774−22−7800 
高山寺075−861−4204  
お茶の重兵衛0774−32−0716 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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