月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・上方落語の舞台を歩く 

 大阪天満宮境内に上方落語の寄席が80年ぶりに復活して、予想を上回る入場者で上方落語の静かなブームとなっている。古典落語から創作落語までその幅は広く、憎めない噺の内容など、落語の面白さを再認識し人たちを引きつけているのかもしれない。大阪市内にも落語の舞台となった所が多く、今回はその一部を訪ねてみた。


 
生国魂神社  放送 11月5日(月)
 生国魂(いくくにたま)神社は大八洲国(おおやしまぐに)と称された、わが国の国土そのものを神として祀る大阪でも最古の由緒ある神社で、地元の人たちは親しみを込めて「いくたまさん」と呼んでいる。この神社は元は現在の大阪城の地にあったが、豊臣秀吉が大坂城を築城をするため天正13年(1585)に現在地の上町台地に移された。
 社伝によれば東征してきた神武天皇が難波津に着いた時、国土、大地の守護神である生島(いくしま)大神、足島(たるしま)大神を祀ったのが始まりとされ、伊勢神宮創建以前の国家神であったと考えられる。

生國魂神社

(写真は 生國魂神社)

浪花百景 生玉真言坂(初代長谷川貞信 画・神戸市立博物館 蔵)

 大八洲国とは伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)の二神が生んだ日本の島々の総称とされていた。今も瀬戸内海に多くの島があるように、当時は上町台地の西側まで海岸が迫り、沖合いには大小さまざまな島が眺められた。秀吉が大坂城を築いてから海べりの湿地帯が埋め立てられ、海岸線はどんどん沖へ遠ざかり、大阪市内の堂島、福島、弁天島などの地名は海にあった島の名残である。
 上町台地の北側から天王寺七坂のひとつ「生玉真言坂」を登って行くと生国魂神社に着く。江戸時代には境内に芝居や見世物小屋が軒を連ね、大道芸人たちがさまざまな芸を競っていた。こうしたにぎわいは浮世絵の浪花百景にも描かれている。

(写真は 浪花百景 生玉真言坂
(初代長谷川貞信 画・神戸市立博物館 蔵))

 境内で芸をする芸人たちの中でも、米沢彦八と言う芸人が歌舞伎や能役者の物まねや軽口噺を披露して人気を集めた。京都で露の五郎兵衛が始めた上方落語を、大坂で彦八が広めて「彦八ばなし」と呼ばれるようになり、彼の話芸が上方落語の原型とされ、国魂神社境内には上方落語の祖として記念碑が建立されている。
 江戸落語が座敷芸から発展したのに対して、上方落語は大道芸から始まったと言え、東西文化の違いを際立たせることになったようだ。境内には井原西鶴像や松尾芭蕉の句碑、近松門左衛門ら文楽関係者の霊を祀る浄瑠璃神社もあり、生国魂神社は上方の芸能や文化に深いかかわりを持っている。

米澤彦八の碑

(写真は 米澤彦八の碑)


 
四天王寺  放送 11月6日(火)
 四天王寺は推古天皇元年(593)聖徳太子建立の日本初の官寺でわが国でも有数の古刹だが、庶民信仰のお寺として大阪の人には親しみが持たれている。仏教支持派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立して争い、蘇我氏についた聖徳太子が戦勝を四天王に祈願、物部氏を破ったのを感謝して難波の地に四天王寺を建立した。
 四天王寺は「大阪の仏壇」と呼ばれるように、春と秋の彼岸には近畿一円から参詣者が詰めかけ、広い境内に所狭しと露店が並ぶ。この四天王寺の彼岸参りの心得、方法を面白おかしく教えてくれ、境内のにぎわいぶりを巧みにスケッチして話してくれる落語が「天王寺詣り」。

浪花百景 四天王寺(歌川芳雪 画・大阪城天守閣 蔵)

(写真は 浪花百景 四天王寺
(歌川芳雪 画・大阪城天守閣 蔵))

転法輪(輪宝)

 「天王寺詣り」は西の入り口にある石の大鳥居、ぽんぽん石に始まって西の大門、五重塔をはじめ境内をぐるりと回り、おなじみの亀の池も見て最後に引導鐘をつく。四天王寺の堂塔や名所などを明るく愉快に話し、実用的で役立つ落語である。
 石の大鳥居の扁額には「釈迦如来転法輪所 当極楽土 東門中心(お釈迦さんが説法する所で、ここが極楽の東門の中心です)」と書かれている。彼岸の中日には太陽がこの鳥居の真ん中に沈む。鳥居のそばにあるぽんぽん石は石柱の真ん中に四角い穴があり、手をたたくと「ぽんぽん」と音がし、穴に耳を当てると身寄りの者のあの世での話し声が聞こえると言う。

(写真は 転法輪(輪宝))

 大鳥居のすぐ東にある西大門は極楽に通じる門として戦後、極楽門と名づけられた。門の柱に転法輪(てんぽうりん)と言う手で回すコマのようなものが4個ついている。仏さまへのあいさつがわりにこのコマを回す。
 太子殿前の猫の門は梁の上に猫の彫り物がある。日光東照宮の眠り猫と一対をなす左甚五郎の作として有名で、この猫が元旦の朝に3度鳴くとの伝説がある。亀井堂は供養を済ませた経木を堂の前の亀甲の水盤に流し、一度、水をくぐらせた経木が浮いてくると「これで浮かばれた」と参拝者たちは安心したと言う。亀池は文字通り放生された多数の亀が泳いだり、甲羅干しをしたりしている。ここにも外来種の亀が増えていると言う。

太子殿 猫の門

(写真は 太子殿 猫の門)


 
高津宮  放送 11月7日(水)
 仁徳天皇が「たかきやに のぼりて見れば 煙り立つ 民のかまどは にぎわいにけり」と、庶民の暮らしぶりを見て歌に詠んだ故事で知られる高津宮(こうづぐう)は、古くから大阪の庶民は「こうづさん」と呼んで親しみを持つ特別な神社だった。
 日本書紀には「仁徳天皇が難波高津宮を営んだ」とあるが、高津宮の所在は確定していない。高津宮の社伝よれば、清和天皇の勅命で貞観8年(866)現在の大阪城付近に難波高津宮旧地に創建されたが、豊臣秀吉の大坂城築城にともない現在地に移されたとある。

高津宮

(写真は 高津宮)

「高津の富」絵馬

 高津宮は多くの落語の舞台になっており、その中でもよく演じられるのが「高津の富」。大坂の宿屋にやって来た男が「大金持ちだ」とホラを吹いて投宿したが、金の持ち合わせが少ないので、宿賃を踏み倒して逃げようと算段している時、宿屋の主人が「高津の富くじを1枚買ってきてほしい」と頼んだ。なけなしの持ち金をはたいて買った1枚の富くじが、1等の1千両の当たりくじとなったと言う縁起のよい噺。
 当時、この富くじの抽選会が高津宮で行われていた。木箱に入った富くじの木の番号札を先にキリのような尖ったものがついた棒で突き、刺して持ちあげてきた札に当選番号が記されていた。

(写真は 「高津の富」絵馬)

 ほかに高津宮を舞台にした落語に若旦那の恋患いの「崇徳院」、奇想天外な恋物語の「いもりの黒焼き」、キツネが人に化かされた「高倉狐」などが有名である。高津宮境内に5代目桂文枝の記念碑が建立されていたり、参集殿の「高津の富亭」ではしばしば落語会が催されており、落語ファンにはうれしい神社だ。
 高津宮のある上町台地は見晴らしのよいことで知られ、十返舎一九が「東海道中膝(ひざ)栗毛」の中でも紹介している。昔は高津宮から神戸の須磨浦が望め、境内の茶屋に置かれていた遠眼鏡(とうめがね)が人気を呼んていたようだが、今はビルが建ち並び眺望はきかなくなっている。

高津の富亭

(写真は 高津の富亭)


 
難波橋  放送 11月8日(木)
 水の都・大阪は「杭だおれの橋の都」とも言われたほど橋が多い。俗に八百八橋と言われているが、現在、大阪市内には約790の橋がある。その中で橋の両端の四隅に4頭のライオンの像があることから、ライオン橋とも呼ばれている難波橋は、天神橋、天満橋とともに浪花三大橋のひとつに数えられている。
 江戸時代にはもちろん木橋であったが明治9年(1876)架け替えの際、中之島から北側部分が鉄橋化された。さらに堺筋線の市電が北浜から天神橋6丁目まで延ばされた時、現在の堺筋に移設され重厚なアーチ式となり、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、精巧な彫刻の橋塔、ライオン像が設置された。

浪花百景 浪花橋夕涼(歌川国員 画・大阪城天守閣 蔵)

(写真は 浪花百景 浪花橋夕涼
(歌川国員 画・大阪城天守閣 蔵))

浪花百景 川崎ノ渡シ月見景(歌川芳雪 画・大阪城天守閣 蔵)

 難波橋は大川が中之島によって土佐堀川と堂島川に分かれる地点に架かっているので上流の大川、下流の土佐堀川、堂島川の眺めがよく、夏場の橋の上は川風に涼を求める庶民たちの絶好の夕涼み場所であった。お金のある人は川に舟を浮かべて一杯やりながらの夕涼み、金のない庶民は橋の上からそんな夕涼み舟を指をくわえて眺めるしかなかった。
 落語の「遊山船」ではこうした庶民の表情が語られ、難波橋の上の喜六、清八の二人連れのひとり、喜六が夕涼みの屋形舟の群れを見て「ぎょうさん家が流れてきた」と驚くのには、庶民とは言えちょっと情けない。

(写真は 浪花百景 川崎ノ渡シ月見景
(歌川芳雪 画・大阪城天守閣 蔵))

 夏場の夕涼みの季節には難波橋のたもと付近には、夕涼み客目当ての茶店などが出て、氷水、甘酒、ぜんざい、しるこ、洋酒などを売っていた。当時は夏場でも甘酒が名物だったようだ。
 当時、難波橋付近でよい匂いを漂わせていたのが鰻屋「あみ彦」。元禄年間(1688〜1704)に現在の北浜の証券取引所あたりの川べりで屋形船を浮かべて鰻屋を始めた。付近には炭火で焼かれたウナギの香ばしい匂いが漂い、食欲をそそった。天然物のウナギしかなかった当時のウナギ料理は高級料理で、養殖ウナギが出回っている現在のように庶民の口にはなかなか入らなかった。「あみ彦」今、北浜のビルの地下で「阿み彦」として営業している

阿み彦

(写真は 阿み彦)


 
大阪天満宮  放送 11月9日(金)
 右大臣の地位にあった菅原道真は、その権勢拡大を恐れた左大臣・藤原時平ら藤原一族の讒言(ざんげん)によって、昌泰4年(901)太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷された。2年後、非運のうちに59歳で生涯を閉じたが、その後、都に天変地異が相次いだことから道真の怨霊を鎮めるため、京都北野に創建されたのが全国の天満宮の始まりで、道真の死から46年後の天暦3年(949)に大阪天満宮が創建された。
 道真が太宰府へ向かう途中、難波で船待ちをしている間に、この地にあった大将軍社に参拝したのが大阪天満宮建立のきっかけとなった。現在、大将軍社は大阪天満宮の摂社として祀られている。

天満天神繁昌亭

(写真は 天満天神繁昌亭)

浪花百景 天満天神宮(初代長谷川貞信 画・神戸市立博物館 蔵)

 道真の命日が2月25日なので25日が天神さんの縁日で、正月明けの最初の縁日の1月25日が初天神として、受験生の合格祈願や商売繁昌を願うなにわっ子たちの参拝者でにぎわう。
 落語「初天神」は多くの露店が並んでにぎわう天神さんへ、父親と小生意気なせがれが出かけて巻き起こすお笑い。子供を連れて行くと「あれ買え、これ買え」とねだられるから嫌だと言う父親についてきた息子は、早速、あめやみたらし団子をねだり「連れて来なければよかった」とぼやく父親。最後に買った凧を持って天神さん近くの空き地へ凧揚げに行き、童心に帰って喜ぶ父親が凧糸を息子に渡さず「おとっつあんなんか連れて来なければよかった」ぼやく息子の一言がオチ。

(写真は 浪花百景 天満天神宮
(初代長谷川貞信 画・神戸市立博物館 蔵))

 学問の神様として知られる天満宮には、受験シーズンになると合格祈願の受験生や父母らの参拝が後を絶たず、合格への願いが書き込まれた絵馬が所狭しと掲げられている。境内の星合茶寮に「すべらんうどん」がある。うどんにスリットが入っていて箸やフォークを使っても滑らずに食べられることから、受験生が縁起を担いで滑り止めに食べて行く。
 落語に縁のある天満宮の敷地内には去年9月、天満天神繁昌亭がオープンした。市民や企業からの浄財で建設された寄席は、約80年ぶりに復活した落語専門の定席で、観光バスで落語を聞きにくる観光客もいるほどの人気となっている。

すべらんうどん(星合茶寮)

(写真は すべらんうどん(星合茶寮))


◇あ    し◇
生国魂神社地下鉄谷町線、千日前線谷町九丁目駅下車徒歩5分。
近鉄上本町駅下車徒歩9分。 
四天王寺JR、地下鉄天王寺駅、近鉄南大阪線阿部野橋駅下車
徒歩15分。
地下鉄谷町線四天王寺夕陽ケ丘駅下車徒歩3分。 
高津宮地下鉄谷町線谷町九丁目駅下車徒歩5分。 
難波橋、阿み彦京阪電鉄、地下鉄堺筋線北浜駅下車すぐ。 
大阪天満宮、天満天神繁昌亭JR東西線大阪天満宮駅下車徒歩3分。
JR環状線天満駅下車徒歩10分。
地下鉄堺筋線南森町駅下車徒歩3分。
京阪電鉄北浜駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
生国魂神社06−6771−0002 
四天王寺06−6771−0066 
高津宮06−6762−1122 
阿み彦06−6231−0278 
大阪天満宮06−6353−0025 
天満天神繁昌亭06−6352−4874 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会