月〜金曜日 18時54分〜19時00分


箕面市、茨木市、高槻市 

 京都と西宮を結ぶ西国街道は山崎街道とも呼ばれ、京都と西国を結ぶ近道の脇街道として、西国大名の参勤交代に利用され、沿道の宿場町は繁栄した。今回は西国街道沿いの箕面、茨木、高槻の各市を訪れ、宿場町の史跡やその面影などを探訪した。


 
萱野三平旧邸(箕面市)  放送 12月4日(火)
 師走になれば赤穂浪士の吉良邸討ち入りが話題となる。播州赤穂では12月14日に赤穂義士祭があり、四十七士の忠臣蔵パレードなどが繰り広げられる。
 箕面市内の京都と西宮を結んだ西国街道沿いに、48人目の赤穂義士と言われた萱野三平の旧邸があり、忠臣蔵ゆかりのこの旧跡は大阪府の史跡に指定されている。三平は延宝3年(1675)ここで生まれ、13歳の時、父・重利が仕えていた旗本・大嶋氏の推挙で浅野家に中小姓として仕官した。

萱野地区墓地

(写真は 萱野地区墓地)

萱野三平墓

 元禄14年(1701)3月14日、赤穂城主・浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良上野介に切りつけた刃傷事件が起こった。この時、江戸詰だった26歳の三平は、この事件を赤穂の国元に知らせる使者として、早水藤左衛門とともに早駕籠で赤穂に向かった。
 江戸を発って5日目、早駕籠が西国街道の生家の前を通りかかった時、偶然にも前日に死んだ母の葬式が行われていた。早水が「せめて別れをしてこい」と勧めたが「お役目が大事ですと」と断り、そのまま駕籠を赤穂に急がせたと言う。

(写真は 萱野三平墓)

 その後、三平は大石内蔵助を中心とする仇討ちの一党に加わり、父に江戸へ下る許しを乞うた。だが重利は江戸への旅が吉良邸への仇討ちの準備のためであることを見抜いており、これが三平を推挙した旗本・大嶋家に迷惑を及ぼすことを心配して許さなかった。
 主君・浅野内匠頭へ忠義を尽くすために江戸へ行けば親不孝になり、父のもとに残れば主君への不忠、同士への裏切りとなる。この板挟みに苦しみ、討ち入りがあった元禄15年(1702)1月14日の主君の忌日の日に、自宅長屋門の1室で自刃して果て、27歳の生涯を閉じた。辞世の句は「晴ゆくや 日ごろの心の 花曇り」。

萱野三平旧邸長屋門

(写真は 萱野三平旧邸長屋門)


 
郡山宿本陣(茨木市)  放送 12月5日(水)
 京都から西宮までの西国街道の六つの宿場の中で、江戸時代に最もにぎわった郡山宿には、享保6年(1721)に再建された本陣の建物がほぼ当時のままの姿で残されている。
 大名などが宿泊する時に出入りする、幕府公認の御成門を入った玄関先のツバキの老樹が、毎年見事な5色の花を咲かせることから「椿の本陣」と呼ばれてきた。このツバキは「ここは郡山御本陣の椿、どんな雀でも巣をかける」と謡われたほどで、今も二代目のツバキが旅人を迎えている。

郡山宿本陣

(写真は 郡山宿本陣)

御成門

 玄関から廊下に相当する4畳の2部屋が続き、その奥に1段高い上段の間があり、ここが大名らが宿泊したり休憩する部屋である。上段の間からは邸宅内の庭が眺められ、この庭には参勤交代でしばしばこの本陣を利用した四国丸亀藩主・京極能登守から贈られた茶室がある。
 この本陣には元禄9年(1696)から明治3年(1870)まで175年分の宿帳が残っている。その宿帳には中国地方や四国の丸亀以東の諸大名が1938回宿泊し、休憩は1399回におよぶ。

(写真は 御成門)

 刃傷事件の前年の元禄13年(1700)に赤穂城主・浅野内匠頭が宿泊しており、内匠頭にとってはこれが最後の参勤交代となってしまった。内匠頭の切腹後、お家断絶となった赤穂城受け取りの任に当たった、脇坂淡路守もこの本陣に泊まって赤穂へ赴いており、皮肉な巡り合わせと言える。
 また本陣には宿帳のほかに大名の宿泊を知らせる関札(宿札)が残っているほか、食事の準備をしたカマヤ(台所)にはかまども復元され、米蔵や納屋には本陣関係の資料などが展示されている。この本陣は当主の梶氏が生活されているので、見学には5人以上のグループで10日前までに予約が必要。

上段の間

(写真は 上段の間)


 
西国街道・芥川宿(高槻市)  放送 12月6日(木)
 JR高槻駅北側の芥川は、西国街道の六つの宿場のひとつとして江戸時代には本陣、脇本陣が置かれ、旅籠(はたご)もたくさんあってにぎわった町だった。
 芥川商店街を抜け、南へ進んだところのマンションや住宅の間に「芥川一里塚」がある。このあたりは高槻市内の中心地だけに市街化が進み、一里塚も建物の間にひっそりとたたずんでいるが、まだわずかに古い町並も見られ、かつての街道の面影をわずかにしのぶことができる。この「芥川一里塚」から西へ約400mの芥川橋までが芥川宿だった。

芥川宿絵図(平井家 蔵)

(写真は 芥川宿絵図(平井家 蔵))

芥川一里塚

 一里塚は豊臣秀吉が主な街道の距離を統一するため、1里(約4km)ごとにその目安として築かせたもので、江戸時代に入って整備された。一里塚には小さな祠を建て、エノキを植えるのが普通の形態で、芥川一里塚も小さな祠とエノキが残っている。当初は道路を挟んで両側に一里塚が築かれていたが、現在残っているのは東側のものだけである。
 芥川宿は鎌倉時代中ごろに起こり、大名の参勤交代が始まった江戸時代に宿場町としての発展し、最も繁栄していた幕末の天保年間(1830〜44)には本陣、脇本陣のほかに旅籠が33軒、民家が253軒あったと言う。

(写真は 芥川一里塚)

 この芥川一里塚から南へ下がった高槻城跡に建つ高槻市立しろあと歴史館は、江戸時代の高槻をさまざまな角度から紹介している。平面的な資料ばかりでなく、豊富な模型や映像で子供たちも楽しく見学できる。
 「西国街道と芥川宿」のコーナーでは、小さくとも精緻な大名行列の模型や道しるべのレプリカ、馬借通り札など、宿場町を彷彿させる資料に見入ってしまう。ほかに「高槻城と人」「城下町のくらし」「人々のなりわいといとなみ」「淀川と舟運」の各コーナーに分かれ、城の石垣の模型や火縄式銃、淀川を往来した三十石船や三十石船の旅人に、食事や酒を売ったくらわんか舟の模型やくらわんか茶碗など、興味をそそる資料が展示されている。

高槻市立 しろあと歴史館

(写真は 高槻市立 しろあと歴史館)


 
高山右近記念聖堂(高槻市)  放送 12月7日(金)
 戦国時代の天正元年(1573)高槻城主となった高山飛騨守と右近の父子は、キリスト教を篤く信仰して領内の布教に努め、城内の見晴らしのよい場所に天主教会堂を建てた。キリシタンの町となった高槻の領民の80%が信者となり、領内には教会堂が20ヵ所もあったと言う。天正9年(1581)の復活祭のミサには約1万5000人もの信者が集まったと言う。
 高槻城は明治維新後に取り壊され、今は城跡を示す碑と高山右近の銅像が立っており、城域の一部は城跡公園として整備されて市民の憩いの場となっている。

城跡公園

(写真は 城跡公園)

ユスト高山右近 像

 高槻城跡に天守教会堂跡を示す石標があり、その北100mのところに高槻カトリック教会が建っており、その聖堂は高山右近記念聖堂として知られている。
 この記念聖堂は敗戦直後の昭和21年(1946)に建立が計画された。郷土の誇りとして高槻市民や信者らに語り継がれてきたキリシタン大名を思い起こし、敗戦に打ちひしがれた人びとの心を癒し、希望を持って立ちあがれるようにとの祈りが込められていた。右近がその生涯を終えたフィリピン・マニラ郊外の聖母大聖堂を模して設計された記念聖堂は、計画から16年後の昭和37年(1962)に完成した。

(写真は ユスト高山右近 像)

 高槻城主としてキリスト教の布教に努めた高山右近は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、その戦功によって高槻城主から明石城主となった。その間にも蒲生氏郷や黒田孝高、小西行長らの大名や細川忠興夫人のガラシャらを入信させた。
 キリシタンが天下統一の障害になることを恐れた秀吉がキリシタン禁制を布告、右近にもキリシタン信仰を禁止したがこれを聞き入れなかったため、領地を没収され追放された。秀吉の死後、徳川家康もキリシタン禁制令を出し、右近に国外追放を命じた。フィリピン・マニラに渡った右近は慶長20年(1615)64歳で没しており、マニラにも右近の銅像が立っている。

カトリック高槻教会(高山右近記念聖堂)

(写真は カトリック高槻教会
                (高山右近記念聖堂))


◇あ    し◇
萱野三平旧邸阪急電鉄箕面線箕面駅からバスで
萱野小学校前下車徒歩5分。
北大阪急行千里中央駅からバスで
萱野小学校前下車徒歩5分。 
郡山宿本陣(椿の本陣)JR東海道線茨木駅、阪急電鉄京都線茨木市駅から
バスで宿川原下車徒歩2分。
芥川一里塚JR東海道線高槻駅下車徒歩5分。
阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩15分。 
高槻市立しろあと歴史館阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩10分。
JR東海道線高槻駅下車徒歩15分。 
高槻城跡阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩10分。
JR東海道線高槻駅下車徒歩15分。 
カトリック高槻教会
(高山右近記念聖堂)
阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩5分。
JR東海道線高槻駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
萱野三平旧邸072−724−7201 
郡山宿本陣(椿の本陣)072−643−4622
高槻市立しろあと歴史館072−673−3987 
カトリック高槻教会
(高山右近記念聖堂)
072−675−1472

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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          郵便番号 530−6691
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