月〜金曜日 18時54分〜19時00分


比叡山延暦寺 

 延暦寺と言う伽藍はない。延暦寺とは比叡山の山内にある約150ほどの堂塔の総称であり、比叡山そのものが延暦寺を表す。比叡山の自然、諸堂塔、修行する人、訪れる人たちすべてが、仏教教団である僧伽(そうぎゃ)を形成すると言われている。今回はこうした日本仏教の聖地のひとつである比叡山延暦寺を訪れた。


 
不滅の法灯  放送 7月9日(月)
 京都府と滋賀県の府県境にそびえる比叡山の全山に、天台宗の総本山・比叡山延暦寺の堂塔伽藍が点在する。山内最大の仏堂で延暦寺の総本堂でもある根本中堂の内陣の厨子には、本尊で秘仏の薬師如来像が安置されている。その厨子の前の三つの釣燈籠に1200年以上にわたって灯り続けているのが不滅の法灯。
 伝教大師・最澄は延暦4年(785)19歳の時、奈良・東大寺で具足戒を受け、国家公認の僧となるが、一部の人間しか救われないとする、奈良の南都仏教の教えに疑問を抱き、比叡山に入って修行を始めた。入山3年後の延暦7年(788)自刻の薬師如来像を安置する草庵・一乗止観院を結び、不滅の法灯もこの時に灯された。

伝教大師最澄

(写真は 伝教大師最澄)

不滅の法灯

 この草庵・一乗止観院が発展して根本中堂となる。織田信長の比叡山焼き討ちなど幾度もの災禍に遭って諸堂は焼失してきたが、この法灯は今日まで連綿と守り継がれてきた。大師の教え「一隅を照らす」のように、参拝した人びとの心に希望の灯りを灯す不思議な力を持つ灯明である。
 信長の焼き討ち後の延暦寺は、豊臣秀吉が再興を手がけ、徳川3代将軍・家光の時代にほぼ復興した。現在の根本中堂も江戸時代初期の寛永19年(1642)に9年の歳月をかけて完成した。観光客の姿もない毎朝6時半から勤行が始まり、僧たちの読経の声が朝のしじまに響き渡る。

(写真は 不滅の法灯)

 根本中堂は左右に延長約90mの回廊があり、回廊のくぐり戸から中に入ると天台様式の大建築がそびえている。堂内は外陣、中陣、内陣に分かれ、内陣は中陣より3m低く、石畳の床は夏でも冷気が漂っている。
 内陣の厨子には伝教大師が刻んだ秘仏の本尊・薬師如来像が奥深く祀られ、その前にお前立ちの像が安置されている。内陣が低く作られていることで、本尊の目線と参拝者の目線が同じ高さにあり、仏も人間もひとつとの仏教を教えを示している。堂内の正面には日本最初の大師号「伝教」の額が掲げられ、中陣の格子天井には諸大名から寄進された草花の絵200枚が描かれている。

根本中堂

(写真は 根本中堂)


 
東塔をめぐる  放送 7月10日(火)
 比叡山延暦寺は東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)の三地域からなり、さらに東塔には5つの谷、西塔にも5つの谷、横川には6つの谷がある。これらを総称して3塔16谷と呼んでおり、最盛期には3塔16谷3000坊と言われていた。三地域にはそれぞれ本堂があり、東塔の根本中堂、西塔の釈迦堂、横川の横川中堂が本堂であり、また16谷には谷堂と呼ばれる本堂があった。
 延暦寺発祥の地・東塔には延暦寺の総本堂である根本中堂をはじめ重要な堂塔が集まっている。根本中堂の正面、52段の石段の上に建つ文殊楼は、比叡山の総門の役目を果たす。

文殊楼

(写真は 文殊楼)

鐘楼

 この重層の楼門形式の建物は、慈覚大師・円仁が中国・唐に留学中、五台山の文殊菩薩堂に感銘を受け、帰国後にこの文殊菩薩堂を模して建てたと言われる。現在の建物は江戸時代初期の寛文8年(1668)に再建されたものである。
 大講堂は僧の学門修行の道場で、比叡山第二の大伽藍である。大講堂での代表的な行事は、5年毎に行われる天台宗最大の法華大会広学堅義と呼ばれる大法会である。内部には比叡山で学んだ法然、親鸞、日蓮ら各宗祖の木像が安置されている。現在の建物は昭和31年(1956)に焼失後、山麓の坂本にあった寛永11年(1634)建築の讃仏堂を移築した。

(写真は 鐘楼)

 戒壇院は天台宗の僧になる者が大乗戒を受ける重要なお堂。伝教大師・最澄は「人は皆、仏性を心中に持つ菩薩である」との信念から、菩薩であることを自覚させる大乗戒を授ける天台宗独自の戒壇の設立に力を注いでいた。当時、国家公認の僧になるための受戒を行っていた奈良・東大寺は、天台宗独自の戒壇設立を認めなかった。最澄の生前にはこの悲願が達せられず、死後7日後に戒壇院建立の勅許が下りた。
 法華総持院は東塔・灌頂堂・寂光堂の総称で、かつては慈覚大師・円仁が建立した法華総持院があった所で、織田信長の焼き討ちから400年後の昭和62年(1987)に再建された。

戒壇院

(写真は 戒壇院)


 
一隅を照らす  放送 7月11日(水)
 伝教大師・最澄は延暦4年(785)19歳の時、比叡山に入り草庵を結び修行を始めた。その決意を示す願文に「解脱の味わい独り飲まず、安楽の果、独り証せず、法界の衆生、同じく妙覚に登り、法界の衆生、同じく妙味を服せん」と記している。これは「もし自分が果実を開くことができたら、それをひとりでも多くの人に施し、無上の果実を分かち合いたい」と言うものである。
 これは「悟りを開いた一部の人間だけが救われる」とする、奈良・南都仏教の教えに対する若き最澄の批判である。この疑問に対する答えを得ようと比叡山に登って草庵・一乗止観院で座禅を組み、沈思黙考し、経典の研究に没頭した。

大講堂

(写真は 大講堂)

薬師如来坐像(国宝殿)

 この草庵に自刻の薬師如来像を安置し不滅の法灯を灯した一乗止観院が、現在の比叡山延暦寺の総本堂・根本中堂へと発展していった。一乗止観院での修行の結果、生きとし生ける者すべての人に対する救いの平等を説いた法華経の教えにたどり着き、天台宗を開創した。
 すべての仏教を包含した多様な仏教世界を形作り、その多面的な世界観に基づいた天台宗の教えが、新たな仏教の担い手を比叡山から世に輩出した。その中には浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍と言った宗祖をはじめ多くの名僧、傑僧を出し、比叡山延暦寺は日本仏教の中核を成し、日本仏教の母山と称された。

(写真は 薬師如来坐像(国宝殿))

 大師は比叡山に天台宗の僧になるための大乗戒を授ける戒壇院を設立するため、嵯峨天皇に「三家学生式(さんげがくしょうしき)」を上奏した。その中で「国宝とは何物ぞ。径寸十枚(金銀財宝)これ国宝にあらず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と強調している。今いる場所、立場で努力して自分を輝かせる人こそ国宝的人材であり、その放つ光が周りを照らし、やがては世界を照らすと言ったのである。
 平成4年(1992)にオープンした国宝殿は、延暦寺の国宝、重要文化財などの仏像、仏画、書、美術工芸品などを管理、保管するため一堂に集め、順次展示して拝観できるようにしている。

阿弥陀如来坐像(国宝殿)

(写真は 阿弥陀如来坐像(国宝殿))


 
西塔への道  放送 7月12日(木)
 西塔は東塔から北へ1kmの所にあり、森閑とした山内に参道が続き山王院を経て浄土院へ。浄土院は弘仁13年(822)に56歳で入寂した伝教大師・最澄の廟所で、比叡山で最も清浄な聖域。浄土院では侍真(じしん)と呼ばれる修行僧が、生身の大師に仕えるがごとく奉仕している。
 侍真は12年間の籠山修行をする僧で、12年間1日の休みもなく、大師に1日2回の食事を供え、1日3度の勤行をするほか、勉学や掃除などを行う。浄土院内外にはちりひとつないように掃き清められ、この務めを"掃除地獄?とも言う。廟所を守るかのように菩提樹と沙羅双樹が廟所の前に枝を広げている。

浄土院

(写真は 浄土院)

常行堂

 侍真は「大師の真影に侍る」との意味からこのように呼ばれている。侍真は12年間、世間から一切断絶する誓いをたて、一般の人と接する機会はなく、大師への奉仕、勤行、修学を続ける脱俗超俗の世界で修行する。この侍真になるにも血のにじむような厳しい修行をくぐり抜けなければならない。
 浄土院から鳥が鳴き、チョウが舞う森の中の小径をたどって行くと、渡り廊下でつながれた同じ形の二つのお堂の常行堂と法華堂に出る。怪力の弁慶が渡り廊下を天秤棒にして山の下から担って上がったと言う伝説から「にない堂」と呼ばれるようになった。

(写真は 常行堂)

 常行堂は南無阿弥陀仏の念仏を唱えながら常行三昧の修行をする道場、法華堂は座禅を組んで常座三昧の修行をする道場である。
 この渡り廊下をくぐって北に進むと現れる釈迦堂は、西塔の本堂・転法輪堂で、本尊は伝教大師自刻の釈迦如来像で、堂の名もこの本尊に由来する。織田信長の焼き討ちに遭った後、豊臣秀吉が三井寺の弥勒堂(金堂)を文禄4年(1595)に移したもので、比叡山最古の建物である。弥勒堂は貞和3年(1347)に建てられたが、三井寺が秀吉の意に従わなかったので、延暦寺復興の名目で移築した。

法華堂

(写真は 法華堂)


 
静寂の修行地・横川  放送 7月13日(金)
 西塔からさらに北へ峰道をたどって4kmほど進むと静寂に満ちた横川(よかわ)に至る。横川は伝教大師・最澄の後継者である慈覚大師・円仁が嘉祥元年(848)に横川の本堂・横川中堂を開創した。昭和17年(1942)の落雷で全焼したが、昭和46年(1971)伝教大師1150大遠忌を記念して、朱の色も鮮やかな横川中堂が再建された。急な崖に面して建てられており一部は懸造りになっている。
 慈覚大師が中国・唐から帰国する際、暴風雨の船上で感得した観音菩薩を祀るために建立したもので、本尊は柔和は表情の聖観世音菩薩立像である。横川中堂は唐への行き帰りに乗った唐船を模して建てられ、船が浮かんだようにも見える。

横川中堂

(写真は 横川中堂)

恵心僧都源信

 横川中堂の北西の山腹の木の間に見え隠れする根本如法塔は、慈覚大師が修行中に根本杉の洞(ほら)の中で始めた如法写経にちなみ命名され、書写した仏教教典を納めるための塔で、現在の建物は大正14年(1925)の再建である。
 大師が晩年に「命久しからじ」と横川に隠棲して、報恩のために法華経を写経、如法塔に安置した。大師の写経を受け継いで横川では法華経写経が続き、写経した法華経は必ず如法塔に奉納安置する習わしになった。藤原道真の娘で一条天皇の中宮だった上東門院も法華経8巻をここへ奉納している。

(写真は 恵心僧都源信)

 恵心堂は「往生要集」を著し、ひたすら念仏往生を説いて浄土宗の素地を作った、恵心僧都・源信ゆかりの堂で「念仏発祥の地」との石碑が立っている。源信は権力者ばかりでなく、女性も貧者も誰もが念仏を唱えることによって仏になれると、民衆の間に天台の教えを浸透させた。
 「往生要集」は極楽、地獄を描き、念仏を唱えることによって極楽往生できると説いたもので、これらの教えは後に専修念仏を説いた法然、親鸞の浄土信仰へとつながった。また往生要集は平安時代の貴族の心をとらえ、藤原道長は当代随一の能書家に往生要集を筆写させ、持参していたと伝えられている。

「往生要集」

(写真は 「往生要集」)


◇あ    し◇
比叡山延暦寺JR湖西線比叡山坂本駅、又は京阪電鉄石山坂本線坂本駅から
バスで比叡山坂本ケーブルのケーブル坂本駅へ。
ケーブル比叡山駅下車、山内シャトルバスで山内目的地へ。
叡山電鉄叡山線八瀬比叡山口駅から京福電鉄の叡山ケーブル、
叡山ロープウエイを乗り継ぎ比叡山山頂駅下車、山内シャトルバスで
山内目的地へ。いずれもシャトルバス一日フリー乗車券が便利。
◇問い合わせ先◇
比叡山延暦寺077−578−0001 

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