月〜金曜日 18時54分〜19時00分


神戸市 

 神戸市民らから「楠公さん」と呼び親しまれている湊川神社は、生田神社の「生田さん」、長田神社の「長田さん」と並ぶ神戸市を代表する神社である。特に南北朝時代に南朝の天皇に変わりない忠節を尽くした武将・楠木正成を祭神としていることから、時代を問わず楠公さんを崇敬する参拝者が多い。今回は湊川神社を中心に楠公さんにゆかりのある地を訪ねた。


 
湊川神社  放送 7月2日(月)
 湊川神社は南北朝時代の名将として知られる楠木正成(1294〜1336)を祭神に、明治5年(1872)に創建された。正成同様に神社もまた「楠公さん」と呼ばれて人びとに親しまれている。
 正成は永仁2年(1294)河内国の金剛山の麓、赤坂村で生まれた。現在の河内長野市の観心寺で学び、さらに兵法も習得して若き武将となった。鎌倉幕府軍が京都に押し寄せた元弘元年(1331)の元弘の乱で、南山城の笠置山に逃れた後醍醐天皇に召され、天皇への忠誠を誓い鎌倉幕府、足利尊氏と戦い、ここ湊川の合戦で尊氏軍に敗れて自決した。正成への評価は時の権力によって移ろい「忠臣」「ゲリラの頭目」「河内の悪党」とそのつど大きく変化した。

楠木正成(横山大観 筆)

(写真は 楠木正成(横山大観 筆))

「青龍」(福田眉仙)

 地元の人びとは正成が葬られた塚(後の墓所)を大切に守り、豊臣秀吉は約100平方mの墓所を免租地し、江戸時代には尼崎藩主・青山幸利が五輪石塔を建てている。元禄5年(1692)水戸光圀が大楠公墓碑を建立し、正成が忠臣として天下に顕彰された。
 幕末から明治維新にかけては吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら勤王の志士たちが、正成の忠誠心を慕って墓所を訪れ、報国の至誠を誓って倒幕に奔走している。志士たちの倒幕運動が実り、明治新政府が誕生して楠木正成を祀る湊川神社建立の動きが表面化した。

(写真は 「青龍」(福田眉仙))

 明治維新後の明治元年(1868)明治天皇が、楠木正成の忠義を後世に伝えるため神社創祀の沙汰を下した。すでにあった墓所、自決地を含めて境内地が定められ、明治5年湊川神社が創建された。
 第2次世界大戦の戦災によって焼失して社殿は、昭和27年(1952)に鉄筋コンクリート造りで再建された。今年は大楠公殉節670年を記念して社殿が修復され、大祭など様々な行事が催された。拝殿天井の絵は全国の著名画家が奉納したたもので、中央の「大青龍」は福田眉仙の作、その右4枚の版画「運命」は棟方志功がニーチェの「ツァラトゥストラ」に暗示されて創作した作品。

「運命」(棟方志功)

(写真は 「運命」(棟方志功))


 
湊川の合戦  放送 7月3日(火)
 延元元年(1336)楠木正成は、九州から東上してくる足利尊氏・直義兄弟の軍を迎え撃って湊川の西、会下山(えげやま)に陣を布いた。
 この湊川の戦いの前、先見の明があり平和を願っていた正成は、尊氏が京都で敗れたのを好機ととらえ、尊氏との和睦を献策した。だが、この策は公家たちに容れられず余儀なく臨む戦いとなったが、万に一つも勝ち目がないことは承知であった。兵庫津から上陸してきた敵は数万、味方はわずか700余騎。奮戦6時間におよぶ合戦の末、手勢わずか73人となり「もはやこれまで」と生き残りの兵を布引き滝方面へ逃し、自決の覚悟を決めた。

楠木正成 湊川大合戦の図

(写真は 楠木正成 湊川大合戦の図)

楠木正成 戦没地

 正成は弟の正季と「七度生まれ変わっても朝敵を滅ぼそう」との「七生滅賊」を誓い合って刺し違え、その生涯を閉じた。この地が殉節地(じゅんせつち)とされ、湊川神社境内の西北すみにあり「史跡楠木正成戦没地」の石碑が立っている。
 正成の墓は地元の人びとの手で長くひっそりと祀られていたが、豊臣秀吉の検地の時、この墓所が免租地となり、公に認められた墓所となった。その後、尼崎藩主の青山幸利が墓所に松や梅の木を植えて正成をしのび、さらに五輪石塔を建立してその霊を弔うなどしていた。

(写真は 楠木正成 戦没地)

 楠木正成が没した350年後に水戸黄門こと徳川光圀が、自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑を建立して正成の墓所が世に出て、その忠臣ぶりが天下に顕彰された。墓所の傍らには墓所建立に尽力した徳川光圀の銅像が立っている。
 墓碑の裏面には、中国・明の遺臣・朱舜水作の賛文が刻まれている。光圀は「大日本史」を編纂する際に南北朝の歴史を調べ、改めて正成の功績に感動して墓碑建立を思い立った。この墓碑建立が契機となって正成の墓所が広く世に知られるようになり、一般の庶民や旅人らが墓所に立ち寄って手を合わせるようになり、これが忠臣を祀る湊川神社の創祀へとつながった。

楠木正成 墓碑(徳川光圀 筆)

(写真は 楠木正成 墓碑(徳川光圀 筆))


 
大楠公の遺したもの  放送 7月4日(水)
 湊川神社境内の宝物殿には楠木正成所用と伝わる鎧や太刀、また一流の美術家たちが制作した大楠公像や正成にまつわる様々なエピソードを描いた絵画、書などが数多く展示されている。
 楠木正成着用と伝わる「段威腹巻(だんおどしはらまき=国・重文)」の鎧は、300年間、播州竜野藩主・脇坂家の家宝として伝わっていたが、明治24年(1891)湊川神社に奉納された。ほかに武具類や工芸品、書画、歴史資料など約400点を所蔵し、それぞれの所蔵品を入れ替えながら展示している。

伝 楠木正成着用 段威腹巻

(写真は 伝 楠木正成着用 段威腹巻)

楠公父子(富岡鉄斎 筆)

 主なものは富岡鉄斎筆の「楠公父子の絵」、横山大観筆の「大楠公像」、堂本印象筆の「大楠公」、平櫛田中作の「大楠公像」の絵や像、大楠公真筆の「法華経奥書(国・重文)」の書、桜井の別れの場面を描いた蒔絵硯箱「桜井駅図」などがある。
 楠木正成の幼少期から湊川での壮烈な最期まで、正義と忠義の一生涯を再現したジオラマを見ると、大楠公がどのような人物であったかが、誰にも理解できる仕組みになっている。

(写真は 楠公父子(富岡鉄斎 筆))

 この正成の一生で最も心打つ場面が「桜井の別れ」。討死を覚悟した湊川の合戦を前に、現在の大阪府島本町の「桜井の駅」で、11歳の息子・正行に「父が死んだ後、尊氏の世となっても降参することなく尊氏と戦い、天皇に忠節を尽くすように」と諭して後事を託し別れたと言う。
 戦前の日本人なら「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ…」の歌詞で知られる唱歌「桜井の訣別」(落合直文作詞・奥山朝恭作曲)で、桜井の別れの場面を知らぬ者はいない。6番までの歌詞が楠木父子のつらい別れと天皇への忠臣ぶりを赤裸々に歌っている。

楠木正成(堂本印象 筆)

(写真は 楠木正成(堂本印象 筆))


 
楠公武者行列  放送 7月5日(木)
 湊川神社の楠公武者行列は、元弘3年(1333)隠岐島を脱出した後醍醐天皇を楠木正成が神戸に迎え、京都へ先導した姿をたたえて行われてきた行事。明治5年(1872)に湊川神社が創建され、明治7年(1874)の楠公祭で神輿渡御が行われ、これに供奉する形で大楠公を大将とする騎馬武者らの武者行列が始まった。
 戦前は「港神戸の華」と言われるほど絢爛豪華な時代絵巻が繰り広げられた。特に大楠公600年祭の昭和10年(1935)の武者行列は、南北朝時代の厳密な時代考証に基づいて衣姿や武具が新調され、総勢3000人の大行列の時代絵巻が繰り広げられた。

湊川神社

(写真は 湊川神社)

楠公武者行列

 戦後の武者行列は連合軍の占領政策などによる弾圧もあって寂しいものになっていたが、それでも昭和40年(1965)までは簡素ながら毎年行われていた。
 その後は湊川神社周辺の地下鉄の建設工事や道路事情などから平成14年(2002)までに、武者行列が行われたのは昭和50年(1975)と昭和60年(1985)の2回だけと言う、寂しい限りの武者行列になっていた。湊川神社鎮座130年、墓碑建立310年の平成14年、氏子や神戸市民らの大楠公武者行列復活の熱意が実り、17年ぶりに戦前の武者行列に近い形で復活した。

(写真は 楠公武者行列)

 大楠公670年祭の今年は社殿修復完成記念も合わせ、さらに衣姿や武具なども新調して、平成14年の催行以来5年ぶりの武者行列となった。湊川神社を出発した総勢800余人の武者行列は、元町〜中突堤〜ハーバーランド〜新開地〜湊川公園〜湊川神社の6kmの行程を6時間にわたって練り歩いた。
 JR兵庫駅から東へ1kmほどのところにある福厳寺(ふくごんじ)は、隠岐島から還幸した後醍醐天皇が立ち寄って行在所とした寺で、ここで楠木正成と赤松円心が天皇を出迎えた。その後、天皇は楠木、赤松らに護衛されて京都へ入っており、戦前の楠公武者行列はこの福厳寺の前も通過していた。

福厳寺

(写真は 福厳寺)


 
廣厳寺(楠寺)  放送 7月6日(金)
 湊川神社の真北に位置する廣厳寺(こうごんじ)は楠寺(くすのきでら)とも呼ばれている。元徳元年(1329)後醍醐天皇の勅願で、中国・明から来朝していた明極(みんき)禅師を開山に創建された。湊川合戦の時、楠木正成は明極禅師と問答を行って戦いに臨み、その翌日最期を遂げたと言う。
 正成が弟の正季と刺し違えて自決した戦没地は、現在は湊川神社境内の本殿北西にあって国指定史跡・楠木正成戦没地「殉節地(じゅんせつち)」として保存されているが、湊川合戦当時は廣厳寺域内の無為庵があったところで、この無為庵で正成らは自決した。当時、七堂伽藍を備えた廣厳寺はこの合戦の時に焼失し、無為庵も焼けた。

廣厳寺

(写真は 廣厳寺)

楠木正成の墓標を納めた石龕

 その後、再建された寺は荒れていたが、江戸時代の延宝年間(1673〜81)楠木正成を篤く崇拝していた大和国・達磨寺の千厳和尚が廣厳寺に入った再興した。
 天和2年(1682)に開山堂を再建した千厳和尚は、徳川光圀に楠公墓碑建立の志があることを知り、自ら江戸へ下って光圀に墓碑建立を懇請した。同時に楠木正行の子孫に当たる岡山藩主・池田綱政を訪ね墓碑建立への協力を求めている。光圀は大日本史の編纂作業の時、南北朝の歴史を詳しく調べている際に改めて楠木正成の功績を再認識し、正成の功績にふさわしい墓所の建立を念頭においていた。

(写真は 楠木正成の墓標を納めた石龕)

 元禄5年(1692)光圀は自ら筆を取り「嗚呼忠臣楠子之墓」の墓碑銘を書き、光圀の家臣・佐々介三郎を当地に迎えて墓碑の建立が実現した。廣厳寺には正成の墓標を納めた石龕(せきがん)があり、墓碑の原板も寺に保存されている。本堂には正成の守本尊であったと伝えられる毘沙門天像や正成ほか一族の位牌が祀られている。
 徳川光圀が正成の墓碑を建立したことは広く世に知られているが、この墓碑建立に尽力、奔走した千厳和尚の努力はあまり知られておらず、昭和16年(1941)に正成の末裔に当たる人物が、境内に千厳和尚をたたえる碑を建立した。

楠木正成墓碑の原版

(写真は 楠木正成墓碑の原版)


◇あ    し◇
湊川神社、廣厳寺JR東海道線神戸駅下車徒歩7分。
神戸高速鉄道高速神戸駅下車すぐ。
地下鉄山手線大倉山駅下車徒歩5分。
会下山地下鉄山手線上沢駅下車徒歩15分。 
福厳寺JR山陽線兵庫駅下車徒歩10分 
◇問い合わせ先◇
湊川神社078−371−0001 
福厳寺078−681−1951 
廣厳寺078−341−1304 

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