月〜金曜日 18時54分〜19時00分


滋賀・長浜市、虎姫町、湖北町、高月町 

 近江・湖北の町には戦国時代の古戦場跡や遺跡、寺院が数多い。今回はこうした史跡や寺院を中心に探訪してみた。また初冬の湖北の水辺には冬の水鳥たちが飛来しており、バードウオッチングも楽しめる。なお浅井町とびわ町は平成18年2月長浜市と合併した。


 
近江孤篷庵(長浜市)  放送 12月17日(月)
 茶人、造園家として名高い小堀遠州は、天正7年(1579)現在の長浜市小堀町に生まれた武士だった。25歳の時、父の跡を継いで備中国を治め、遠州と号していた。元和5年(1619)40歳の時、領地を近江国浅井郡に移され、小室城(旧浅井町)の城主となり、3年後に近江国奉行に任じられている。
 遠州は京都の御所や名古屋、伏見、大坂、二条、水口などの諸城の築城に加わったほか、造園、書画、和歌、茶道などに優れた才能を発揮し、総合芸術家、文化人として知られ、69歳でその生涯を閉じた。

小堀遠州

(写真は 小堀遠州)

東庭

 遠州没後、2代目城主・政之が父・遠州の菩提を弔うために、京都・大徳寺の円恵禅師を招いて開いた寺が近江孤篷庵(こほうあん)で、遠州が大徳寺に建立した孤篷庵に対して近江孤篷庵と称された。近江孤篷庵の北に小堀氏の居城だった小室城跡が残っている。
 小堀家ゆかりの寺だけに境内の庭には趣向が凝らされている。本堂南の南庭は五老峰、海、舟石などを配した簡素な枯山水庭園、東の東庭は池を琵琶湖になぞらえて近江八景を模した池泉回遊式庭園。両庭園とも自然の起伏を巧みに生かし、しっとりとした苔の緑が目にしみ、近くの山では野鳥の鳴き声は響いている。

(写真は 東庭)

 春には参道脇のドウダンツツジや境内のショウジョウバカマ、イカリソウなどの山草が花をつけ、秋は庭のハギの花とともに木々が紅葉して名庭園の趣向を一層高める。
 本堂には本尊・釈迦牟尼仏像が安置され、孤篷庵下には小堀家一族や家臣たちの墓石が立ち並んでいる。孤篷庵は江戸時代中期には大寺院だったが、その後衰退して明治時代には無住の寺となった。昭和時代初めに再興されたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で本堂が倒壊し、6年後に本堂を再建、庭園も整備されてやっと往時の寺観が整った。

本尊 南無釈迦牟尼仏

(写真は 本尊 南無釈迦牟尼仏)


 
五村御坊(虎姫町)  放送 12月18日(火)
 真宗大谷派別院・五村(ごむら)御坊は慶長2年(1597)に、本願寺12世・教如が五村の十念寺跡に質素な聞法(もんぼう)道場を建てのが始まりである。
 本願寺は織田信長と対立し、各地で一向一揆で対抗していた。大坂石山本願寺での石山合戦の時には、教如は本願寺11世の父・顕如とともに戦っていたが、戦い方をめぐって石山本願寺からの撤退の顕如と意見を異にして籠城したため、父から義絶されたが、父亡き後、本願寺12世となった。しかし、母・如春尼に疎んぜられ、如春尼の申し入れを受けた豊臣秀吉から隠退を命じられ、弟・准如が本願寺13世となった。

虎御前山

(写真は 虎御前山)

教如上人

 教如と共に湖北での一向一揆を戦い、教如の徳を慕っていたこの地の門徒衆が悶々としていた教如を迎え、地元の有力郷士・大谷刑部らが十念寺跡地を寄進、粗末ながら坊舎の建立を始めた。
 関ヶ原の戦で東軍が勝利し、世は豊臣から徳川に移り、教如は徳川家康の許しを得て本格的な本堂の建立を始め慶長7年(1602)に完成した。その後、家康の命によって京都・六条に東本願寺が建立され、ここを本山としたため五村御坊は「元の本山」と呼ばれ五村別院となった。この時から本願寺は教如の東本願寺と弟・准如の西本願寺の東西二派に分かれた。

(写真は 教如上人)

 現在の本堂は江戸時代中期の享保15年(1730)に再建されたもので、広い境内には他に広間、客殿、庫裡、茶所、経堂、表門(国・重文)、鐘楼などがあり、教如上人の銅像も立っている。本堂西南には真宗大谷派東本願寺開基の教如上人の遺骨を納めた御廟がある。
 湖北地方に浄土真宗が伝道され始めたのは、鎌倉時代末期から南北朝時代初めの本願寺3世覚如上人のころで、戦国時代には信者も増え湖北10ヵ寺と呼ばれる有力寺院を中心に発展した。織田信長に対抗するため父・11世顕如は浅井長政と組み、湖北の門徒衆と共に信長と戦った。この時14歳だった教如も戦いに加わっていた。

真宗大谷派 五村別院

(写真は 真宗大谷派 五村別院)


 
浅井氏ゆかりの地
(長浜市、湖北町) 
放送 12月19日(水)
 湖北町と旧浅井町(現長浜市)にまたがる小谷山に、戦国時代の浅井三代の居城だった小谷城跡(国・史跡)がある。湖北の守護大名の京極氏に仕えていた浅井亮政が、京極家の内紛に乗じて湖北地方の実権をにぎり、小谷山に大永年間(1521〜28)に小谷城を築いたとされている。
 その規模は壮大で自然の地形を巧みに利用しており、遺構は小谷山のほぼ全山におよんでいる。城跡には石垣や土塁が残っており、北側の大嶽へ伸びる尾根筋には砦跡などがある。難攻不落の山城で中世三大山城のひとつに数えられ、北陸へ通じる北国街道の入口を抑える軍略上でも要衝の位置を占めていた。

小谷城跡

(写真は 小谷城跡)

小谷城跡絵図

 亮政の孫で三代目城主・長政は永禄3年(1560)16歳で六角義賢の大軍を破り、さらに翌年美濃の斎藤氏を破った。織田信長にとってその実力は侮りがたいものとなり、信長は妹のお市の方との結婚を実現させて懐柔策を取った。
 だが元亀元年(1570)信長が越前の朝倉義景を攻めた時、長政は盟友・義景に味方して近江、越前国境で信長軍を朝倉軍とともに挟撃して破った。しかしその2ヶ月後、徳川家康の援軍を得た信長は、姉川で浅井、朝倉軍を攻めて撃破、長政は小谷城へ敗走した。3年後の天正元年(1573)信長の猛攻撃で小谷城は落城、長政は父・久政と城中で自刃しており、城跡には長政自刃の地の石碑が立っている。

(写真は 小谷城跡絵図)

 お市の方と3人の娘の茶々(豊臣秀吉の側室・淀殿)、初(京極高次夫人)、江(徳川秀忠夫人)は落ち延び、信長のもとへ送られた。後に越前の柴田勝家に嫁ぐが、ここでも秀吉に攻められて勝家とともに非運の生涯を閉じ、戦国時代の悲劇の美女と言われた。
 小谷山の南東麓の谷間にある須賀谷温泉は、かつて長政、お市の方が湯治に通ったと伝わる名湯で、湖北観光の拠点となっている。冬は名物・鴨鍋が人気。湖北町の小谷城跡への登山口にある小谷城戦国歴史資料館には小谷城跡からの出土品や資料、長政・お市の方の暮らしなどが展示され、長浜市の浅井歴史民俗資料館にもお市の方に関する資料などが展示されている。

鴨鍋(須賀谷温泉)

(写真は 鴨鍋(須賀谷温泉))


 
雨森芳洲(高月町)  放送 12月20日(木)
 現在もギクシャクすることの多い日韓関係だが、江戸時代中期に朝鮮との友好に努め、功績を挙げた人物が高月町に生まれた儒学者・雨森芳洲(1668〜1755)である。平成2年(1990)来日した盧泰愚・韓国大統領は、宮中晩餐会で「雨森芳洲は誠意と信義の外交を信条とした人物だった」と称賛のスピーチをしている。
 芳洲は医者の子として生まれ、初めは医学を学んでいたが、父の死後、江戸に出て儒学の重鎮・木下順庵の門下生となった。新井白石らと共に「木門の五先生」と言われそのリーダー格だった。順庵の推挙で朝鮮外交の窓口となっていた対馬藩に儒学者として仕えることになり、朝鮮とのかかわりが始まった。

雨森芳洲

(写真は 雨森芳洲)

通信使に随行する芳洲(朝鮮通信使図絵巻)

 朝鮮に最も近い対馬藩は古くから朝鮮との往来があった。鎖国政策を取っていた時代も徳川幕府は、朝鮮と琉球とは国交を保っており、対馬藩は幕府から朝鮮との外交を委ねられていた。
 対馬藩に仕えて外交交渉を担当するようになった芳洲は「言葉を知らで如何に善隣ぞや」と、釜山に3年間留学して朝鮮語を習得した。また相手国の心を知らなければ、血の通った外交はできないと、語学だけでなく朝鮮の歴史や風俗、人情、習慣なども詳細に研究していた。すでに長崎で中国語を学んでおり、当時3カ国語を話せる日本人は少なかった。

(写真は 通信使に随行する芳洲
               (朝鮮通信使図絵巻))

 江戸時代に徳川将軍へのお祝いに日本を訪れていた朝鮮通信使に江戸まで同行し、外交文書の作成や応接の役目を務めた。両国で交わす書簡の文言をめぐって紛争が生じた時も、芳洲の粘り強い調整で事無きを得た。
 国際交流の基本は「互いに欺かず、争わず、真実を以て」と「誠信の交わり」を説き、現代にも通じる外交の心得を述べた名著「交隣提醒(こうりんていせい)」を著した。右往左往している現代の日本外交の範とすべき書とも言える。芳洲の生家跡に「東アジア交流ハウス・雨森芳洲庵」がある。ここには芳洲に関する著書、随筆、書状、朝鮮通信使にかかわる記録などが展示されており、芳洲の見事な生涯をたどることができる。

雨森芳洲庵

(写真は 雨森芳洲庵)


 
観音の里(高月町)  放送 12月21日(金)
 湖北地方の人たちは信仰心が篤く、この地方では観音像を祀っている寺が多い。特に高月町やその北の木之本町、余呉町あたりは、奈良時代以降に仏教文化が大きく花開いた地域で、仏教文化財、殊に観音像が多く残ることから「観音の里」と呼び親しまれている。
 高月町には20の集落に25体の観音像が祀られているが、その多くは小さなお堂に安置され、村人たちによって手厚く守られ、心の拠り所にされている。その中でも国宝、国の重要文化財に指定されている代表的な観音像が安置されている西野薬師観音堂(充満寺)、赤後寺(しゃくごじ)、渡岸寺(どうがんじ)観音堂(向源寺)を訪ねた。

十一面観世音像(西野薬師堂)

(写真は 十一面観世音像(西野薬師堂))

千手観音像(赤後寺)

 高月町の西部の琵琶湖岸の賤ヶ岳に続く尾根筋の麓にある充満寺は、天智天皇の時代の開基と伝えられている。戦国時代に兵火で本堂などは消失したが、仏像は村人たちによって持ち出されて難をまぬがれた。今は本堂から少し離れたお堂に十一面観音立像(国・重文)と薬師如来立像(国・重文)が安置されている。ヒノキ一木造りの十一面観音立像はふくよかな表情ながら重量感のある観音さまである。
 高月町の北端にある赤後寺には千手観音立像と聖観音立像(いずれも国・重文)が安置されている。賤ヶ岳古戦場に近かったことからこの寺も戦乱で焼かれたが、村人が川に観音像を沈めて守ったと言われている。

(写真は 千手観音像(赤後寺))

 赤後寺の観音さまは安産、眼病、転利にご利益があるとされている。「災い転じて利となす観音さま」のご利益の「転利」がコロリ(転利)に転じてコロリ観音として信仰されてきた。
 向源寺の飛地境内にある渡岸寺観音堂には十一面観音立像(国宝)が安置されている。天平8年(736)悪疫が流行した時、聖武天皇の勅願で僧・泰澄が刻んだと寺伝にあるが、実は平安時代初期の作と見られ、そのプロポーションは官能的である。十一面観音像は頭上に如来相の仏面をおくのが普通だが、この十一面観音像は菩薩相の仏面となっている。戦国時代、織田氏の浅井攻めの兵火で寺は焼失したが、観音像は村人の手で土中に埋められて難を逃れたと言う。

渡岸寺観音堂(向源寺)

(写真は 渡岸寺観音堂(向源寺))


◇あ    し◇
近江孤篷庵JR北陸線長浜駅からバスで浅井支所前
(旧浅井町役場前)下車、ここからタクシー利用が便利。
東本願寺五村別院(五村御坊)JR北陸線虎姫駅下車徒歩10分。
小谷城跡JR北陸線河毛駅からバスで児童館前(小谷城戦国歴史資料館)又は小谷城跡登山口下車徒歩30分。
小谷城戦国歴史資料館JR北陸線河毛駅からバスで児童館前すぐ。 
浅井歴史民俗資料館「お市の里」JR北陸線長浜駅からバスで浅井支所前
(旧浅井町役場前)下車徒歩20分。
須賀谷温泉JR北陸線長浜駅からバスで浅井支所前
(旧浅井町役場前)下車、ここからタクシー利用が便利。
雨森芳洲庵JR北陸線高月駅下車徒歩25分。 
JR北陸線高月駅から高月町コミュニティバスで
雨森下車徒歩5分。
西野薬師堂(充満寺)JR北陸線高月駅から高月町コミュニティバスで
西野下車徒歩3分。
赤後寺JR北陸線高月駅から高月町コミュニティバスで
唐川下車徒歩3分。 
渡岸寺観音堂(向源寺)JR北陸線高月駅下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
長浜観光協会0749−62−4111 
近江孤篷庵0749−74−2116 
虎姫町観光協会0749−73−4850 
東本願寺五村別院(五村御坊)0749−73−3133
湖北町観光協会0749−78−8305 
小谷城戦国歴史資料館0749−78−2320 
浅井歴史民俗資料館「お市の里」0749−74−0101
須賀谷温泉0749−74−2235 
高月町観光協会0749−85−6405 
雨森芳洲庵0749−85−5095 
西野薬師堂(充満寺)0749−85−3767
赤後寺0749−85−2775 
渡岸寺観音堂(向源寺)0749−85−2632

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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