月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大和郡山市 

 大和郡山市は古くは平城京の隣接地であり、東大寺の荘園があったことなどから早くから開けた町だった。戦国時代に城が築かれ城下町として発展し、特に豊臣秀長が城主になってからは大和の商業の中心地として栄えた。また全国有数の金魚の生産地として知られ、毎年、全国金魚すくい選手権大会が開かれている。


 
秀長を偲ぶ  放送 6月25日(月)
 郡山城は戦国時代に大和を統一した筒井順慶が天正6年から同12年(1578〜84)にかけて築城したが、順慶没後の天正13年(1585)豊臣秀吉の異父弟・秀長が、大和、紀伊、和泉三国の大守として100万石を領して郡山城に入り、さらに大規模な築城を行った。
 城の増築には多量の石垣用の石が必要で、石の少ない大和ではこの石の確保に苦労したようだ。春日奥山や生駒山から石を切り出したがそれでも足りず、近隣の寺院の礎石や石仏、石塔、五輪塔、石地蔵、さらに平城京羅城門の礎石までかき集めて石垣に積み込んだ。

郡山城跡

(写真は 郡山城跡)

さかさ地蔵

 寺院から石垣用の石を徴集したのには南都寺院の勢力を抑え込む目的もあり、寺院側も秀長のバックにいた豊臣秀吉の強大な権力には抗しきれなかったのであろう。今も郡山城の石垣には"さかさ地蔵?と呼ばれる石地蔵や五輪塔など、寺院などから徴集された石があちこちに見受けられる。
 秀長は城下町の建設にも力を注ぎ、強力な商業保護政策を取り城下町の繁栄を図った。奈良での商売を一切禁じ、強制的に郡山へ商人を集め、税を大幅に減らすなどの手厚い保護策を取った。その名残として先進商業都市から移住してきた商人たちの町の堺町、今井町、奈良町などの町名が今も大和郡山市内に残っている。

(写真は さかさ地蔵)

 郡山城を築き城下町を繁栄に導いた秀長は天正19年(1591)51歳で死去し、この地に埋葬された。秀吉が建立した大光院が菩提寺だったが、京都・大徳寺塔頭として移築されたため、東光院(現春岳院)に位牌と墓所の管理が託された。東光院は秀長の戒名にあやかって春岳院と改め、秀長ゆかりの品々を蔵している。
 秀長の墓は近鉄郡山駅南西の大納言塚。秀長が当時、大納言に叙され「大和大納言」と呼ばれていたので、墓所を大納言塚と呼ぶようになった。荒廃していた大納言塚を春岳院の僧・栄隆やその弟子らが江戸時代中ごろ、長年の歳月をかけて墓所の回りを白壁の土塀で囲み五輪塔を建立して現在の姿に修復した。

大納言塚

(写真は 大納言塚)


 
大和の名刹・矢田寺  放送 6月26日(火)
 大和郡山市の西端の矢田丘陵中腹に建つ矢田寺の正式名は矢田山金剛山寺。大海人皇子が矢田山に登り壬申の乱の戦勝を祈願し、天武天皇に即位後の天武8年(679)勅願によって智通が開いた古刹。「矢田の地藏さん」の別称で知られているが、開山当初は十一面観世音菩薩象と吉祥天女像を本尊としていた。
 創建当時は七堂伽藍が建ち並び48の僧坊があった大寺院だった。戦国時代に松永久秀の兵火で本堂などを焼失した。現在は本堂をはじめ講堂、閻魔(えんま)堂、阿弥陀堂のほか北僧坊、南僧坊など多くの塔頭がある。また絹本著色矢田地蔵縁起や仏像などが国の重要文化財に指定されている。

阿弥陀如来坐像

(写真は 阿弥陀如来坐像)

矢田地蔵縁起(奈良国立博物館 蔵)

 矢田地蔵縁起によると平安時代に矢田寺の満米上人は、小野篁の手引きで閻魔大王に戒律を授けに行った。戒律を授けてもらった閻魔大王が「お布施に何を差し上げましょう」とたずねたところ、上人は「それでは地獄の様子を見せてください」と頼んだ。その地獄で衆生に代わって責め苦を受ける地蔵菩薩を見た。
 現世に戻った満米がその地蔵菩薩の姿を木に刻もうとしたが、なかなか思うように地蔵菩薩像が刻めず苦心していたところへ、春日四社明神の化身である4人の翁が現れて、たちまち地蔵菩薩像を刻んで春日山の方へ去ったと言う。この時から地蔵菩薩像が矢田寺の本尊となり、日本のお地蔵様発祥の地とされている。

(写真は 矢田地蔵縁起
                        (奈良国立博物館 蔵))

 本尊の延命地蔵菩薩像が安置されている脇には仏を守護する増長天像と広目天像が立っている。ほとんどのお地蔵さんは右手に杖、左手に如意宝珠を持っているが、矢田寺の地藏さんは右手の親指と人差し指を結び、左手は掌を上にして宝珠を乗せている独特のスタイルで「矢田型地蔵」と呼ばれている。
 満米上人は地獄から帰る際に閻魔大王から漆塗りの箱をもらって帰った。この箱の中には米が入っており、いくら取り出してもすぐに一杯になった。上人はそれまでは満慶と言う名だったが、この米がいつも一杯になる箱を閻魔さんからもらってから満米と呼ばれるようになった。

本尊 延命地蔵菩薩像

(写真は 本尊 延命地蔵菩薩像)


 
あじさい寺  放送 6月27日(水)
 「矢田のお地蔵さん」として親しまれ地蔵信仰の信者の多い矢田寺だが、梅雨時期の現在は何よりあじさい寺としての人気が高い。境内に植えられたアジサイは約8000本、60種類。緑、白、青、赤紫と様々に色を変えながら咲き続けるアジサイが美しい。
 アジサイは日本の暖地に自生する日本固有の花木で、日本で生まれた園芸品種でその美しさは日本固有のものと言える。外国のアジサイは江戸時代に長崎の出島のオランダ商館の医師・シーボルトが、ヨーロッパへ送ったもので、外国には野生種のアジサイはない。

矢田寺(金剛山寺)

(写真は 矢田寺(金剛山寺))

見送り地蔵

 アジサイが見ごろの時期の矢田寺の境内は、アジサイの木より人の方が多いのではと思われるほどのにぎわい。お参りもそこそこにしてアジサイの花に見とれている参詣者に、本尊のお地蔵さんも「アジサイには勝てんわ」と苦笑いしているかも知れない。
 矢田寺は大門坊、北僧房、南僧房、念仏院の四つの塔頭で一山を構成している。大門坊では古くから容眞御流(ようしんごりゅう)華道の家元として華道の研究が行われている。この大門坊の名物があじさい寺の名に恥じない「あじさい弁当」で、参拝者にはなかなかの人気である。

(写真は 見送り地蔵)

 地蔵信仰の寺・矢田寺の境内には多くの石地蔵がある。参道を少し下がった所に「見送り地蔵」と呼ばれる石地蔵が立っている。矢田寺の満米上人が閻魔(えんま)大王に戒律を授けて地獄から帰った後、地蔵菩薩を刻むのに苦労していた時、春日四社明神の化身の4人の翁が地蔵菩薩を彫って去った時の翁を見送る姿を刻んだものと言われている。
 本堂のすぐ下の参道脇にある「味噌なめ地蔵」は、味噌の味がうまくできずに困っていた農家の女が、夢の中で矢田寺の地藏さんから「味噌を食べさせてくれたらよい味にしてあげる」と言われ、翌朝、寺の地藏さんの口に味噌を塗って帰ると味噌の味がよくなっていたと言う伝説が残るお地藏さん。

味噌なめ地蔵

(写真は 味噌なめ地蔵)


 
箱本十三町  放送 6月28日(木)
 豊臣秀長は大和では郡山以外での商売を禁ずるなどの商業保護政策をとったので、当時の商業先進都市から商人たちが郡山へ移ってきて堺町、奈良町、今井町などができた。また同業者を同一地区に集めてできたのが魚町、塩町、紺屋町、豆腐町、大工町、鍛冶町、材木町、茶町、雑穀町などで、その地名が現在も残っている。
 城下町のうち外堀の内側にある町を内町、外側にある町を外町と大別した。内町は宅地税の地子が免除された町を言い「内町十三町」と呼んでいた。同業者を集めた町に営業上の独占権を認める特許状を与えており、こうした商業上の特権を書き記した文書を「御朱印箱」に納め、封印をして保管していた。

朱印箱(春岳院 蔵)

(写真は 朱印箱(春岳院 蔵))

紺屋町

 秀長は「内町十三町」に「箱本(はこもと)制度」と言う自治制度を定め、13町がそれぞれが1カ月毎に当番に当たり、御朱印箱を町内の会所に置き、紺地に白文字で「箱本」と染め抜いた旗を会所の玄関に立てた。箱本の任務は全町の治安、消火、伝馬から課税の徴収、訴訟の処理、株仲間の統制、宗旨改め、高札場の管理、祭礼への奉仕、変死体の処理まで広範囲にわたっていた。
 13町にはそれぞれ「年寄、月行事、丁代」の世話役が町の自治に当たり、箱本の当番になった時には年寄が全責任を持って13町全体の世話をした。重要問題が起こった時には後、先、当番の三者で処理することになっていた。

(写真は 紺屋町)

 「内町十三町」のうちのひとつ紺屋町は、藍染め職人の家が集まった職人町で、藍染めした布を流水で晒したと言われる細い紺屋川が、今も道路の真ん中を流れている。
 江戸時代中期から染物業を営んでいた奥野家住宅を大和郡山市が改修して箱本館「紺屋」として一般公開している。館内には奥野家で使われていた紺壺置き場が復元され、地中に埋め込まれた紺壺が並んでいる。展示資料室には藍染めの道具や箱本制度を知る古文書などが展示されている。藍染体験工房では入館者が500円〜1000円の実費で、ハンカチやパンダナの藍染めを熟練したスタッフが指導をしてくれ、オリジナル作品を作ることができる。

箱本館 紺屋

(写真は 箱本館 紺屋)


 
金魚のふるさと  放送 6月29日(金)
 大和郡山市は日本一の金魚の町。市内のいたるところに金魚の養殖池があり、100戸ほどの養殖農家が年間8000万匹の金魚、600万匹の錦鯉を生産しており、国内の生産量の約60%を占めている。
 郡山の金魚の歴史は江戸時代中期の享保9年(1724)徳川5代将軍・綱吉の側用人だった柳沢吉保の子・吉里が、甲斐から国替えになって郡山城主になった際、家臣が観賞用に持ち込んできたことに始まる。その後、藩士が副業として金魚養殖をするようになり藩内で養殖が盛んになった。明治維新後は武士を廃業した藩士が正業とするようになり、今日の金魚養殖の盛況へとつながった。

あづま源氏美多高五節句さつき(二代 歌川国貞 画)

(写真は あづま源氏美多高五節句さつき
(二代 歌川国貞 画))

郡山金魚卸売センター

 江戸時代は町人、百姓には金魚の飼育は許されなかったが、明治維新以後は一般農家でも金魚飼育ができるようになった。大和郡山市には数多くの農業用ため池があり、池には金魚のエサになるミジンコが豊富で、水質、水利に恵まれていたので、わが国の金魚主要生産地へと発展していった。
 金魚は約2000年前、中国南部で発見された野生の赤いフナが原種で、これが品種改良されて今日の金魚になった。高級金魚のリュウキン、デメキン、ランチュウ、オランダシシガシラ、チョウテンガン、スイホウガンなどは、品種改良中に突然変異で生まれたものが多い。今や国内だけでなく欧米諸国や東南アジアへも輸出されており、郡山金魚卸売センターでの金魚のセリ市は活気がある。

(写真は 郡山金魚卸売センター)

 大和郡山の金魚養殖に尽力した故嶋田正治氏が金魚養殖の「やまと錦魚園」内に自費で建設した「郡山金魚資料館」がある。「泳ぐ図鑑」と言われる金魚水族館の館内には金魚の原種から高級金魚までが飼育展示されている。ほかに金魚の錦絵など金魚に関する資料が数多く展示されており、金魚のことなら何でもわかる。
 金魚の町・大和郡山では毎年8月の第3日曜日には「全国金魚すくい選手権大会」が開かれ、全国から金魚すくいの腕自慢が集まり、町は大にぎわいとなる。また金魚の町ならではの土産店「こちくや」には、金魚のグッズや菓子などが所狭しと並んでおり、店頭では年中、金魚すくいが楽しめ、金魚が好きなちびっ子たちが金魚すくいの腕を競い合っている。

金魚

(写真は 金魚)


◇あ    し◇
郡山城跡近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩10分。
JR関西線郡山駅下車徒歩20分。 
春岳院近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩10分。
JR関西線郡山駅下車徒歩15分。 
大納言塚近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩15分。
JR関西線郡山駅下車徒歩25分。 
矢田寺(金剛山寺)近鉄橿原線近鉄郡山駅からバスで矢田寺前下車すぐ。
箱本館「紺屋」近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩5分。
JR関西線郡山駅下車徒歩10分。
郡山金魚卸売センターJR関西線郡山駅からバスで本庄町下車徒歩10分。 
郡山金魚資料館近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩10分。
JR関西線郡山駅下車徒歩25分。 
金魚グッズ・こちくや近鉄橿原線近鉄郡山駅下車徒歩5分。
JR関西線郡山駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
大和郡山市商工観光課0743−53−1151 
大和郡山市観光協会0743−52−2010 
春岳院0743−53−1255 
矢田寺(金剛山寺)0743−53−1522
箱本館「紺屋」0743−58−5531
郡山金魚卸売センター0743−56−2300 
郡山金魚資料館0743−52−3418 
金魚グッズ・こちくや0743−54−3003 

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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