月〜金曜日 18時54分〜19時00分


兵庫・多可町 

 兵庫県のちょうど中心部に位置する北播磨の多可町は、平成17年(2005)11月に中町、八千代町、加美町が合併して誕生した。中国山脈の山地にあり、澄んだ空気と気候、豊かな自然が産む酒米「山田錦」の産地として知られている。また優れた和紙・杉原紙の産地でもあり、これらの特産品が誇りである。


 
山田錦発祥の地  放送 10月15日(月)
 多可町は日本一の酒造好適米と言われる「山田錦」の発祥の地を謳っている。山田錦が生まれた多可町中区東安田の道路端には、酒蔵をイメージした塔に「日本一の酒米・山田錦発祥の地」と大書してPRしている。
 多可町中区東安田地区は明治時代初めごろから酒米の「安田米」の栽培が盛んだった。この地の豪農・山田勢三郎が明治10年(1877)ごろ、自分の田んぼの安田米の稲穂の中からひと際大きな粒の稲穂を見つけた。この稲穂を元に栽培実験を繰り重ね、見事な大粒ぞろいの新品種に育て上げた。「これ以上の酒米はない」と自信を持って新品種に自分の姓を取って「山田穂」と名づけた。

山田錦

(写真は 山田錦)

山田穂

 兵庫県立農業試験場では大正12年(1923)からこの「山田穂」を母に「短稈渡船(たんかんわたしぶね)」を父に人工交配を続け、13年の歳月をかけて昭和11年(1936)に酒米の最適米が誕生、母米の「山田穂」にちなんで「山田錦」と名づけられた。
 「山田錦」は大粒で蛋白質と脂肪が少なく、粒の中心部にある不透明部分の心白が大きい。このため米の中心部まで精白ができるのでよい麹になり、醸造された酒の味もよくなる。さらに多可町中区の水田が粘土質で、年間の雨量が少なく、盆地特有の昼夜の温度差が大きいのが山田錦の栽培に適していたので主産地となった。

(写真は 山田穂)

 こうして生まれた「山田錦」は全国の酒造地へ出荷されて、酒米の王様の地位を築いた。しかし山田錦は倒れやすく、病虫害に弱いなどで栽培が非常に難しい。このため機械化農業には不向きとあって、一時、栽培が低迷した時期もあったが、吟醸酒、純米酒など高級酒が持てはされるようになり、再び栽培が盛んになった。
 昨年「山田錦誕生70周年」を迎えた多可町は、日本酒の消費拡大を願って「日本酒で乾杯の町」を宣言した。栽培農家もこれを機に化学肥料、農薬をまったく使わず、有機肥料だけで栽培する安全な山田錦作りに取り組んでいる。

山田勢三郎頌徳碑

(写真は 山田勢三郎頌徳碑)


 
鍛冶屋線記念館  放送 10月16日(火)
 中町中学校の東側から北へ真っすぐに延びている約2kmの遊歩道は、きれいに整備され「ポッポの道」と名づけられている。ポッポとは「汽車ポッポ」のポッポのことで、この遊歩道には大正12年(1923)から平成2年(1990)まで、国鉄からJRになった鍛冶屋線が通っていた。鍛冶屋線は西脇から旧中町の旧鍛冶屋駅までの13.2kmで、ポッポの道はその終点に近い部分。
 ポッポの道はカラフルな歩道で、沿道には季節の草花やかわいいアーチ、量興寺や金刀比羅神社などの社寺もあり、終点には鍛冶屋線の歴史を語る旧鍛冶屋駅舎を転用した鍛冶屋線記念館がある。

歩っ歩(ぽっぽ)の道

(写真は 歩っ歩(ぽっぽ)の道)

鍛冶屋線記念館

 この鉄道は大正2年(1913)加古川から西脇まで播州鉄道が開通し、その後、大正12年旧中町鍛冶屋までが開通した。その年に播丹鉄道に譲渡され、昭和18年(1943)に当時の国鉄(現JR)に買収されて西脇〜鍛冶屋間は鍛冶屋線となった。
 戦中から戦後にかけては米や麦、木材を中心に多くの旧中町の物産が鍛冶屋線の貨車で運搬された。しかし、自動車の普及で乗客も貨物も減少の一途をたどり、平成2年に鍛冶屋線は廃線となり、バスやトラック輸送に代わった。

(写真は 鍛冶屋線記念館)

 鍛冶屋線の終点の鍛冶屋駅舎は往時の面影をとどめながら鍛冶屋線記念館となっている。当時の改札口がそのまま残され、待合室には時刻表や運賃表、タブレット、車掌の制服、切符を切るハサミや切符などの資料が展示されている。
 記念館裏には廃線当時に使用されて乗客を運んでいた「気動車キハ30」がプラットホームと共に保存されている。気動車の中に乗り込んで運転室も間近に見ることができ、客席からはプラットホームの鍛冶屋駅と隣りの中村町駅の駅名表示板があり、当時のローカル線気分を味わうことができる。

気動車キハ30

(写真は 気動車キハ30)


 
水と緑の天神郷  放送 10月17日(水)
 多可町の天神郷地区は森あり、湖あり、伝統の古社寺ありで、水と緑の散歩道コースが設定されており、静かな癒しの空間となっている。
 平成3年(1991)に完成した糀屋ダムによって仕出原川をせきとめてできた翠明湖は、広さ87.3ha、貯水量1350万トンあり、北播磨最大級のダム湖となっている。 湖の周辺は四季の移ろいにつれ、春は桜、夏は昆虫類の鳴き声、秋は紅葉、冬のカモの飛来など、静寂の中で微妙に色を変える景色を描き出してくれる。

天神社

(写真は 天神社)

草鞋庵

 このダム湖の水は周辺農地3850haに対し年間約1400万トンの農業用水と約1120万トンの工業用水を供給している。ダム中央にアーチ型を描く翠大橋が架かり、橋のたもとの翠公園からは雄大なダム湖が眺望できる。
 ダム湖をぐるりと取り巻く周遊道路は、 ハイキング、サイクリング、マラソンなどにぴったりで、毎年3月に行われている「翠明湖ミニマラソン大会」は、回を重ねるごとに参加者が増えている。 美しい景色と澄んだ空気の中を走ると、びっくりするような自己最高タイムを出す人もいると言う。

(写真は 草鞋庵)

 翠明湖畔の北西に平安時代の武将で、当時この地の領主で歌にも秀でていたことでも知られる源頼政が、菅原道真を祀ったと言う天神社がある。樹齢数百年と言われる杉木立に囲まれた天神社には、神秘的な雰囲気が漂っている。
 ここから一転、書芸術作家・杉本精豊さんのアトリエ兼ギャラリー「草鞋(わらじ〕庵」へ。心の応援をテーマにした杉本さんのメッセージが込められた書画や色紙、陶板などを観賞し、杉本さんと語り合えば心にポッと灯りが灯るかもしれない。

ひょっとこ

(写真は ひょっとこ)


 
播磨富士・笠形山  放送 10月18日(木)
 多可町と西隣の市川町、旧神崎町(現神河町)にまたがる笠形山(936m)から千ヶ峰(1006m)にかけての山岳地帯は、笠形山千ヶ峰兵庫県立公園となっておりその中心的存在が笠形山である。笠形山は火山によって生まれた山でその山容が美しく「播磨富士」の異名もある。
 笠形山へは多可町、市川町、旧神崎町から登れるが、多可町からの登山道コースには蛇腹滝、二重ヶ滝、勝負滝、赤滝と五つの滝が次々と姿を見せ、この滝の眺めが多可町からの笠形山登山の最大の見どころであり、登る人たちの心を癒してくれる。これから秋が深まれば紅葉も楽しめる。

笠形山

(写真は 笠形山)

勝負滝

 登山口のすぐ近くにあるのが蛇腹滝。ヘビの腹の思わせるような岩を水が流れ落ちる滝からこの名がついた。二重ヶ滝はその名の通り滝が二段になって流れ落ちている。
 登山道に連なる滝の中で最も勇壮な滝と言われるのが竜ヶ滝。落差が20mあり、竜が岩を登るように見えることからこのように呼ばれている。勝負滝は左右に二つに分かれた滝が、競い合うように流れ落ちていることから勝負滝と呼ばれた。赤滝は赤い岩肌を流れ落ちるのでこのよう名がついた。途中には天邪鬼の力水と呼ばれる水飲み場があり、登山者はここで一息入れる。

(写真は 勝負滝)

 竜ヶ滝から少し登ったところにクリンソウの自生地がある。日本産のサクラソウの中で最も大型のもので、春に開花する白色または紅紫色の花が5〜7段になって咲き、仏塔の上の九輪に似ていることからこの名がつき、今は貴重な品種になっており地元の人たちが保護、育成に努めている。
 笠形山頂上からの360度のパノラマの眺望を楽しんで下山となるが、西側の市川町、神河町の旧神崎町へも下山できる。市川町側の山麓には笠形神社と笠形寺がある。笠形寺は飛鳥時代に法道上人が開いたと言われる名刹だが、豊臣秀吉に焼かれて以来荒廃し、今はわずかに残る建物が隆盛だった往時をしのばせている。

竜ヶ滝

(写真は 竜ヶ滝)


 
伝統は消えず・杉原紙  放送 10月19日(金)
 多可町の最北部、旧加美町杉原谷では、1200年以上の伝統を誇る和紙・杉原紙が生産されている。奥深い谷から冷たく澄んだ水がこんこんと湧き、雪が舞う厳しい気候のこの地は紙漉きに最適とされた。その歴史は7世紀後半の奈良時代まで遡り、当時、杉原紙は播磨紙と呼ばれ、質量ともにすでに日本一の紙であった。
 昭和35年(1960)ごろに行われた奈良・東大寺の正倉院の調査で、播磨国司が天平18年(746)に提出した「播磨国正税帳」に用いられた紙が、他の産地の紙と比べてはるかに優れていたと報告されている。もちろん、この播磨国正税帳に使われていたのは地元・播磨国の杉原紙であった。

多可町立 杉原紙研究所

(写真は 多可町立 杉原紙研究所)

楮

 杉原紙は他の産地より進んだ技術で奉書風の薄い紙を漉き、写経用や贈答品、献上品として使われ、朝廷や幕府などの公用紙としても使われていた。
 室町時代中期以降は広く一般庶民の間でも使われるようになり、杉原紙は全国に知られるようになった。江戸時代には杉原紙は浮世絵、版画をはじめ一般庶民の日常生活でも使われ、その需要に応える杉原谷の製紙業者は300軒あまりもあったと言う。だが、明治時代から機械文明の発達によって機械生産された洋紙の普及で、杉原紙の需要は下り坂をたどり、大正14年(1925)には杉原谷での紙漉きはついに姿を消してしまった。

(写真は 楮)

 昭和41年(1966)「杉原紙発祥之地」の石碑が建立されたのをきっかけに、昭和45年(1970)かつて杉原紙の紙漉きをした老人たちが中心になって、半世紀ぶりに杉原紙の紙漉きの技法が再現された。2年後の昭和47年(1972)には町立杉原紙研究所が設立され、原料のコウゾの栽培から紙漉きまでを一貫して行う本格的に杉原紙の再興に乗り出した。
 昭和60年(1985)神戸市で開かれたユニバーシアード大会の表彰状は、再興した杉原紙が使用されて世界の若者の手に渡った。この研究所では予約制で紙漉き体験を受け入れており、自分の手で漉きあげたオリジナルな和紙が作れる。

杉原紙

(写真は 杉原紙)


◇あ    し◇
鍛冶屋線記念館JR加古川線西脇市駅からバスで鍛冶屋下車。 
翠明湖JR加古川線西脇市駅からバスで多可町役場前
又は中央公民館前下車徒歩20分。 
天神社JR加古川線西脇市駅からバスで多可町役場前
又は中央公民館前下車徒歩30分。 
草鞋庵JR加古川線西脇市駅からバスで多可町役場前
又は中央公民館前下車徒歩10分。 
笠形山JR加古川線西脇市駅からバスで大屋下車徒歩2時間。 
杉原紙研究所JR加古川線西脇市駅からバスで杉原紙研究所前下車。 
◇問い合わせ先◇
鍛冶屋線記念館、天神社
(多可町企画情報課)
0795−32−2381
多可町観光協会0795−32−2380 
草鞋庵0795−32−4447 
杉原紙研究所0795−36−0080 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

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  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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