月〜金曜日 18時54分〜19時00分


貝塚市、泉南市 

 和泉山脈の北の山麓から大阪湾の臨海部にかけて広がる貝塚市と泉南市は、工業地帯から田園地帯、丘陵地帯と、それぞれ多彩な顔を持っている。丘陵地帯には古くから人が住み着き、産業や文化が発達した。奈良時代開創の古刹も多く、渡来人が伝えたと言う和泉櫛は特産の伝統工芸品として知られている。


 
水間寺(貝塚市)  放送 7月16日(月)
 貝塚市の海側の南海電鉄貝塚駅と山側の水間駅を結んで走る水間鉄道は全長5.5kmの地方鉄道で、この間に10ヵ所の駅がある。大正15年(1926)に水間観音で知られる水間寺への参拝客のために生まれた鉄道だが、今では地域住民の足である公共交通機関として沿線住民に愛されている。
 終点の水間駅の木造の駅舎はまるでお寺のお堂のようだ。この駅舎は「近畿の駅100選」に選定されているほか、国の登録有形文化財としても登録されているユニークな駅舎である。この水間駅から少し歩くと「厄除け観音」として広く信仰を集めている水間寺にたどり着く。

水間鉄道・水間駅

(写真は 水間鉄道・水間駅)

本尊 聖観世音菩薩

 水間寺は行基が開創した聖武天皇の勅願寺だった。天平16年(744)病に罹った聖武天皇が「奈良の都の西南の方角に、厄除けの霊験あらたかな観世音菩薩が出現する。この尊像を都で信仰せよ」と夢で告げられた。天皇から「この観世音菩薩の尊像を求めるように」と命じられた行基が、奈良の西南の方向に観音を求めてたどり着いたのがこの地であった。
 行基は16童子に導かれ、和泉葛城山からの水が流れ落ちる滝に着くと、巨岩の上に白髪の老人が手に1体の観音像を持って現れた。老人は自ら手首をかみきり行基に観音像を手渡した後、龍と化して昇天した。

(写真は 本尊 聖観世音菩薩)

 この観音像のご利益で聖武天皇の病は治り、天皇は現地で観音像を祀るように行基に命じた。こうして水間寺が創建されたが、天正13年(1585)豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火で焼失、再建されたがその後にも焼失した。現在の本堂や三重塔は江戸時代後期の文政10年(1827)に岸和田城主・岡部長慎が再建した。
 本堂の西に観音が降臨したと言う滝があり「降臨滝」と呼ばれている。この滝のそばに観音降臨の座光石があり、この石を人びとが誤って踏まないようにと、伝教大師・最澄が不動明王像を刻み、弘法大師・空海が「南無阿弥陀仏」の名号を刻んでいる。

降臨滝

(写真は 降臨滝)


 
和泉櫛(貝塚市)  放送 7月17日(火)
 貝塚市の特産品のツゲの木を使った和泉櫛は、職人の技が生きる伝統工芸品である。その歴史は古く、仏教が日本に伝来した6世紀中ごろの欽明天皇の時代に、8種類の櫛作りの器具を携えた異国人が貝塚市の二色浜に漂着し、里人に櫛の製法を伝えたのが始まりと言われる。
 この8種類の櫛作りの器具にちなんで創建された二色浜の八品神社は、古くから櫛の神様として全国の櫛職人や櫛商人から崇められいる。境内には珍しい石造の櫛塚が建てられているほか、全国の櫛製造業者、櫛商店が寄進した手洗鉢や鳥居、玉垣などには業者の名が見られ、社殿には奉納された櫛絵馬が掛けられている。

櫛形絵馬

(写真は 櫛形絵馬)

櫛塚

 和泉櫛はツゲの原木から櫛になるまでに1年以上かかる。ツゲの原木を櫛の種類に応じて製材し、半年以上乾燥させる。その後、おがくずで10日間ほどいぶし、さらに半年以上寝かせてやっと櫛の材料ができあがる。
 この後は和泉櫛職人の熟練の技で加工され、素晴らしいツゲの和泉櫛が生まれる。その行程は、まず櫛の用途に合わせて1本1本切れ目を入れて櫛の歯を作る「歯挽き」。次が髪の通りをよくするために歯先の1本1本をヤスリで磨いて尖らせる「歯すり」。続いて形を整える「型取り」をしてパフ研磨で光沢を出す。この行程の中で「歯すり」は高度な技術が要求される作業で、ベテランの櫛職人の腕の見せどころである。

(写真は 櫛塚)

 ツゲの和泉櫛には蒔絵が描かれたものや飾り彫りの施された高級品から、日常の髪のセットに使うものまで種類は多い。ツゲ櫛は使うほどに歯がなめらかになり、色もアメ色になってくる。和泉櫛生産が最盛期の江戸時代中期には貝塚市に119人の櫛職人がおり、全国の櫛生産の80%を占め、宮中や御所にも納入していた。
 ツゲ櫛は水で洗ったり、消毒液で消毒できない難点があり、不特定多数の人たちに使用する理、美容院やホテルなどには不向きだった。さらに高価なこともあってプラスチック製品におされて需要は減少した。ツゲ櫛のよさを知ってもらおうと、八品神社近くの辻忠商店では櫛作り作業を一般公開し、予約した人たちに見学してもらっている。

和泉櫛(辻忠商店)

(写真は 和泉櫛(辻忠商店))


 
長慶寺(泉南市)  放送 7月18日(水)
 熊野街道沿いの小高い丘の上に建つ長慶寺は、奈良時代の神亀年間(724〜29)聖武天皇の勅願寺として行基が開創した古刹で、当時は海会宮寺(かいごじ)と号し、現在地より北東約200mの海会宮池(かいごいけ)のあたりにあった。
 五重塔をはじめ七堂伽藍を備えた寺院として隆盛を極め、高野山の覚鑁(かくばん)上人が高野山を下りて真義真言宗・根来寺を開いてから、根来寺の北の玄関口の寺としてさらに栄えた。しかし天正13年(1585)豊臣秀吉の根来寺攻めで伽藍のほとんどが焼失した。

仁王門

(写真は 仁王門)

長慶寺古絵図(慶長3年頃)

 唯一、海会宮池の中の島にあって焼け残った、観音堂と本尊の如意輪観世音菩薩像を慶長年間(1596〜1615)に現在地に移し、その時の年号を逆にして長慶寺と号したのが始まりである。行基の作と伝わる本尊・如意輪観世音菩薩像は、60年に1度だけ開帳される秘仏。
 以来、岸和田城主・岡部氏の祈願所となったほか、観音信仰の霊場として信仰を集め、毎月の観音縁日には多くの参拝者でにぎわった。明治維新の廃仏毀釈で寺運は衰退の一途をたどっていたが、戦後、就任にした松永住職の尽力で山門の建立、本堂の改築、三重塔建立などがなされ、今日のように寺観が整った。

(写真は 長慶寺古絵図(慶長3年頃))

 境内には西国三十三ヵ所、坂東三十三ヵ所、秩父三十四ヵ所の各観音石仏像100体が、大小数十の堂に祀られている。その100体観音像にちなんで参道の石段も100段。この石段は「厄除けの石段」と呼ばれ、女性は33段目、男性は42段目で厄除けを念ずるとご利益があると言う。
 この「厄除けの石段」の両側や境内のいたる所に梅雨時期になると、色とりどりのアジサイが咲き乱れ、参詣者の目を楽しませてくれるアジサイ寺としても知られている。敷き詰められた白砂に筋目がきれいにつけられ、十三重石塔や石組みが美しい庭も参詣者の心を和ませる。特に春のサツキの花が咲くころは一段と華やかになる。

本尊 如意輪観世音菩薩(秘仏)

(写真は 本尊 如意輪観世音菩薩(秘仏))


 
林昌寺(泉南市) 放送 7月19日(木)
 大阪府と和歌山県の府県境に位置する泉南市には、何本も旧街道が通っている。昔ながらの古い民家が建ち並ぶ旧熊野街道沿いの岡中鎮守社の大樟(おおくす)は、樹齢800年以上と言われ、大阪府の天然記念物に指定されている。根元の幹周り12m、高さ約30mもある。大樟に寄り添うように樹齢約600年、幹周り1m、高さ25mのマキの巨樹もあり、こちらも府の天然記念物に指定されている。
 この大樟のすぐ近くから中世の寺院跡が見つかり、瓦や土器などが出土した。この寺は廃寺となったが、残った樟の木はどんどん大きくなながら、熊野街道を行き交う人びとや村人たちを見守ってきた。

岡中鎮守社の大樟

(写真は 岡中鎮守社の大樟)

林昌寺

 この大樟の東方にある林昌寺は、天平年間(729〜49)に聖武天皇の勅願寺として行基が開いたと言う古刹。平安時代後期に堀河天皇が行幸した時、ヤマツツジが見事だったのでこれまでの山号「温泉山(うんぜんさん)」を「躑躅山(つつじさん)」に、寺号を「法林繁昌の地なり」として「林昌寺」にと勅号し改めさせた。
 この寺も天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火にかかり焼失し、現在の諸堂は江戸時代中期に再建された。また林昌寺は泉州地方の弘法大師信仰の中心地として知られ、毎月21日の法要の日には大師信仰の信者たちの参拝でにぎわう。

(写真は 林昌寺)

 林昌寺の庭は「法林の庭」と言ってその美しさで知られている。庭園設計の権威・重森三玲氏の作で昭和36年(1961)に築庭された。ツツジ岡と言われた丘陵の斜面の一角を利用して、中央に本尊石を置いた石組みと山号の躑躅山にちなんでツツジを配した豪快な作りで、庭全体で極楽浄土を表している。
 このほか境内には四国八十八ヵ所のミニ版があり、約1時間で巡拝でき、釈迦の足跡を刻んだ「仏足石」もある。この地の海岸から舟に乗り、南方海上にあると言う補陀落(ふだらく)世界を目指した僧のことを記した「補陀落渡海碑」は、貴重な存在と言われている。また境内の一番高い所から眺める落陽の様子は素晴らしい。

法林の庭

(写真は 法林の庭)


 
泉州の夏は水ナス(泉南市)  放送 7月20日(金)
 ここ数年、人気が上昇しているのが南泉州特産品の水ナス。形は一般のナスよりずんぐりした丸形で、水分が多くて柔らかく、アクがなく独特の甘味があって生でも食べられる。このため昔は田畑の片隅に水ナスを植えておいて、炎天下の農作業でのどが渇くと、この水ナスをもぎ取って食べ、渇きを癒したと言うのは泉州地方でよく知られた話。
 ナスはインドが原産地で日本へはいつごろ渡来したかは不明。奈良時代の書物にナスの記録が記されており1200年以上の歴史がある。その間、日本各地で栽培されるようになり、種類も長ナス、丸ナスなど様々なナスが誕生した。

水なす

(写真は 水なす)

水なすの花

 水ナスは泉州地方特産のナスで、この地方の気候や風土、土質が水ナスの栽培に適していたのであろう。室町時代の記録に水ナスの原種とみられる「澤茄子」の記述があり、泉州・近木(こぎ)郷澤村付近(現在の貝塚市沢周辺)が、水ナス発祥の地ではないかと推測されている。
 水ナスは泉州地方以外の土地では育たず、さらに水ナスの種子や栽培方法が門外不出となっていたので「水ナスは大和川を越えず」と言われていた。水ナスを他の地域で同じように育てても、皮が厚くなり普通のナスのような実になってしまうと言う。やはり泉州独特の気候、土質などが水ナスの栽培に欠かせないのであろう。

(写真は 水なすの花)

 現在、泉南市内では20軒ほどの農家が水ナスを栽培している。水ナスの旬は夏だが、今はハウス栽培されるようになり、早いものでは2月中旬に出始める。しかし本当においしい水ナスが味わえるのは露地栽培のものが出荷される夏である。
 水ナスのおいしい食べ方は、軽く塩もみしてぬか床につけ、一晩ほど置いた浅漬けが絶品だと言う。地元の人はこの浅漬けでも、包丁を入れると味が変わるので手で裂いていただくと言う。最近はこの水ナスの人気が高まり、東京方面からも宅配便での注文が多いが、生の水ナスは皮が柔らかいため傷がつきやすく、輸送がしにくいのが難点。

水なすのただやす

(写真は 水なすのただやす)


◇あ    し◇
水間寺水間鉄道水間駅下車すぐ。 
八品神社、つげ櫛工房・辻忠商店南海電鉄二色浜駅下車徒歩15分。
長慶寺JR阪和線和泉砂川駅下車徒歩15分。 
岡中鎮守社の大樟JR阪和線和泉鳥取駅下車徒歩15分。 
林昌寺JR阪和線和泉砂川駅下車徒歩15分。 
水なすのただやすJR阪和線和泉砂川駅下車徒歩12分。 
◇問い合わせ先◇
貝塚市商工課072−423−2151 
水間鉄道072−422−4567 
水間寺072−446−1355 
つげ櫛工房・辻忠商店072−432−5477 
泉南市商工労働課072−483−0001 
長慶寺072−483−2692 
林昌寺072−483−2705 
水なすのただやす072−483−2845 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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