月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都・丹後の海辺

 京都府最北端の丹後半島。その海岸線は日本海の風波に洗われた荒磯や白砂の砂浜、自然が創出した海岸美が続く。その沿岸へは対馬暖流に乗って回遊してくる魚類や岩礁に生息する魚介類など海の幸が豊富。特に夏はマリンレジャーの季節で、日本海を望む雄大な自然を求めて行楽客や観光客でにぎわう。


 
海にいきる(伊根町) 放送 6月18日(月)
 丹後半島の北東岸を占める伊根町の南端は波静かな伊根湾。この伊根湾は日本海側では珍しく南向きで、冬の北西の季節風も後の山が防ぎ、湾の出入り口の青島が天然の防波堤となり、波静かで潮の干満差が少ない天然の良港で、古くから漁業が盛んで漁師町として栄えた。
 江戸時代から「伊根はよいとこ 後は山で 前は鰤(ぶり)とる 鯨(くじら)とる」と唄われ、ブリ漁とクジラ漁が盛んだった。江戸時代には伊根で獲れるブリを「伊根ブリ」と呼び、日本山海名産図絵にも「伊根のブリは上品」と記され、その味に太鼓判を押している。

定置網漁

(写真は 定置網漁)

伊根湾捕鯨実況(京都府立丹後郷土資料館 蔵)

 江戸時代は湾内で刺し網漁法でブリを捕っていたが、明治時代にはいると湾外へも出てブリの群れを一網打尽にする定置網漁法に変わった。さらに定置網を大型化した大敷網漁法が取り入れられ、昭和20年代までは富山県氷見市、長崎県の五島列島と共に日本三大ブリ漁場とされていた。
 ブリは脂ののった寒ブリが最高とされ、秋から冬にかけてが定置網漁の漁期ななので今は見られない。この時期はブリ漁以外の定置網漁をする船が、荒天以外の日には毎日出ており、夜明けごろに活気あふれる水揚げが行われる。この季節はアジ、サバ、イカなどが網からドッとはき出され甲板上で跳ね回る。

(写真は 伊根湾捕鯨実況
(京都府立丹後郷土資料館 蔵))

 定置網漁で水揚げした魚を積んだ船が帰港、魚市場で選別作業が行われ、威勢のよいセリが始まると市場が最も活気づく。漁を終えた船が帰って行く先は伊根名物の「舟屋」である。
 伊根湾では室町時代からクジラ漁が行われていたと伝えられている。クジラ漁が盛んになったのは江戸時代末期からで、イワシの群れを追いかけて湾内に迷い込んだクジラを、銛(もり)を打ち込んで捕らえる漁法だった。鯨永代帳よると明暦2年(1656)から大正2年(1913)257年間に、ザトウクジラ171頭、ナガスクジラ144頭、セミクジラ40頭、計355頭を捕ったと記録されている。

チゲ弁当

(写真は チゲ弁当)


 
舟屋の里(伊根町) 放送 6月19日(火)
 伊根名物の舟屋。海に向かって妻入の建物が口を開け、1階が海面から傾斜をつけて舟を引き上げやすくした舟の格納庫兼作業場、2階が住居になっている漁師町ならではの建物。伊根湾沿いに230軒の舟屋が並び、近年は映画やテレビのロケも頻繁に行われて「伊根の舟屋」はすっかり有名になり、観光資源にもなっている。
 伊根湾は波静かで潮の干満差が小さいので舟屋に最適。こうした舟屋が今も数多く残っているのは珍しく、平成17年(2005)に全国の漁村で始めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。舟屋の2階の居住部分を民宿にしている所もあり、波の音を聴きながら一夜を過ごす民宿が観光客に人気がある。

伊根湾

(写真は 伊根湾)

伊根湾めぐり遊覧船

 昔の舟屋は小屋に風を入れるため板壁を張らず、ワラや古綱をつるしたワラ葺きの平屋だった。明治時代中ごろから瓦葺きになり、昭和時代初めに寝泊まりして、いつでも舟が出せるように大部分が2階建てになった。
また漁師町の若者が寝泊まりする交流の場の「若衆宿」と呼ばれる舟屋もあった。
 昭和時代初めに行われた府道の拡張工事で、主屋と隣接していた舟屋が道路で切り離された。主屋は舟屋の山側に建っており、ほとんどが道路側に出入り口を持ち、広間型三間取りの丹後型と呼ばれる平入造りの建て方となっている。漁具などを保管する土蔵は耐火性の優れた造りで、江戸、明治時代に建てられたものが多い。

(写真は 伊根湾めぐり遊覧船)

 伊根湾の湾岸沿いにずらりと並ぶ舟屋を伊根湾巡りの遊覧船から眺めるのも面白い。海上から眺める舟屋は漁師町独特の景観を成しており、陸地からの眺めとは趣を異にした感動を与えてくれる。また、遊覧船上から船に群がるカモメにエサを投げ与えるあまりできない体験に、観光客は歓声をあげ大喜びしている。この伊根湾巡りはクジラの供養塔がある青島などを巡る30分のコース。
 この舟屋の里がある伊根町の中心地から北上した海岸沿いに奥伊根温泉があり、露天風呂につかりながら雄大な日本海を眺め、風呂上がりには豊富な日本海の海の幸に舌鼓を打って至福のひとときが過ごせる。

「奥伊根の賑」(奥伊根温泉 油屋)

(写真は 「奥伊根の賑」(奥伊根温泉 油屋))


 
浦嶋神社(伊根町) 放送 6月20日(水)
 伊根町本庄浜の浦嶋神社(宇良神社)の祭神は、浦嶋子(うらのしまこ)即ち浦島太郎として知られる伝説の人である。浦嶋伝説は日本各地に伝わるが、伊根町に伝わる浦嶋伝説の起源が国内で最も古いとされ、神社には乙姫の小袖(国・重文)や玉手箱、浦嶋明神縁起(国・重文)などが伝わっている。
 一般的に伝わる浦嶋伝説は、明治、大正、昭和時代の文部省唱歌や国語の教科書に登場する「助けた亀に連れられて竜宮城へ行き、乙姫たちと楽しい暮らをして国へ帰り、乙姫からもらった玉手箱を開けてしまい老人になる」との筋書きだが、伊根に伝わる浦嶋伝説は少し筋書きが異なる。

本庄浜

(写真は 本庄浜)

浦嶋明神縁起掛幅

 浦嶋神社に伝わるお話は…。5世紀の記紀伝承の雄略天皇の時代、漁に出た浦嶋子は3日3晩たっても魚が1匹も釣れないので、あきらめて帰ろうとしていた時、五色の大亀を釣り上げた。その後、舟の中で居眠りをしている間に亀は美しい乙女の姿に変わり、嶋子を常世の国へと誘った。
 釣り上げた亀は神女の亀姫であり、嶋子は亀姫と結婚して宮殿で姫と楽しく300年間を過ごした。しかし里心がついて故郷へ帰りたくなり、亀姫から「決して開けてはなりません」と言われた玉手箱をもらって帰ったのが、300年余り後の平安時代初期の天長2年(825)のことだった。

(写真は 浦嶋明神縁起掛幅)

 土地の人から「300年ほどの昔、嶋子と言う人が海に出たまま帰ってこなかったとの言い伝えがある」と聞かされ、途方に暮れた嶋子は亀姫が恋しくなり玉手箱を開けると、白煙が立ち昇り一挙に老人になり死んでしまったと言う。この年に浦島神社が創建されたと伝わる。
 伊根の浦嶋伝説は平安時代の8世紀初期に出た丹後國風土記に記されているほか、日本書紀、万葉集にも登場している。このほか「浦嶋子口伝記」や「続浦嶋子伝記」などが神社に伝わることから、地元では伊根の浦嶋伝説がオリジナルで、他の浦嶋伝説はこれを基にしたものであると強調している。

玉櫛笥

(写真は 玉櫛笥)


 
徐福伝説(伊根町) 放送 6月21日(木)
 浦嶋伝説が丹後のみならず日本各地に残っているのと同様に、日本各地の海辺で語られるのが徐福伝説である。京都府伊根町を除いて、徐福伝説が伝わる主な県は鹿児島県、宮崎県、佐賀県、福岡県、三重県、和歌山県、愛知県、山梨県などがある。
 徐福は約2200年余り前の紀元前219年、秦の始皇帝の命により不老不死の霊薬を求め、童男童女3000人と様々な職人を連れ、五穀の種子などを積んで、東方の蓬莱の島を目指して中国を船出したと言う人物。そして伊根町の新井崎(にいざき)の海岸に漂着したと伝わっている。

新井崎

(写真は 新井崎)

新井崎神社

 不老不死の霊薬とは、九節の菖蒲(しょうぶ)と黒茎の蓬(よもぎ)ではなかったかと言われている。しかし十分な霊薬が手に入らなかったため徐福は国へ帰ることができず、この地に住み着き稲作、漁労、医薬、天文、占いなどの技術を里人たちに教え、住民から慕われ尊敬されていた。
 徐福は死後、産土神として祀られ、これが現在の新井崎神社である。新井崎神社は昔から海上安全、漁業、それに「はしか」の神様として地元民の信仰を集めている。神社の東方海上の冠島と沓島は、神仙思想の冠と沓を表すものであり、先人が作った遺産の棚田・新井の千枚田などが新井崎の徐福伝説に真実味を添えている。

(写真は 新井崎神社)

 全国各地の徐福伝説の筋書きはほぼ同じである。中国では徐福は伝説上の人物とされていたが、最近、江蘇省に徐福がすんでいたと言う徐阜村(徐福村)があり、現在、村には徐福の子孫と伝えられる人が住んでいる言われ、実在の人物説が有力になっている。
 しかし、徐福には依然として謎がつきまとう。徐福の職業である方士は、呪術、祈祷、薬剤、占星、天文などの術に秀でた者とされ、謎めいた部分が多い。また、本当は霊薬を求めるためでなく、中国を脱出する口実ではなかったかとも言われている。だが、実在の人物であれば弥生時代初期に日本へ稲作文化など、優れた大陸文化と技術を伝えた功績は大きい。

新大明神口碑記

(写真は 新大明神口碑記)


 
琴引浜の鳴き砂
(京丹後市網野町)
放送 6月22日(金)
 丹後半島の海辺には数多くの名勝があるが、その中で全長1.8kmの網野町の琴引浜は、消波ブロックなどの人工の構造物などは一切ない真っ白な砂浜が続いている。砂の上を歩くと砂が摩擦して「キュッ、キュッ」と音がする「鳴き砂」の浜で、このほど国の天然記念物に指定された。
 景勝地としては古くから知られ、江戸時代から多くの有名人が訪れている。戦国大名の細川幽斎、幽斎の子・忠興の妻・ガラシャ夫人、歌人の与謝野寛・晶子夫妻らが訪れ歌を詠んでいる。ほかに鉱物学者や歴史学者、文人らが訪れ、この神秘な琴引浜の鳴き砂を音を体感している。

琴引浜

(写真は 琴引浜)

琴引浜鳴き砂文化館

 なぜ砂が鳴くような音を出すのか。鳴き砂の主成分は石英。この石英の砂粒がきれいな水や空気で洗われ、表面の摩擦係数が大きくなり、砂に大きな力が加わり限界に達すると砂が動きその時に音を出す。砂の表面が汚れると摩擦係数が低くなり音が出なくなる。たばこの灰が砂に混じっただけでも音がしなくなると言う。
 かつて日本列島のあちこちに鳴き砂の浜がたくさんあったが、海岸の環境汚染で次々と姿を消し、鳴き砂は今や貴重な存在となっている。平成9年(1997)のロシアのタンカーの座礁事故で、重油が琴引浜に流れ着いた時、地元民のほかに全国から大勢のボランティアが駆けつけて重油を取り除き、その懸命な作業の結果、鳴き砂を守ることができた。

(写真は 琴引浜鳴き砂文化館)

 こうした環境保全を訴えると共に鳴き砂の知識や魅力、神秘さを知ってもらおうと、平成14年(2002)「琴引浜鳴き砂文化館」がオープンした。世界の鳴き砂を集めた「鳴き砂地球儀」や手で鳴き砂を鳴かせるコーナー、水の中の鳴き砂を聞く「カエルのゆりかご」などがある。
 目を引くのは、京都市の東山高校地学部の生徒たちが集めた琴引浜の漂着物。南の島から流れ着いたココヤシの実や魚介類のほかに、いろいろな国から流れ着いたプラスチック製品、漁具、海軍の演習用の標的など数えきれないほどだ。これらが海岸を汚染しており、地元住民をはじめ鳴き砂の浜を守ろうとしている人たちは「海や浜を汚すな」と懸命のアピールを続けている。

琴引浜漂着物

(写真は 琴引浜漂着物)


◇あ    し◇
伊根の舟屋の里北近畿タンゴ鉄道宮津線宮津駅又は天橋立駅からバスで
舟屋の里公園前下車。
奥伊根温泉・油屋北近畿タンゴ鉄道宮津線宮津駅又は天橋立駅からバスで
伊根診療所前で乗り換え津母下車
(便数少なく土、日、祝日運休)。              
浦嶋神社北近畿タンゴ鉄道宮津線宮津駅又は天橋立駅からバスで
浦嶋神社前下車すぐ。
新井崎神社北近畿タンゴ鉄道宮津線宮津駅又は天橋立駅からバスで
伊根診療所前で乗り換え新井下車徒歩5分
(便数少なく土、日、祝日運休)。
琴引浜北近畿タンゴ鉄道宮津線網野駅からバスで掛津下車徒歩5分。
琴引浜鳴き砂文化館北近畿タンゴ鉄道宮津線網野駅からバスで掛津下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
伊根町観光協会0772−32−0277
伊根町商工会0772−32−0302
伊根浦漁業株式会社0772−32−0018
伊根湾めぐり遊覧船0772−32−0323
奥伊根温泉・油屋0772−32−0972
浦嶋神社0772−33−0721
網野町観光協会0772−72−0900
琴引浜鳴き砂文化館0772−72−5511

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