月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・みなべ町 

 日本一の梅林・南部梅林は、多くの観梅客を楽しませてシーズンを終え閉園して、本来の梅の生産作業に戻った。これから実をつけ、初夏には収穫、梅干に加工される。観梅と全国ブランド・南高梅の梅干で知られるみなべ町で、梅にまつわるエピソードや熊野古道沿いの史跡などを探索した。


 
春の訪れ・南部梅林  放送 3月10日(月)
 「ひと目100万、香り10里」と言われ、広大ななだらかな山並みに見渡す限りの南部梅林は、1月下旬から花が咲き始め、2月中旬には一面が白い花のベールに覆われて、大勢の梅見客でにぎわった。みなべ町にはほかに岩代大梅林、千里梅林があるが、いずれも3月2日で閉園し観梅シーズンは終わった。
 みなべ町は旧南部町と旧南部川村が合併して誕生した梅の里。梅の生産量は約3万トンで全国生産量の30%を占めている。隣りの田辺市と合わせた紀州梅の生産量は全国シェア85%。みなべ町で生産される梅の75%は梅干に加工され、残り25%が青梅として出荷され、梅酒や家庭で梅干などに加工されている。

南部梅林

(写真は 南部梅林)

梅干の軍用供出(昭和14、15年頃)

 南部梅林のあるみなべ町晩稲(おしね)周辺は、昔は竹薮がほとんどのやせ地で、何も栽培することができなかった。江戸時代初期に田辺藩主・安藤帯刀が自生するやぶ梅に着目、生命力の強い梅の栽培を奨励し、年貢の軽減など梅栽培に対する保護策をとった。紀伊名所図会に南部の埴田(はねた)村の梅林が紹介されている。
 本格的に梅栽培が始まったのは明治時代に入ってからで、埴田梅林が南部川西岸の井出川原片山の片山梅林へと広がった。しかし、明治15年(1882)ごろから生糸生産が盛んになり、梅林は桑畑に代わって行った。埴田を追われた梅は晩稲、熊岡へと栽培地を移しこれが今日の南部梅林へとなった。

(写真は 梅干の軍用供出(昭和14、15年頃))

 その後、梅栽培と品種改良に情熱を燃やす人たちが現れた。晩稲の六太夫と言う人が改良した「六太夫梅」や内本徳松が見つけて繁殖させて「内本梅」などがある。明治34年(1901)内中源蔵と言う人物が、荒れた山を開墾して4haの梅林を作り、内本梅の優良品種を植えて本格的な梅栽培を始めた。
 内中はさらに収穫した梅を生産者自らが加工、販売する現在の梅干産業のスタイルを確立して、紀州の梅干生産日本一へとつなげた。内中は今も梅生産者から敬われており、南部梅林入口の小殿神社にはこの梅栽培の先駆者・内中源蔵の偉業を讃える頌徳(しょうとく)碑が立っている。

南高梅

(写真は 南高梅)


 
南高梅のふるさとは  放送 3月11日(火)
 南高梅は皮が薄く果肉が厚い最高級の梅。そのルーツは明治35年(1902)たまたま発見された大きな実をつける1本の梅の木にたどりつく。
 旧南部川村の晩稲(おしね)の高田貞楠(さだぐす)が、近所の人から購入した60本の梅の苗木を30アールの桑畑に植えた。その中に美しい紅がかった大きな実をつける1本の木があった。この木を母樹として大切に育て「高田梅」と呼ばれるようになった。昭和25年(1950)から5年かけて村内の100種以上の梅の中から最優良品種を選ぶ選定作業が進められ、高田梅が最優良品種に選ばれた。

うめ振興館

(写真は うめ振興館)

日本最古の薬草漬梅干(江戸末期)

 この高田梅は昭和40年(1965)に「南高梅」と命名され、梅の最優良品種として登録された。高田さんが見つけた南高梅の母樹は樹齢100年以上になるが、現在、JAみなべ本所の玄関前に植えられ、元気に花を咲かせ実をつけており、高田さんの梅林には「南高梅誕生の地」の記念碑が建立されている。
 「南高梅」の命名は、旧南部川村に適した梅の品種改良や南高梅の改良に貢献した和歌山県立南部高校を地元民は「南高」と呼んでいたことから、この最優良品種を「南高梅」と名づけた言われている。また旧南部川村の南と南高梅の母樹を見つけた高田さんの高を取って南高梅としたとの説もある。

(写真は 日本最古の薬草漬梅干(江戸末期))

 こんな梅を歴史、人物、科学、文学、雑学などさまざまな視点からとらえ、梅のことなら何でもわかるのが「みなべ町立うめ振興館」。観梅のシーズンでなくても「ひと目100万、香り10里」が実感できる南部梅林を再現している大パノラマが入館者を迎えてくれる。現存する日本最古の梅干と言われる江戸時代末期の薬草漬け梅干しから平成4年(1992)までの梅干しの実物展示もされている。
 みなべの山あいに湧く鶴の湯温泉は、傷ついた鶴が羽根を休めて傷を治したと伝わる湯。この鶴の湯温泉の露天風呂で湯浴みをしてから、梅をあしらった梅御膳をいただけば梅パワーで体に元気を取り戻せそうだ。

梅御膳(鶴の湯温泉)

(写真は 梅御膳(鶴の湯温泉))


 
おいしく元気に・梅パワー  放送 3月12日(水)
 梅干は「体によい」と昔から言われてきた。その効能を和歌山県立医科大学の宇都宮洋才講師の研究グループと、みなべ町立うめ21研究センターが共同で研究し医学的に証明した。みなべ町は梅干の効能が科学的に実証されたのを機に「健康のために一日1個の梅干を」とPRに努め、梅干の販売促進をはかっている。
 梅干は酸っぱいのが特徴。この酸っぱさの元であるクエン酸が食欲を増進、殺菌作用で食中毒を防ぐなど大活躍している。梅にはアルカリ性のミネラルが多く含まれているので、酸性食品を多く摂る現代人の体液が酸性化するのを防いで、体内のバランスを保ち生活習慣病を防ぐ。

紀州ほそ川 梅仙庵

(写真は 紀州ほそ川 梅仙庵)

梅サンドウィッチ

 さらに胃ガンを誘発させると言われているヘリコバクターピロリ菌の増殖を防ぎ、胃粘膜への感染を防ぐ効果もある。また動脈硬化を抑えたり、血液をサラサラにして脳卒中などを予防するほか、糖尿病も防ぐ。さらに余分な脂肪の摂取を防ぐのでダイエットにも効果があり、新陳代謝を活発にして肌もきれいになるなど、まさに健康保持には万能の食品と言える。
 よいことずくめの梅干だが「梅干をじかに食べるのはどうも…」と言う人たちのために、みなべ町の梅料理研究会の人たちが梅干を使った多彩なレシピを考案している。

(写真は 梅サンドウィッチ)

 梅料理の基本は梅干で作った「梅びしお」と呼ぶ調味料と梅マヨネーズ。梅びしおは梅干をつぶして裏ごしして、弱火で煮ながら砂糖とみりんを入れて作る。梅マヨネーズは梅びしおとマヨネーズを1対1で混ぜて作る。梅びしおを使った豆腐の梅あんかけ、レンコンの梅肉あえ、梅寿司、梅手巻き寿司、イワシの梅揚げなど、料理は多彩。梅マヨネーズを使えば梅サンドイッチ、梅ポテトサラダなど料理の幅はどんどん広がる。ほかに梅酒ケーキ、梅入り水ようかんなども考案されている。
 こうした梅料理のレシピや健康を増進する梅干の効能などのパンフレットは、みなべ町役場うめ課に請求すれば無料でもらえる。

梅手巻き寿司

(写真は 梅手巻き寿司)


 
古人の足跡  放送 3月13日(木)
 古代の飛鳥、平城、平安の都から牟婁の湯(現白浜温泉)や熊野三山の聖地への途次にある南部の道は、皇族や貴族をはじめ大勢の人びとが往来した。
 文武天皇と持統上皇が紀伊国に行幸した時、この地で「三名部の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣する海人を 見て帰り来む」と南部の沖合いに浮かぶ鹿島を眺め、釣りをする人を詠んでいる。このように長旅をしてきた人たちは、南部の千里の浜の白砂青松と大海原を見て大喜びし、感動したのであろう。今も鹿島周辺は釣りの名所として多くの釣り客が訪れているが、飛鳥時代にも釣りをする人が多かったことがこの歌からうかがえる。

有間皇子結び松の碑

(写真は 有間皇子結び松の碑)

岩代王子

 南部の海岸を感動して眺めた人たちばかりではなかった。悲劇の皇子と言われる有間皇子は、中大兄皇子との皇位継承争いで、蘇我馬子の孫・蘇我赤兄(あかえ)にクーデターをそそのかされて捕まり、牟婁の湯に滞在していた斉明天皇のもとに護送される途中、海の向こうのはるかかなたの地を望んで「磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見む」と詠んだ結び松の歌が万葉集にある。
 この磐代の道沿いには海を背にして徳富蘇峰揮毫の有間皇子の結松記念碑が立っているほか、19歳の若さで刑死した非運の皇子をしのんで、山上憶良ら万葉人が詠んだ歌も残されている。

(写真は 岩代王子)

 文武天皇や有間皇子が歌に詠んだ千里の浜は、熊野古道の岩代王子から千里王子の間に続く約2kmの白砂青松の海岸。伊勢物語や枕草子、大鏡、新古今和歌集にも登場し、アカウミガメの産卵地としても知られている。
 岩代王子は飛鳥時代から岩代の神が祀られていた言われ、熊野九十九王子の中でも最も早くから知られていた王子社。熊野詣の上皇や天皇らはこの王子の拝殿の板を削って一行の人数や名前を記し、元の位置に打ちつける習わしがあった。千里王子の現在の社殿は安永5年(1776)に再建されたもので、現存する熊野九十九王子中では最も古い王子のひとつ。この王子は「貝の王子」とも呼ばれ、千里の浜で拾った貝を供える風習がある。

千里の浜

(写真は 千里の浜)


 
梅を愛でつつ古寺巡り  放送 3月14日(金)
 梅の甘酸っぱい香りに包まれながら町内のひなびた古寺を巡るのも風情がある。南部平野の西端、南部川を望む丘に青蓮寺観音堂がある。近畿一円の西国三十三カ所観音霊場のミニ版として、白浜からみなべ町までの観音を祀る寺を選んだのが近西国三十三ヵ所観音霊場で、短時間で三十三ヶ所の観音霊場巡りができる。本尊・聖観世音菩薩像を祀る青蓮寺はその32番霊場で、農耕に携わる人びとの尊崇を受けてきた。
 青蓮寺の建立時期は不明だが、約800年前の鎌倉時代に南部郷が高野山蓮華乗院の荘園だったころ創建されたようだ。戦国時代に廃退し、後に浄土宗の超世寺と改めて近くに再興され、青蓮寺はその塔頭となった。

本尊 十一面観世音菩薩(青蓮寺観音堂)

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩
                              (青蓮寺観音堂))

伝 恵心僧都像(安養寺)

 みなべ町の中心地にある安養寺は鎌倉時代の創建と見られる真言宗の寺。快慶作の説もある本尊は鎌倉時代の木造阿弥陀如来三尊像で、脇侍は木造勢至菩薩像と観世音菩薩像。寺に伝わる伝・恵心僧都像は「黒仏さん」とも呼ばれており、室町時代中期の作と見られいる。
 安養寺は建立時期などはっきりしないが、日高地方屈指の古寺であることは間違いない。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで焼失したが、本尊の阿弥陀如来三尊像や恵心僧都像などの仏像は持ち出されて無事だったが、本尊の一部に焼け跡のような傷がある。

(写真は 伝 恵心僧都像(安養寺))

 天正の兵火による焼失後、江戸時代中期に本堂などが復興されたが、明治維新の神仏分離令で本堂は商人に売却されて解体された。本尊などの仏像は末寺に移し難を逃れ、本堂は明治25年(1892)に再建された。
 安養寺で注目されているのが8基の板碑(いたび)で、そのうち2基に「文永10年(1273)」の銘文があり、和歌山県内で最古の板碑とされている。板碑は板状の石の上部を三角形にした石卒塔婆で、鎌倉時代から室町時代にかけて多く作られた。板面に仏像や梵字、年月、氏名などを刻み、死者の追善供養、生前の逆修(ぎゃくしゅ)供養のために建立されたものである。

本尊 阿弥陀如来(安養寺)

(写真は 本尊 阿弥陀如来(安養寺))


◇あ    し◇
南部梅林JR紀勢線南部駅からバスで南部梅林下車。 
岩代大梅林JR紀勢線南部駅からタクシーで20分。 
千里梅林JR紀勢線南部駅からタクシーで20分。 
みなべ町立うめ振興館JR紀勢線南部駅からバスでうめ振興館前下車。 
鶴の湯温泉JR紀勢線南部駅からタクシーで20分。 
岩代王子JR紀勢線岩代駅下車徒歩5分。 
千里王子JR紀勢線南部駅からタクシーで10分。 
青蓮寺観音堂JR紀勢線南部駅からバスで筋下車徒歩15分。 
安養寺JR紀勢線南部駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
みなべ町役場0739−72−2015 
みなべ町役場うめ課0739−74−3276 
みなべ観光協会0739−72−4949 
みなべ町立うめ振興館0739−74−3444 
梅花テレフォン情報0739−74−3219 
梅の里観梅協会(南部梅林)0739−74−3464 
鶴の湯温泉0739−75−2616 
岩代大梅林観梅協会0739−72−4166 
安養寺0739−72−2768 

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  「歴史文化を活かした地域づくり」

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