月〜金曜日 18時54分〜19時00分


金剛山、大阪・千早赤阪村、奈良・五條市 

 大阪府と奈良県にまたがる金剛山とその麓の大阪府千早赤阪村や奈良県五條市には、南北朝時代の南朝に関わる史跡や伝承が多い。今回は樹氷が美しい金剛山と南朝に関わった楠木正成や南朝の史跡を中心に探訪した。


 
金剛山・樹氷のきらめき  放送 2月18日(月)
 大阪府と奈良県の境界をなす金剛山系の主峰・金剛山は、標高1125mで大阪府下の最高峰。四季を通じて多くの登山者があり、年間の登山者数では富士山と争うほどである。
 登山ルートは大阪府側や奈良県側からいくつもあるが、日本で唯一の村営の千早赤阪村営金剛山ロープウェイに乗れば、一気に975mの高さの金剛山駅まで運んでくれる。一年中で最も冷え込むこの時期、山頂付近は一面の雪景色と美しいブナ原始林の木々に樹氷がつき、太陽の光を受けてきらめいている。この樹氷の眺めは大阪にある山の景色とは思えないほどで、1月から3月初めまで楽しめる。

金剛山ロープウェイ

(写真は 金剛山ロープウェイ)

葛木神社

 金剛山の山頂や山麓付近一帯には、南北朝時代の史跡や山岳宗教の修験道にかかわる社寺が多い。山頂の葛木神社は、金剛山で修行していた役行者(えんのぎょうじゃ)が、一言主を祀ったのが始まりとされ、後に後醍醐天皇、楠木正成を合祀した。
 金剛山は修験道の開祖・役行者が修行した山として知られており、葛木神社のすぐ北には役行者が開いたと言われる金剛山転法輪寺があり、現在の山の名前はこの寺の山号に由来する。金剛山登山口には楠木正成が鎌倉幕府軍と戦った千早城跡や千早神社があるほか、頂上にも正成ゆかりの国見城址が残っている。

(写真は 葛木神社)

 金剛山頂上からの眺望は素晴らしく、六甲山や淡路島から紀泉葛城山系、大峰山系の山並みなど360度の大パノラマが楽しめるほか、四季を通じて野草の花が咲き、多くの野鳥のさえずりも耳にできる。ロープウェイの金剛山駅近くには千早赤阪村営の宿泊施設「香楠荘」もあり、泊まりがけで自然や夜空を楽しむこともできる。
 金剛山には登山回数を記録するシステムがあり、金剛山錬成会の会員になれば、登山する度にスタンプをおしてくれる。毎日、出勤前や仕事が終わった後に登ってくる人もおり、現在も登っている人で最も多いのは1万回を超えている。毎日登っても27年以上かかる記録で、金剛山を神の山として健康を祈願しながら毎日の登山を楽しんでいる。

金剛山頂(奈良・御所市)

(写真は 金剛山頂(奈良・御所市))


 
楠木正成生誕地
(千早赤阪村) 
放送 2月19日(火)
 南北朝の動乱期、後醍醐天皇に忠誠を尽くし、天皇親政の政治・建武の中興に大きな功績をあげた楠木正成は、永仁2年(1294)河内国赤坂の里、現在の千早赤阪村水分で生まれた。学問は現在の河内長野市にある高野山真言宗の観心寺で学び、文武両道に優れた若武者にに成長したと言われている。
 後醍醐天皇の鎌倉幕府の倒幕計画が発覚、幕府軍が京都に攻め込んできたため、南山城の笠置山に逃れていた後醍醐天皇に元弘元年(1331)召し出され「鎌倉幕府を倒し、国を救うように」と命じられ、郷里で赤坂城を築き挙兵した。

楠公産湯の井戸

(写真は 楠公産湯の井戸)

千早合戦城塞図(楠木正隆氏蔵・郷土資料館)

 赤坂城の正成は攻め寄せる幕府軍にあらゆる戦法、戦術を駆使して大いに悩ませたが、急ごしらえの小さな城だったので奮戦むなしく落城した。その翌年、金剛山の中腹に千早城を築き、再び鎌倉幕府軍を迎え撃ち、奇襲作戦などで幕府の大軍に一歩も引かぬ戦いをした。
 この正成の奮戦が諸国に伝わり、各地で倒幕の動きが大きく広がり、ついに北条氏を滅ぼして鎌倉幕府を倒した。幽閉されていた隠岐島から脱出した後醍醐天皇を兵庫で迎えた正成は、天皇を先導して京都へ入り、天皇自ら政治を行う建武の中興を成し遂げた。

(写真は 千早合戦城塞図
(楠木正隆氏蔵・郷土資料館))

 悲願だった建武の中興も長続きせず2年後、天皇を裏切った足利尊氏を一時は九州まで敗走させたが、尊氏が諸国の不平武士らを集めた大軍で攻め上ってきた。この尊氏軍を正成は湊川で迎え撃ったが、衆寡敵せず湊川の地(現湊川神社)で弟の正季(まさすえ)と「七度人間に生まれて朝敵を滅ぼそう」と七生報国を誓い合って刺し違え、42歳で波乱の生涯を終えた。
 千早赤阪村には楠公生誕地の石碑や楠公産湯の井戸、下赤坂城跡、上赤坂城跡など楠公ゆかりの史跡が多く、千早赤阪村郷土資料館には村の歴史と楠木正成に関する資料が展示されている。

楠木正成 桜井駅画

(写真は 楠木正成 桜井駅画)


 
楠木正成奮戦の地
(千早赤阪村) 
放送 2月20日(水)
 後醍醐天皇に倒幕を誓った楠木正成が急遽築いた赤坂城は、鎌倉幕府の大軍に攻められて落城したが、その翌年の元弘2年(1332)正成は金剛山中腹に千早城を築き1000名ほどの兵と共に立て籠った。
 この千早城にも幕府の大軍が攻め寄せたが、険しい地形を利用してわら人形を用いて大軍に見せかけたり、崖を登る敵兵に矢を射たり、大木や岩石を落したり、ゲリラ戦を用いるなどさまざまな奇襲戦法で敵軍を翻弄し、100日間におよぶ籠城戦を戦い抜いて幕府軍を釘付けにし、ついに撃退したと言われる。この戦いが後醍醐天皇側の勝因を作り、建武の中興へと導いた。

千早神社

(写真は 千早神社)

豆腐のまつまさ

 正成が湊川の戦いで弟の正季(まさすえ)と刺し違えて自刃した後、千早城は正成の子・正行(まさつら)、正儀(まさのり)、孫の正勝(まさかつ)が籠もって闘ったが、南北朝時代末期の元中9年(1392)正勝が北朝方の畠山基国に攻められて落城、正成が鎌倉幕府倒幕の戦陣を切って奮戦した千早城は61年におよぶ歴史の幕を閉じた。
 千早城の本丸跡には千早神社は建立され、正成とその長子・正行(まさつら)、久子夫人を3神として祀っている。すぐそばには正儀の墓もある。

(写真は 豆腐のまつまさ)

 寒さが厳しく、水のきれいな金剛山麓では昔から豆腐作りが盛んだった。千早城跡のすぐ下、金剛山登山口にある「豆腐のまつまさ」では、昔ながらの製法にこだわった豆腐を作り続けている。金剛山への登山者が登山土産に買い求め、これら登山者らの口コミで金剛山麓の山の豆腐として知られるようになった。
 店では豆腐販売だけでなく、豆腐御膳や豆腐の一品料理のほか、山家料理としてバーベキューや山家ステーキセットなどの料理も用意している。登山前に腹ごしらえをする登山者、下山して空腹を満たす登山者など、金剛山の自然の中での食事を楽しむ人も多い。

豆腐御膳

(写真は 豆腐御膳)


 
南朝の里・賀名生(五條市)  放送 2月21日(木)
 五條市に合併する前の旧西吉野村賀名生(あのう)の丹生川のほとりに建つ古民家・堀家住宅は、賀名生皇居跡と呼ばれ、約700年前の南朝の波乱の歴史が秘められている。
 建武元年(1334)に成った天皇親政の建武の中興はわずか2年で破綻し、延元元年(1336)足利尊氏に都を追われた後醍醐天皇は吉野へ逃れる途中、この地の郷士・堀孫太郎宅に滞在した後、吉野へ移った。その12年後には後村上天皇が吉野からこの地に難を逃れ、さらに下って長慶、後亀山両天皇もここに逃れ、堀家裏に黒木御所を建てて行宮とした。

賀名生旧皇居(堀家住宅)

(写真は 賀名生旧皇居(堀家住宅))

日の丸御旗(賀名生の里歴史民俗資料館)

 現在の堀家の建物は16世紀の建築と推定されるが、南朝時代の面影をとどめる南朝の史跡として国の重要文化財に指定され、全国で現存している民家の中で最古に属する。
 堀家の門には幕末の倒幕運動の先駆けとなった、天誅組リーダー・吉村寅太郎の筆による「賀名生皇居」の扁額がかかっている。茅葺き屋根の堀家の主屋の柱などには、手斧(ちょうな)で削った後がくっきりと残っており、500年前の建築を物語っている。

(写真は 日の丸御旗
(賀名生の里歴史民俗資料館))

 堀家には南朝ゆかりの数々の宝物が伝わっている。後醍醐天皇から賜った日本最古の日の丸の旗をはじめ一節切笛、天目、後村上天皇宸筆と伝えれる三社神号旗、楠木正行が陣鐘とした古鐘、駅鈴などがある。
 賀名生皇居跡の堀家住宅のすぐ近くの「賀名生の里歴史民俗資料館」には、西吉野の文化財や観光情報、南朝の歴史などの資料を展示したり、映像やパソコンのデータベースなどでこれらの知識を得ることができる。特に南朝の皇居となった堀家に伝わる後醍醐天皇ゆかりの品を目にすると、南朝との関わりを身近なものとして感じ取ることができる。

駅鈴(賀名生の里歴史民俗資料館)

(写真は 駅鈴(賀名生の里歴史民俗資料館))


 
新町通り(五條市)  放送 2月22日(金)
 江戸時代の五條は紀州街道、伊勢街道、西熊野街道など5本の街道が通り、宿場町、市場町としてにぎわった。明治時代になって鉄道が開通すると、それぞれの街道は国道として整備されたが、新町通りと呼ばれる旧紀州街道沿いの町並みは、今も江戸時代の面影をとどめており、往時の繁栄ぶりをしのばせている。
 五條の町家はほとんどが2階を屋根裏の物置きとして使う“つし2階建”で、庇が比較的低い位置で揃った町家として調和を保っている。屋根の本瓦葺きは江戸時代中期以前に建てられた町家に多く、それ以後に建築には桟瓦葺きが多い。

新町通り

(写真は 新町通り)

新町村絵図(柏田文彦氏蔵・市立五條文化博物館)

 豪商の家であったと思われる栗山邸は、江戸時代初めの慶長12年(1607)の棟札があり、建築年代の明らかな現存する民家としてはわが国最古の民家である。栗山家は五條の旧家であったが、この住宅に住むようになったのは後世で、建築当時の所有者の由緒は明らかでないが、建物の規模や建築資材の材質などから見て、豪商の邸宅であったと見られている。
 このほか新町通りには江戸時代中期に建てられた中家住宅(奈良県指定文化財)、栗山家住宅(五條市指定文化財)など、文化財価値の高い民家が数多く残っている。

(写真は 新町村絵図
(柏田文彦氏蔵・市立五條文化博物館))

 こうした古い町家を活用しているのが「大和五條まちや館」である。旧辻家住宅の建物そのものを展示物として公開おり、土間にどっかりと据え付けられたかまどや、2階への階段の下に箱状の物入れが設けられた箱階段など、風格ある町家の雰囲気を今に伝えている。
 新町通りのシンボルとなっているのが「まちなみ伝承館」で、かつて医院として使われていた建築物を改修して、新町通りの町並みを紹介する資料館として公開しており、まちなみ散策の休憩所としても利用されている。

大和五條まちや館

(写真は 大和五條まちや館)


◇あ    し◇
金剛山頂、葛木神社南海電鉄高野線河内長野駅からバスで金剛山ロープウェイ前
下車、金剛山ロープウェイで金剛山駅下車徒歩40分。
近鉄長野線富田林駅からバスで金剛山ロープウェイ前下車、金剛山ロープウェイで金剛山駅下車徒歩40分。                  
千早城跡、千早神社南海電鉄高野線河内長野駅からバスで金剛山登山口下車徒歩10分。
近鉄長野線富田林駅からバスで金剛山登山口下車徒歩10分。 
千早赤阪村郷土資料館近鉄長野線富田林駅からバスで千早赤阪村役場前下車
徒歩5分。 
赤阪城跡近鉄長野線富田林駅からバスで赤阪中学校前下車徒歩5分。 
豆腐のまつまさ南海電鉄高野線河内長野駅からバスで金剛山登山口下車
徒歩5分。 
近鉄長野線富田林駅からバスで金剛山登山口下車徒歩5分。
賀名生旧皇居・堀家住宅、賀名生の里歴史民俗資料館
JR和歌山線五条駅からバスで賀名生和田北口下車すぐ。
栗山邸JR和歌山線五条駅下車徒歩15分。 
大和五條まちや館JR和歌山線五条駅下車徒歩20分。 
まちなみ伝承館JR和歌山線五条駅下車徒歩25分。 
◇問い合わせ先◇
千早赤阪村観光協会0721−72−1447 
千早赤阪村産業振興課0721−72−0081 
千早赤阪村郷土資料館0721−72−1588 
金剛山ロープウェイ千早駅0721−74−0128 
金剛山観光案内テレホンサービス(積雪情報)
0721−70−2200
葛木神社0721−74−0005 
豆腐のまつまさ0721−74−0015 
五條市商工観光課、五條市観光協会
0747−22−4001
賀名生旧皇居・堀家住宅0747−32−0730 
賀名生の里歴史民俗資料館
0747−32−9010
大和五條まちや館0747−23−2203 
まちなみ伝承館0747−26−1330 

◆歴史街道とは

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