月〜金曜日 18時54分〜19時00分


兵庫・猪名川町、川西市 

 北摂を流れる猪名川流域の猪名川町と川西市は、石器や土器が出土していることから猪名川の恵みを受けて古くから開けていた。また清和源氏発祥の地とされ、源氏ゆかりの社寺や遺跡も多い。現在は大阪のベッドタウンとして数多くの住宅団地が開発されている市と町である。


 
猪名川の本流(猪名川町)  放送 8月13日(月)
 町の東部が大阪府能勢町に接し南北に長い猪名川町。そのほぼ中央を縦断するように流れている猪名川の清流は、豊かな自然の中で変化に富んだ風景を作り出している。
 流域は古くから阪神間の人びとの清遊の地として親しまれてきており、豊かな自然の風景に画家たちは絵筆をふるい、俳人たちは句を詠んでいる。こうした猪名川沿岸の風景や人びとの暮らしぶり、旅人の姿などが、江戸時代中期に刊行された「摂津名所図絵」にも描かれている。

屏風岩

(写真は 屏風岩)

囲炉裏茶屋 里の家

 この猪名川流域で「北摂一の名勝」と言われているのが屏風岩。猪名川の流れが山を削って作り出した高さ30m、幅100mにわたって屏風のようにそそり立った断崖が、周囲の濃い緑に包まれて四季それぞれの装いを見せる。
 江戸時代の大坂の俳人・大伴大江丸は、屏風岩のあるこの山峡に小舟を浮かべて遊び、その眺めに感動して「若葉まて 百年ののちに ここに来む」と詠んでおり、近くに句碑も立っている。このあたりは冬には雪化粧することもあり、春はサクラ、夏は蛍、秋は紅葉、冬は雪景色と四季が織りなす景観が楽しめる。

(写真は 囲炉裏茶屋 里の家)

 屏風岩からかなり上流へ遡ったところにある囲炉裏茶屋「里の家」は、茅葺き屋根に長屋門がある江戸時代の武家屋敷を改装、古い建物の雰囲気を大切にした食事処で川の幸、山の幸が賞味できる。
 囲炉裏を囲んでキジ鍋、野武士焼きはオールシーズン。季節料理としては秋には名物の丹波マツタケのマツタケ料理が人気の的である。三田牛を使ったマツタケすき焼きにマツタケのどびん蒸し、マツタケごはんとマツタケずくし。冬を迎えれば丹波のボタン鍋がいただける。この季節は猪名川のアユの塩焼きが香ばしい。

鮎の塩焼

(写真は 鮎の塩焼)


 
猪名川の支流(猪名川町)  放送 8月14日(火)
 猪名川は北摂一の高峰・大野山(753m)あたりに源を発し、流域のいくつかの支流を合わせて43kmを流れて尼崎市内で神崎川に注ぎ込む。
 流域は猪名川渓谷兵庫県立自然公園となっており、源満仲の墓所や猪名寺廃寺跡などがあり、猪名川の恵みを受けて古くから開けていた。猪名川の名はこの地方の豪族・山直(やまのあたい)の名から取った「阿我奈賀(あがなが)」が訛って猪名川となったと伝えれている。

鎌倉川

(写真は 鎌倉川)

猪名川不動尊

 猪名川に注ぎ込む多くの支流を遡って行くと隠れた名勝や素晴らしい景色に出会うことがある。鎌倉川沿いに東北へ延びる険しい道を車で10分も行くと、思いがけない滝が出現する。落差11mのこの滝は不動滝と呼ばれており、岩壁を穿った小さな祠に不動明王像が安置され、最近までは祠の前で大護摩供養も行われていた。
 涼感あふれるこの滝でその昔、この地にあった寺の僧が雨乞いの行をして伝染病や飢饉を免れたとの伝えがあり、無病息災、家内安全、五穀豊饒、安産を祈願する人たちが不動明王像に祈願している。

(写真は 猪名川不動尊)

 鎌倉川とは本流を挟んで、反対側の西北から流れる柏原川に沿う柏原地区の山の斜面には、緑の稲穂がそよぐ棚田が広がっている。
 柏原地区ではこの棚田を「棚田王国」と名づけ、棚田オーナー制による田植えや稲刈り作業などを体験してもらっている。水田に入るのは初めてと言うオーナーもいるが、子供たちと一緒に「おいしいお米が収穫できるように」と、泥まみれになりながらコシヒカリの苗を植えていた。収穫前にはカカシを作るオーナーもいて、棚田ひとつひとつにオーナーの個性が現れている。

柏原地区の棚田

(写真は 柏原地区の棚田)


 
多田銀銅山(猪名川町)  放送 8月15日(水)
 多田銀銅山は猪名川町を中心に近隣7市町にわたる東西20km、南北25kmの広大な領域に鉱脈が広がっている。多田銀銅山の歴史は古く弥生時代の銅鐸の原料になったとの説もあり、奈良時代の東大寺大仏造立に際してこの地から銅が献上されたと言われている。その後、この地方を支配していた多田源氏一族による採掘が多田銀銅山の始まりと伝わり、近くには鉱山の守護神である大同2年(807)創建とされる金山彦神社がある。
 多田銀銅山が記録に表れるのは、鎌倉時代の歴史書「百錬抄」に平安時代後期の長暦元年(1037)に朝廷に銅が献上されたとあり、建暦元年(1211)の役所の文書に「能勢に採銅所を設けた」とある。

金山彦神社

(写真は 金山彦神社)

青木間歩

 今も間歩(まぶ)と呼ばれる坑道の入り口が、多田銀銅山跡のあちこちにポッカリと口を開けている。旧坑道内は落盤、落石などの危険があり立ち入り禁止になっている。昭和時代に掘られた青木間歩は、安全設備や照明も取りつけられて一般公開されており、銀や銅が盛んに採掘された跡が残る岩肌を直に触れることができる。
 安土桃山時代には豊臣秀吉が本格的に銀山を開発、大坂城の台所を支えた「台所間歩」や千成瓢箪(せんなりひょうたん)から名づけられた「瓢箪間歩」、月に千石ずつ運上銀を上納した「千石間歩」などと呼ばれた間歩が現存しており、当時の採掘が盛んであったことをしのばせる。

(写真は 青木間歩)

 江戸時代に入ると多田銀銅山は幕府の天領となり、有望な鉱脈も見つかり採掘はますます盛んになり、代官所が置かれた。最盛期には年間銀2475kg、銅420トンを産出しと言われ、間歩は2802ヵ所、鉱山周辺には3000戸の集落があり、芝居小屋や相撲土俵などもあった。
 明治時代に入ってからは民間企業によって採掘は続きられたが、産出量は減少したため昭和48年(1973)に閉山した。2007年4月、多田銀銅山の歴史資料を展示する「多田銀銅山悠久の館」がオープン、猪名川中学校生徒たちが作った100分の1の代官所の模型や鉱石、鉱山道具、古文書などの資料が展示されている。

多田銀銅山 悠久の館

(写真は 多田銀銅山 悠久の館)


 
能勢妙見山へ(川西市)  放送 8月16日(木)
 北摂地方の西部には奈良時代の高僧・行基ゆかりの寺院が散在する。東の身延山と並ぶ日蓮宗の霊場となっている標高660mの能勢妙見山(大阪府能勢町)もそのひとつ。元は行基が創建した密教寺院・大空寺があったところで、清和源氏の源満仲の子孫の能勢頼次が日蓮宗身延山21世日乾(にっけん)上人に帰依し、能勢家の守り神として祀られていた妙見大菩薩像を祀ったのが能勢妙見山の始まり。
 正式には能勢町の日蓮宗の真如寺の飛び地境内で、無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見山と言う。境内入り口には鳥居があるのは神仏習合時代の名残で、明治維新の神仏分離令以後は寺院となった。

妙見ケーブル

(写真は 妙見ケーブル)

能勢妙見山(大阪府能勢町)

 阪急電鉄川西能勢口から能勢電鉄、バス、ケーブル、リフトを乗り継いで妙見山上駅から15分も歩いてようやく妙見山の山門へ着く。途中の妙見リフトの乗り場近くに「妙見の水」が湧き出ており、のどを潤せる。
 日乾上人が真如寺に宗祖・日蓮の分骨を奉安したことから「関西身延」と呼ばれるようになり、深山にある境外仏堂の能勢妙見山が、関西一の日蓮宗の霊場となった。本堂の開運殿には開運にご利益のある妙見大菩薩像が安置され、家内安全や商売繁昌を願う信者たちの参拝が絶えない。山門脇に並ぶ土産物店や飲食店では、お祈りをすませた参拝客たちが、参拝の記念になる土産物を選んだり、食事をしながら一休みしたりしている。

(写真は 能勢妙見山(大阪府能勢町))

 能勢妙見山に対する庶民の信心深さは、将棋の坂田三吉を描いた戯曲「王将」で、関根8段との対局前夜に物干し台で太鼓をたたいて「能勢の妙見さん頼んまっせ」と祈るシーンが印象に強い。勝海舟が幕末に大活躍できたのも、父・勝小吉の妙見大菩薩への強い信仰心に支えられていた。
 妙見山は自然にも恵まれ、ブナの原生林があり大阪府の天然記念物に指定されている。ブナは西日本では1000m以上の山に生育しており、660mと比較的低い妙見山での生育は珍しいとされている。山上からの広々としたすがすがしい眺望も楽しめ、ハイカーたちも多く訪れる。

開運殿

(写真は 開運殿)


 
清和源氏ゆかりの満願寺
(川西市) 
放送 8月17日(金)
 川西は平安時代中期の安和元年(968)に源満仲が館を構えて移り住み、独立した武士社会を作りあげた所で、清和源氏発祥の地とされる。満仲は清和天皇の曾孫にあたり、その子たちの頼光が摂津源氏、頼親が大和源氏、頼信が河内源氏を興した。このうち河内源氏が関東で勢力を強め、八幡太郎義家や新田、足利らの武士集団を形成した。鎌倉幕府を開いた頼朝は満仲から数えて7代目にあたる。
 こうしたことから川西市内には満仲や源氏ゆかりの神社や寺がいくつもあり、そのなかのひとつ満願寺は、この地へ来た満仲が帰依して以来、源氏一門の祈願所となった。

本尊 千手観音菩薩(秘仏)

(写真は 本尊 千手観音菩薩(秘仏))

坂田金時の墓

 満願寺は奈良時代の神亀年間(724〜29)勝道上人が、千手観世音菩薩像を本尊として創建したと伝えられている。観音堂の本尊で秘仏の千手観世音菩薩像は平安時代の作とされ、年に一度、秋の彼岸に開帳され拝観できる。毘沙門堂の毘沙門天像は満仲が自ら刻んで奉納したものと伝わる。満仲の長男・頼光とその四天王は、大江山の鬼退治などの武勇伝で知られるが、境内には四天王のひとり坂田金時(幼名・金太郎)の墓がある。
 一見中国風に見える仁王門は明治14年(1881)に建てられた比較的新しい建物で、洋風の建築様式を取り入れている。門の両脇を固める金剛力士像は明治維新の神仏分離令で多田院(現多田神社)から移された。

(写真は 坂田金時の墓)

 満仲はわが子・美女丸を僧侶にするため宝塚の中山寺で修行させたが、美女丸は真面目に修行せず遊んでばかりいた。これに怒った満仲は家臣の藤原仲光に「美女丸を切れ」と命じた。主君の子の命を奪うことに躊躇していた父の姿を見た仲光の子・幸寿丸が身代わりになって切られた。比叡山へ送られた美女丸は後にこのことを知って修行に励み、僧・源賢となり幸寿丸のために小童寺を建てた。この小童寺に幸寿丸と美女丸、仲光の墓があるほか満願寺にも3人の墓がある。
 満仲が創建した多田院は、明治維新の神仏分離令の時に多田神社と改め、満仲やその子の頼光、頼信、頼信の子・頼義、頼義の子・義家の五公を祭神として祀っている。

仁王門

(写真は 仁王門)


◇あ    し◇
屏風岩能勢電鉄日生中央駅からバスで屏風岩前下車すぐ。 
囲炉裏茶屋・里の家能勢電鉄日生中央駅からバスで杉生下車徒歩5分。 
猪名川不動尊、不動滝能勢電鉄日生中央駅からバスで杉生下車徒歩30分。 
柏原の棚田能勢電鉄日生中央駅からバスで柏原下車徒歩5分。 
多田銀銅山跡
多田銀銅山・悠久の館
能勢電鉄日生中央駅からバスで銀山口又は
白金2丁目下車徒歩20分。
日蓮宗霊場・能勢妙見山能勢電鉄妙見口駅からバス、妙見ケーブル、妙見リフトを乗り継ぎ妙見山で下車徒歩15分。
満願寺阪急電鉄雲雀丘花屋敷駅からバスで
満願寺前下車すぐ。 
◇問い合わせ先◇
猪名川町環境経済部農林商工課072−766−8709 
猪名川町教育委員会生涯学習課072−767−2600
囲炉裏茶屋・里の家072−769−0275 
多田銀銅山・悠久の館072−766−4800 
川西市観光協会072−740−1111 
日蓮宗霊場・能勢妙見山072−739−0329 
満願寺072−759−2452 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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