月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・由良町、広川町、湯浅町 

 紀伊水道に面した和歌山県の中紀地方は温暖な気候に恵まれ、みかんの生産地としてその名が知られている。熊野詣の熊野古道の沿道でもあり、熊野王子跡や由緒ある古社寺も多い。また径山寺(きんざんじ)味噌や湯浅醤油の発祥地でもある。今回はこうした中紀の由良町、広川町、湯浅町を訪ねた。


 
みかん王国・紀州(由良町)  放送 1月7日(月)
 日本で冬の果物と言えばみかん。みかんと言えば誰しも紀州の温州みかんが頭に浮かぶ。日本にみかんが伝わったのは、記紀神話時代に垂仁天皇の命を受けた田道間守(たじまのかみ)が、常世の国へ渡り不老長寿の果物が実ると言われる霊木を苦心の末に探し当て、その実を日本へ持ち帰った。ところが天皇はすでに死亡していたため田道間守は落胆のあまり自害して死んだ。この果実が橘の実と言われ、品種改良を重ねて紀州みかんになったとの伝説がある。
 だが実際は天正年間(1573〜92)に有田郡糸我荘(現有田市糸我町)の人が、肥後国八代からみかんの苗木と種を持ち帰ったのが紀州みかんの始まりと言う。

紀州みかん

(写真は 紀州みかん)

白崎海洋公園

 由良町には白い石灰岩の巨岩、奇岩と海の青さが鮮やかな和歌山県立自然公園内の白崎海岸があるように、この地方はアルカリ性の土壌に加え、太陽の光がいっぱい降りそそぐ温暖な気候、海の風があたるみかん栽培には最適の条件に恵まれていた。
 江戸時代には紀州藩の保護と販売の統制政策が相まってみかん栽培は急速に発展した。当時は有田川河口に集められたみかんは船で江戸に送られた。大しけの海をおして江戸へみかんを運び、巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門のエピソードは有名である。

(写真は 白崎海洋公園)

 由良町のみかん農家が少しでも質がよいみかんを収穫しようと努力した結果、糖度の高いおいしいみかんの栽培に成功し、今日のみかん王国を築いたと言える。
 由良町では現在、温州みかんのほかにハッサク、夏みかん、伊予柑、レモン、ネーブル、キンカン、ダイダイ、三宝柑などが栽培されているが主流は温州みかん。三宝柑は藩政時代に三方に乗せて藩主に献上したことから、この名がついた紀州原産のみかんの一種である。温州みかんに限ると和歌山県の生産高は全国1位で、柑橘類全体では愛媛県に次いで2位を誇っている。

みかん畑

(写真は みかん畑)


 
みかん畑からお茶の間へ
(由良町) 
放送 1月8日(火)
 鈴なりのみかんがなる由良町のみかん畑からの眺めは絶景だ。眼下には黒潮が流れる紀伊水道の海、緑の島々、岬、そして遠くには淡路、四国までが一望できる。
 紀伊水道の東側の丘陵地帯に広がるみかん畑は、登るだけでも大変な急斜面にあり、収穫までのみかん農家のさまざまな作業の苦労のほどが察せられる。こうした苦労をいとわず、丹精込めたみかん作りの結果、おいしいみかんが消費者の茶の間に届く。

ゆらっ子

(写真は ゆらっ子)

JAグリーン日高ゆら柑橘撰果場

 由良町はみかん栽培に適した気候風土に恵まれ、江戸時代から糖度の高いおいしいみかんを生産してきた。さらにその味を重視した「完熟みかん」の栽培ににこだわり、樹上で熟したみかんをもぎたての状態で出荷する「完熟の里」を謳っている。
 こうしたみかん農家の努力が実って10月上旬から10月末に出荷する極早生で糖度が高い「ゆら早生」や11月下旬から12月下旬に出荷する色、味、香りとも抜群の「ゆらっ子」などの優良品種を産み出し「完熟の里」のイメージアップにつなげている。

(写真は JAグリーン日高ゆら柑橘撰果場)

 収穫の最盛期を迎え樹上で熟したみかんが今、JAグリーン日高ゆら柑橘撰果場へ次々と運び込まれている。撰果場にはプラスチック容器に入ったみかんがうずたかく積まれ撰果の順番を待っている。
 現代のみかん撰果場は最新の機器類が導入され、品質が均一のみかんが箱詰めされている。まずベルトに乗って流れていくみかんに光を当てて色、傷、形、形状をカメラが判別して選別する。さらにセンサーによって1個、1個の糖度と酸度が正確に測定され、同じ品質のものが箱詰めされるので、一箱の中身に差の無いものが消費者に届けられるシステムになっている。

センサーシステム

(写真は センサーシステム)


 
稲むらの火(広川町)  放送 1月9日(水)
 幕末の安政元年(1854)南海地震が発生し、広村(現広川町)は高さ5mの大津波に襲われた。この時、豪商・濱口梧陵は田んぼのわらを束ねた「稲むら」に火を放ち、暗闇の中を逃げ惑う村人たちを高台にある広八幡神社の境内に誘導し、多くの命を救った。
 この逸話は「稲むらの火」として一躍有名になり、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が著した「生き神様」の中で、取りあげられ世界中に知られた。さらに昭和12年(1937)発行の小学校国語読本(5年生用)に「稲むらの火」が掲載され、児童たちに深い感銘を与えた。

安政南海地震津波の実況図(養源寺 蔵)

(写真は 安政南海地震津波の実況図
(養源寺 蔵))

広村堤防

 濱口梧陵はこの大津波に襲われた後、百年後の津波の襲来を予測して、巨額の私財と足かけ4年の歳月をかけて、高さ5m、長さ600mの広村堤防を安政5年(1858)に完成させた。この広村堤防は室町時代に畠山氏が築いた波除石垣の内側に防浪林と防潮林を兼ねた松並木を作り、その内側に土盛りの堤防を築いた。
 この広村堤防がその威力を発揮したのが、昭和21年(1946)の南海大地震によって発生した大津波が広村を襲った時だった。この堤防が広村の大部分を軽微な津波の被害で食い止めており、濱口が予測した安政の大津波から百年後に大津波から村人を守った。

(写真は 広村堤防)

 こうした濱口の偉業を讃え広川町には昭和8年(1933)村人によって広村堤防に感恩碑が建立され、町立耐久中学校の校庭には濱口梧陵の銅像と稲むらの火の顕彰板が建てられている。稲むらの火に導かれて村人が避難した広八幡神社境内には、勝海舟が碑文を書いた濱口梧陵の石碑が立っている。
 最近、東南海大地震、南海大地震の発生と大津波が予測される中で、この「稲むらの火」のエピソードは地震、津波に対する防災意識を高めるのに大きな刺激になっている。これらの防災意識を高めるのに役立つ「稲むらの火の館(濱口梧陵記念館)兼津波防災教育センターには、稲むらの火から学ぶ資料や体験コーナーが用意されている。

廣八幡神社

(写真は 廣八幡神社)


 
施無畏寺(湯浅町)  放送 1月10日(木)
 湯浅町の栖原海岸から眺める湯浅湾上に浮かぶ刈藻島、鷹島は、鎌倉時代の名僧・明恵上人が若き日に修行のために籠もった島である。栖原海岸の東北側の白上山にも明恵が23歳から数年間、草庵を結んで修行に専念した跡を示す古い石の卒塔婆が立っている。
 明恵の晩年、寛喜3年(1231)彼のいとこである湯浅の地頭・藤原景基が、白上山の山麓に建立した施無畏寺(せむいじ)へ、病を押して京から下って開眼供養を営み、付近一帯の殺生を禁じ「畏れ無きを施す寺」即ち施無畏寺を寺号とした。施無畏寺の開山堂には明恵上人像が安置されている。

開山堂

(写真は 開山堂)

明恵上人坐像

 明恵上人は平安時代末期の承安3年(1173)紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現有田郡有田川町歓喜寺)で、高倉院の武者・平重国の子として生まれた。8歳で父母を亡くし、9歳で京都・高雄の神護寺の文覚の門に入った。23歳の時、寺僧間の争いや神護寺での修行にあきたらず、故郷に帰って刈藻島や鷹島、白上山で厳しい修行を積んだ。
 白上山上の東白上修行場跡、西修行場跡の遺跡(国・史跡)にはそれぞれ石の卒塔婆が立っている。このほか明恵は近郷の山中などでも修行しており、これらの修行場を「明恵上人紀州八所遺跡」と言っている。

(写真は 明恵上人坐像)

 明恵上人は神護寺で修行中に華厳、真言の奥義を体得しており、鎌倉時代の建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣を受けて荒廃していた栂尾十無尽院を再興、上皇から「日出先照高山之寺」の勅額を賜り高山寺と改め、華厳宗興隆の道場とした。
 明恵は中国から茶の種を持ち帰った栄西禅師から茶の種を譲り受け、高山寺境内で茶の栽培を始め、さらに気候、風土が茶の栽培に適していた宇治でも栽培を始めたのが宇治茶の始まりとされている。今でも宇治の茶業者たちは新茶を高山寺の明恵上人の御廟に献茶している。

東白上の修行場跡

(写真は 東白上の修行場跡)


 
町並散策(湯浅町)  放送 1月11日(金)
 湯浅は径山寺(きんざんじ)味噌、湯浅醤油醸造業を中心に栄えた日本の醤油発祥の地。白壁の醤油蔵や町家が軒を連ねる町並は幸い大火にも遭わず、瓦屋根が軒を連ねる湯浅ならではの景観を現代に伝えている。
 それぞれの町家は江戸、明治、大正時代と建築年代によって特徴は異なるが、その重厚さには往時の風情が残っている。重厚な町家を背景に配置された辻行灯は、伝統の町並をより魅力的にと町の人たちが手作りしたものである。道町(どうまち)筋にある立石と呼ばれる道標は、天保9年(1838)の建造で、熊野道、紀三井寺、伊勢・高野道の方角を指し示している。

立石の道標

(写真は 立石の道標)

職人蔵

 江戸時代後期の天保12年(1841)創業の醤油醸造の老舗「角長」は古い町並みの中にあり、こうした環境を生かそうと醤油仕込蔵を転用した「職人蔵」に醤油作りの道具類などを展示して、江戸時代の醤油作りの様子がわかるようにしている。
 鎌倉時代中期に中国・宋に留学して帰国後、由良町に興国寺を建立した法燈国師は、中国で学んだ径山寺味噌の製法を地元の人たちに教えた。由良町、湯浅町を中心に味噌作りが盛んになり、その製造過程で樽の底に沈殿した液体が調味料に適していることが分かり、これに改良を加えて醤油にしたのが湯浅醤油の始まりである。

(写真は 職人蔵)

 熊野古道沿いにある勝楽寺の過去帳に紀伊国屋文左衛門の名があり、湯浅町別所がこの豪商・文左衛門の生誕地と考えられる。境内には文左衛門の生誕地を記念する石碑が立っている。
 紀伊国屋文左衛門は悪天候をおして船で江戸までみかんを運び、巨万の富を得たエピソードの商人として知られ、後には幕府御用達の材木商としてもその商才を発揮してる。文左衛門の生誕地は「加太浦」「和歌浦」「塩津」「熊野浦」など諸説紛々で定かでなかった。しかし研究家の研究資料やいろいろな説を総合し、過去帳も見つかったことから勝楽寺のある湯浅が有力な生誕地と言わざるを得ない。

紀伊国屋文左衛門の碑(勝楽寺)

(写真は 紀伊国屋文左衛門の碑(勝楽寺))


◇あ    し◇
広八幡神社JR紀勢線広川ビーチ駅下車徒歩25分。 
稲むらの火の館
(濱口梧陵記念館)
JR紀勢線湯浅駅下車徒歩15分。
施無畏寺JR紀勢線湯浅駅からバスで栖原海岸下車徒歩15分。
1日2便しかないのでタクシー利用が便利。
角長JR紀勢線湯浅駅下車徒歩15分。 
勝楽寺JR紀勢線湯浅駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
由良町観光協会0738−65−1203 
広川町観光協会0737−63−1122 
広八幡神社0737−62−2371 
稲むらの火の館
(濱口梧陵記念館)
0737−64−1760
湯浅町観光協会0737−63−2525 
施無畏寺0737−62−2353 
角長0737−62−2035 
勝楽寺0737−63−2118 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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