月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・橋本市、九度山町 

 和歌山県の北東に位置する橋本市と九度山町は、高野山への玄関口として中世以降、参詣者でにぎわった。今もその名残はあるが、最近の参詣者はバスやマイカーを利用するようになり、素通り客が大勢を占めている。橋本は飛鳥時代から奈良時代にかけて、大和国から紀伊国へ通じる交通の要衝で、天皇や貴族、万葉歌人らが足跡を残している。


 
万葉の道(橋本市)  放送 10月29日(月)
 1300年前の万葉の時代には宮廷の人びとは紀伊国が憧れの地であった。弘法大師が高野山を開いてからは参詣者がひきも切らなかったため、現在の南海電鉄高野線沿いには多くの史跡が残っている。
 大和国からの旅人は、和歌山と奈良の県境にある真土山(まつちやま)の峠を越えた時に、紀伊国に入ったことを実感した。海のない大和国の万葉人たちは、美しい海岸線の紀伊国にことのほか憧れ、その風景への感動は現代人には想像ができないもので、その感激を歌に残した。橋本地方で詠まれた万葉歌10首のうち8首までが真土山に集まっている。

鮎のあめだきずし

(写真は 鮎のあめだきずし)

真土の万葉歌碑

 大宝元年(701)文武天皇が前帝で母の持統太上天皇と牟婁の湯(現在の白浜温泉)へ行幸した際、両帝に同行しなかった人が「あさもよし 紀へ行く君が 真土山 越ゆらむ今日そ 雨な降りそね」と詠み、「紀伊国へ行った方は、今日は真土山を越えているだろう。雨よ降ってくれるな」とふたりの旅を案じている。「あさもよし」は紀伊国にかかる枕詞。
 両帝の行幸に同行した人は「あさもよし 紀人羨(とも)しも 真土山 行き来と見らむ 紀人羨しも」と詠んでいる。この真土山を行き帰りに眺められる紀伊国の人はうらやましいと、憧れの気持ちを歌にしている。

(写真は 真土の万葉歌碑)

 和歌山、奈良県境を北から南へ流れて紀の川に注ぐ落合川の下流に「飛び越え石」と名づけられた渡り場がある。大和国から紀伊国への古代からの交通路であり、ほんのひとまたぎで落合川を越えられる石が並んでいる。この飛び越え石を詠んだ歌に「白たへに にほう真土の 山川に わが馬なづむ 家恋ふるらしも」がある。飛び越え石を前に馬が行き悩み、留守宅の者が旅に出た者を恋しがっているだろうと、郷愁を訴えている。
 真土山周辺にある万葉歌碑と飛び越え石を巡る「万葉の道ハイキングコース」がある。飛び越え石は大勢の人が踏みしめて摩耗したような跡が感じられ、静寂な川のほとりは往時の雰囲気が漂っている。

飛び越え石

(写真は 飛び越え石)


 
追憶の風景(橋本市)  放送 10月30日(火)
 南海電鉄高野線紀伊清水駅で下車し、紀の川沿いに高野街道を西へ向かって通る街並は、手甲、脚絆に振り分け荷物の旅人姿が似合いそうな風情がある。さらにこの街道を西へとり、紀ノ川に架かる九度山橋を渡り、北上すると橋本市に合併する前の旧高野口町にたどり着く。
 南海電鉄が開通するまでは、明治34年(1901)に開通した旧紀和鉄道(現JR和歌山線)の名倉駅(現高野口駅)が、高野山参りの玄関口となっていた。当時の名倉駅前は列車が到着するたびに高野山への参詣者であふれ大変なにぎわいだった。

南海高野線 紀伊清水駅

(写真は 南海高野線 紀伊清水駅)

葛城館

 高野山参りの拠点だったこの町でひと際目を引くのが、高野口駅前の木造3階建ての建物の旅館・葛城館。明治時代後期の建築で延べ建面積は323平方mで前面は総ガラスの窓。3階の正面屋根には凝った千鳥破風と軒唐破風が取りつけられ、銅板葺きの庇など、和洋の意匠をうまく取り合わせた建物である。
 今は旅館の営業はしておらず、4代目当主・大矢武さん一家の生活の場となっているが、建物からはかつてのにぎわいがしのばれる。内部はそのままに残されており、平成13年(2001)に国の登録有形文化財に登録された。

(写真は 葛城館)

 明治時代の葛城館の常連客だった江戸火消し組が残した講札や、土間には大きなカマドがデンと座っており、宿泊客でにぎわった当時をしのばせている。玄関には高野山の金剛峰寺ご用達の看板や人力車が陳列されている。内部の見学は電話で橋本市商工観光課への予約が必要。
 葛城館近くの高野口小学校は昭和12年(1937)に建てられた木造建築だが、現役の校舎としてきょうも元気な子供たちの声が弾んでいる。98mの廊下や屋根瓦などは当時としてはモダンなデザインだったのであろう。作家・田辺聖子さんをモデルにしたテレビドラマ「芋たこなんきん」のロケにも使われた。

橋本市立 高野口小学校

(写真は 橋本市立 高野口小学校)


 
隅田党の社寺(橋本市)  放送 10月31日(水)
 奈良県との県境に近い所に鎮座する隅田(すだ)八幡神社は、縁起によれば神功皇后が三韓への外征の帰途、この地に足をとどめたとの由緒から、貞観元年(859)欽明天皇の勅命により京都の石清水八幡宮を勧請したのが始まりと伝わる古社。中世にはこの地の武士集団・隅田党の祖・長忠延(ながただのぶ)が社務を司るようになり、以降、隅田党の氏神として発展した。
 この神社が有名になったひとつに、わが国で製作された青銅鏡で日本最古の金石文が記された国宝の人物画象鏡を所有していることである。鏡の来歴はつまびらかではないが、付近の古墳から出土したとされている。

人物画象鏡(隅田八幡神社)

(写真は 人物画象鏡(隅田八幡神社))

隅田党一族供養塔

 直径19.8cmの人物画象鏡の背面に中国の伝説上の人物や騎馬像をあしらった画像文が描かれ、縁の内側に48文字の銘文が鋳出されている。銘文によれば大王の長寿を念じて製作され、製作年は「癸未(みずのとひつじ」と記されている。癸未は60年に1回巡ってくる年で、青銅鏡が製作された時代として西暦383年、443年、503年が推定されるが、どの年かはわからない。
 毎年1月15日に行われる管祭(くだまつり)は、小豆粥(あずきかゆ)の中へ青竹を入れて炊き、竹の中に入った小豆と米の入り具合で、その年の稲作の豊凶を占う古式豊かな行事として知られている。

(写真は 隅田党一族供養塔)

 地元で大寺さんと呼ばれる利生護国寺は、奈良時代に聖武天皇の勅命で行基が創建したと言う古刹。その後、荒廃していたのを鎌倉幕府執権・北条時頼が再興、室町時代からは隅田党の菩提寺として栄え、本堂裏には隅田党一族の供養塔が並んでいる。
 一重寄棟造りの本堂(国・重文)は昭和41年(1966)から3年かけて解体修理され、鎌倉時代から室町時代の建築様式を伝える昔のままの姿によみがえった。朱の柱に緑の連子窓が周囲の景観に映えて美しい姿を参詣者に見せている。本尊は行基作と伝えられる金箔の大日如来像が本堂に安置されている。

利生護国寺

(写真は 利生護国寺)


 
弘法大師の足跡(九度山町)  放送 11月1日(木)
 慈尊院は弘仁7年(816)弘法大師・空海が、高野山開創の時に高野山参詣の拠点として開き、高野山の寺務を司った寺で政所(まんどころ)とも呼ばれた。厳寒の高野山を避け冬期の修行の場にもなったほか、京の都から高野山へ参詣した天皇や皇族、貴族らの宿舎にもなった。
 高野山で修行するわが子に一目会いたいと承和元年(834)讃岐国の善通寺から大師の老母が訪ねてきた。だが高野山は女人禁制で入山が許されないため母は慈尊院にとどまった。大師は月に9度は必ず母に会いに山を下りて来たことから、九度山の地名が生まれたと言う。

大師母公尊

(写真は 大師母公尊)

慈尊院

 母は翌年、慈尊院で81歳で亡くなった。大師は慈尊院の本尊で秘仏の弥勒仏座像(国宝)を篤く崇拝していた母のために弥勒堂(国・重文)を建て、弥勒仏座像と御母公像を安置した。弥勒菩薩に化身した空海の母が眠る寺であり、女性の高野山参りは慈尊院までとの戒律から、慈尊院が女人高野と言われるようになった。
 慈尊院は子授けや安産、育児、授乳などの祈願の寺として女性の信仰が篤く、祈願の際には布で形どった乳房型や絵馬がたくさん奉納され、弥勒堂前には無数の乳房型が結びつけられている。有吉佐和子の小説「紀の川」にも、乳房型の絵馬を奉納して安産を祈願する様子が描かれている。

(写真は 慈尊院)

 慈尊院の背後の119段の石段を登った高台に鎮座する丹生官省符(にゅうかんしょうぶ)神社は、弘法大師・空海が慈尊院を開いた時に高野御子大神を祀って開創し、元は慈尊院の鎮守社であった。官省符とは官省符荘と言う荘園のことを言い、荘園の村々の神社の総氏神でもあった。
 元は紀ノ川のほとりの高野山政所内にあったが、天文9年(1540)の水害の被害を受け、翌年、現在地に現在地に極彩色で華麗な本殿(国・重文)が再建された。本殿は三殿に分かれ七神の祭神が祀られている。10月の官省符祭では、紀の川のほとりの元の鎮座地へ神輿が渡御する。昔は盛大なな祭だったが、今は祭の規模が縮小されている。

丹生官省符神社

(写真は 丹生官省符神社)


 
高野を望んで(九度山町)  放送 11月2日(金)
 慈尊院の南西、高野山の山上へと続く町石道を少し登った所にひっそりと建っている勝利寺は、弘法大師・空海が高野山を開創する前に開基したと伝わる古刹。昔は高野表街道の玄関口として貴族、武士から庶民までの宿泊者や参詣者が多かった。
 本堂に安置されている秘仏の本尊・十一面観世音菩薩像は、弘法大師・空海が42歳の厄年に厄除けを祈願して自ら刻んだものと伝えられ、厄除け観音として近郷の人たちから信仰され今も参拝する人が多い。平清盛が悪性の眼病にかかり盲目になるところを、この観音さまに祈願して治ったと伝えられている。

勝利寺

(写真は 勝利寺)

紙遊苑

 壮大な仁王門は棟札の銘から宝暦5年(1755)に上棟され、鬼瓦の銘が安永2年(1773)とあることからこの年に完成したとみられる。本堂右の地蔵堂の本尊・地蔵菩薩像は、地元の人たちから子安地蔵と呼ばれ、安産の祈願に訪れる人が多い。
 勝利寺の寺名にあやかってスポーツや勝負ごとに勝つことを祈願する寺とした親しまれている。高校野球で甲子園に出場する地元の野球部員たちは、甲子園へ出発する前に勝利寺で必勝を祈願する。純粋な気持ちで勝利を祈る人には霊験があるが、よこしまな勝負ごとの祈願は霊験がないとか…。

(写真は 紙遊苑)

 九度山町の伝統工芸品「高野紙」は、弘法大師が里人にその製法を教えたと言われている。高野紙は高野山のお寺の経本などに用いられて紙漉きは繁栄し、かつて九度山町に100軒もの紙漉きをする家があったが、今はわずか1軒になってしまった。
 勝利寺の境内に隣接して寺の庫裡を改築した「紙遊苑(しゆうえん)」は、高野紙の技術を後世に伝えようと言う体験資料館である。ここでは予約しておけば紙漉き体験ができ、はがき3枚300円、色紙1枚300円、高野和紙1枚(A4)400円の材料費だけで、自作の和紙を手にすることができる。

南海高野ケーブル

(写真は 南海高野ケーブル)


◇あ    し◇
真土山峠JR和歌山線隅田駅下車徒歩15分。
JR和歌山線、南海電鉄橋本駅からバスで真土下車徒歩3分。 
飛び越え石JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。
JR和歌山線、南海電鉄橋本駅からバスで真土下車徒歩10分。 
葛城館JR和歌山線高野口駅下車すぐ。 
隅田八幡神社JR和歌山線隅田駅下車徒歩20分。
JR和歌山線、南海電鉄橋本駅からバスで隅田八幡前下車
徒歩5分。 
利生護国寺JR和歌山線兵庫駅下車徒歩5分。
JR和歌山線、南海電鉄橋本駅からバスで大寺前下車すぐ。 
慈尊院、丹生官省符神社南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩30分。
勝利寺、紙遊苑南海電鉄高野線九度山駅下車徒歩40分。     
◇問い合わせ先◇
橋本市商工観光課
橋本市観光協会
0736−33−1111
堺屋旅館 鮎あめだきずし0736−32−1230 
隅田八幡神社0736−32−0188 
利生護国寺0736−32−2123 
九度山町産業振興課
九度山町観光協会
0736−54−2019
慈尊院0736−54−2214 
丹生官省符神社0736−54−2754 
紙遊苑0736−54−3484 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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