月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪・島本町、京都・大山崎町 

 大阪府と京都府の境を挟んで隣り合わせている島本町と大山崎町は、天下分け目の天王山の麓にあり、東には桂川、宇治川、木津川の三川が合流している景勝の地である。昔から交通の要衝として知られ、現代もJRの東海道新幹線、東海道線、阪急電鉄京都線、名神高速道路がひしめくように走っている。史跡や古社寺も多く、旧西国街道沿いには往時をしのばせる古い民家も残る両町を訪ねた。


 
水無瀬神宮(島本町)  放送 3月24日(月)
 島本町水無瀬の里は、天王山を背に京と西国を結ぶ要路で、眼前に桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川となる古くから風光明媚な地で、皇族や貴族の離宮や別荘が多く営まれていた。
 後鳥羽上皇はこの地が非常に気に入り、鎌倉時代初期に水無瀬離宮を造営した。上皇は淀川を舟で下って頻繁にこの離宮に行幸し、その回数は約20年間で30回におよんでいる。離宮では管弦の催しや歌会、狩猟などを楽しんでおり、新古今和歌集に「見渡せば 山もと霞む 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ」と詠んだ歌がある。歌人の藤原定家もしばしば上皇の供をして歌会に顔を出していた。

水無瀬神宮

(写真は 水無瀬神宮)

後鳥羽上皇御手印置文(複製・大山崎町歴史資料館 展示)

 後鳥羽上皇は第1皇子で19歳の土御門天皇に譲位して院政を始めた。朝廷をないがしろにする鎌倉幕府の横暴が日に日に増していくのを耐えていたが、遂に承久3年(1221)倒幕を決意して立ち上がった。しかし京へ攻め上ってきた幕府の大軍にあっけなく敗れ隠岐へ流された。
 隠岐の地で19年間過ごし、60歳で崩御したが、亡くなる前に手形を捺した「後鳥羽上皇御手印置文(国宝)」の遺言状を臣下に残した。この遺言状に従って臣下の者が離宮跡に御影堂を建立し、上皇の画像(国宝)などを納めて菩提を弔ったのが水無瀬御影堂で、現在の水無瀬神宮の起こりである。

(写真は 後鳥羽上皇御手印置文
(複製・大山崎町歴史資料館 展示))

 水無瀬御影堂は明治6年(1873)に水無瀬宮となり、第1皇子の土御門天皇、第3皇子の順徳天皇を合祀、昭和14年(1939)に水無瀬神宮となった。
 境内の手水舎の井戸から湧き出ている「離宮の水」は、環境省認定名水百選に選ばれている。茶室・灯心亭(国・重文)は、後水尾天皇が愛していた茶室が下賜されたもので、灯芯の材料にする山吹、トクサ、ヨシ、ハギなどが、茶室の格天井に使われていることから灯心亭の名がつけられた。この茶室で毎年、離宮の水を使って茶道の家元による献茶式が行われている。

離宮の水

(写真は 離宮の水)


 
西国街道の今(島本町)  放送 3月25日(火)
 島本町を通る旧西国街道沿いには、往時をしのぶ史跡が多い。そのひとつが楠木正成、正行(まさつら)父子の訣別の地として太平記に記されている桜井駅跡(国指定史跡)である。
 南北朝時代の南朝の武将・楠木正成は、延元元年(1336)九州から東上してくる足利尊氏を撃つため、神戸・湊川へ向かう途中、11歳のわが子・正行に「今度の戦いは天下の安否がかかっている。父が討死にして尊氏の世になっても降参することなく、金剛山にたて籠もり尊氏と戦え」と、言い残して正行に菊水の刀を与えて河内へ帰した。正成は湊川で討死、正行も各地で足利軍と戦ったが最後は河内・四条畷で敗北、弟と刺し違えて果てた。

桜井駅跡

(写真は 桜井駅跡)

楠公父子訣別之所碑

 この楠木父子の「桜井の別れ」は、太平記のフィクションで史実にないものとされているが、正成の心情をよく現しており、忠君を貫く者の手本として明治時代以降の日本人の心をとらえていた。
 クスノキが茂る桜井駅跡の公園内には明治天皇が「子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐの里」と詠んだ明治天皇御製歌碑、陸軍大将・乃木希典筆による「楠公父子訣別之所」の碑、楠公子別れの石像、楠公訣児之処碑などさまざまな石碑が立っている。また戦前に唱歌として歌われた「青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ…」の6番までの歌は有名である。

(写真は 楠公父子訣別之所碑)

 JR東海道線山崎駅近くの旧西国街道沿いにある関大明神社は、古代の山崎の関の跡に創建されたとされているが、その時期は不明である。平安時代に関が廃止され、跡地に貴族や官人の宿泊施設の関戸院が設けられ、後に関守神か辻神を祀ったのが起こりとされている。
 関大明神社の向かいにある井戸が宗鑑井と言われ、ここが戦国時代の連歌師で俳諧の祖と仰がれる山崎宗鑑が住んでいた宗鑑屋敷跡と見られている。宗鑑の出自には諸説があり、通説では近江国の生まれで室町幕府9代将軍・足利義尚に仕え、義尚没後は出家したあと山崎に住み、山崎宗鑑と称したと言われている。

関大明神社

(写真は 関大明神社)


 
若山神社(島本町)  放送 3月26日(水)
 島本町を南北に流れ、淀川に注ぐ水無瀬川の上流を目指して遡って行くと、両岸に高さ150mものV字の急斜面の岩壁が延々と続く山吹渓谷に出会う。かつて町花のヤマブキが渓谷に沿って咲き乱れていたので、この名がつけられた。
 この渓谷に落差50mのか細い滝の流れが、清楚な乙女を思わせることから「乙女の滝」と呼ばれるが滝があり、ハイカーに人気がある。こうした渓谷美や美しい滝の流れを眺めていると、今し方、通り過ぎてきた島本町内の名神高速道路や東海道新幹線、JR、阪急電鉄などの車や電車の喧騒を忘れさせてくれる。

乙女の滝

(写真は 乙女の滝)

若山神社

 この美しい自然豊かな山の中腹に若山神社が鎮座している。境内からは桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川となる合流地、淀川対岸の石清水八幡宮が鎮座する男山も望める眺望が素晴らしい。若山神社は高槻市の神内地区も含め、島本町の広瀬、桜井、東大寺の四郷の氏神として篤い崇敬を受けてきた。
 その創建は古く飛鳥時代の大宝元年(701)に行基が文武天皇の勅命によって、牛頭(ごず)天王(素戔嗚命)を勧請したと伝わり、地元の人たちは「天王さん」の通称で呼び親しみ崇敬している。明治維新の神仏分離令で西八王子社を若山神社と改め、祭神も牛頭天王から素戔嗚命に改めた。

(写真は 若山神社)

 社宝の高さ36cmの聖徳太子七歳像は、平安時代中期の貞観年間(859〜77)の作と見られており、大阪市立美術館に寄託されている。
 神社境内はうっそうと茂るシイやカシの木の老樹におおわれており、大阪府自然環境保全地域に指定されている。この境内西側に幹周り2.5mを超える「ツブラジイ(円ら椎)」の巨樹が42本群生しており、大阪府の天然記念物に指定されている。ツブラジイはブナ科の常緑高木でスダジイとともに一般にはシイと呼ばれている。ツブラジイの実は昔は食用とされていた。

ツブラジイの巨樹

(写真は ツブラジイの巨樹)


 
天王山の史跡(大山崎町)  放送 3月27日(木)
 摂津国と山城国の境にあるのが標高270.4mの天王山。この天王山と淀川が迫り最も狭いところの平地はわずか200mしかなく、こうした地形が軍事、交通の要衝として、中世からしばしば群雄の合戦の場と化した。
 その中でも天正10年(1582)本能寺で織田信長を倒した明智光秀と、備中国で高松城を攻めていた羽柴秀吉が信長の弔い合戦に駆けつけ、激突した山崎の合戦は天下分け目の合戦となった。いち早く要衝の天王山を抑えた秀吉が勝利し、この合戦が戦国時代の歴史を大きく変えたことから、以来、天王山は「天下分け目の天王山」と言われ、勝敗の分かれ目を指す代名詞となった。

山崎合戦陣形図(個人蔵・大山崎歴史資料館 展示)

(写真は 山崎合戦陣形図
(個人蔵・大山崎歴史資料館 展示))

十七士の墓

 天王山の山頂には勝利した秀吉が築いた山崎城跡が残るが、7合目付近には秀吉が味方の士気を高めるため、千成瓢箪(せんなりひょうたん)の旗を掲げたと言われる旗立松がある。当時の松は明治時代末ごろまで枯れたままで残っていたが、その後、新しい松が植樹され現在の松は6代目。旗立松のそばの展望台からは、眼下に羽柴、明智両軍が戦った古戦場が一望できる。
 旗立松の少し上に幕末に新政府樹立に立ち上がった禁門の変(1864)に敗れ、天王山中で自刃した真木和泉以下の浪士隊十七士の墓がある。

(写真は 十七士の墓)

 山頂近くの酒解(さかとけ)神社は延喜式内社に列する乙訓地方では最古の神社。祭神の牛頭天王(ごずてんのう)の天王から天王山の名が生まれたと言われている。本殿前の板倉の神輿(みこし)庫(国・重文)は、鎌倉時代の建築と言われ、現存するわが国最古の板倉の建物である。
 天王山山頂への登山道はハイキングコース・秀吉の道として親しまれており、道沿いに秀吉の天下取りを解説した高さ1.8m、幅5mの6枚の陶板が設けられている。この陶板は日本画家・岩井弘氏が迫力あるタッチで屏風絵を描き、作家・堺屋太一氏が斬新な文章で秀吉の歩んだ道を解説している。

神輿庫(酒解神社)

(写真は 神輿庫(酒解神社))


 
宝積寺(大山崎町)  放送 3月28日(金)
 天王山への登山道を登り始めるとすぐ宝積寺(ほうしゃくじ)の美しい三重塔(国・重文)が見える。奈良時代の神亀元年(724)聖武天皇の勅命により行基が開創したと伝わる古刹。財宝を打ち出す打出と小槌、そして大黒天神を祀るところから財福、繁栄、増進の神と崇められ、現世利益を願う人びとの参詣が絶えないことが、宝寺と通称されるゆえんである。
 一般に財宝を打ち出すのは「打出の小槌」と言っているが、宝積寺のものは打出と小槌がそれぞれある。打出は弁財天神、小槌は大黒天神の神器とされており、境内の小槌宮に大黒天像と一所に祀られる打出と小槌でご利益を授かる。

秀吉一夜の塔

(写真は 秀吉一夜の塔)

本尊 十一面観世音菩薩

 朱塗りの美しい三重塔は、羽柴秀吉が山崎合戦の時に宝積寺を本陣にして勝利したのを記念して、一夜にして建立したとの伝説から「秀吉一夜の塔」とも呼ばれている。現在の塔は江戸時代初期の慶長9年(1604)に建立されたものである。
 本尊の十一面観世音菩薩像(国・重文)は、寺の眼下に見える桂川、宇治川、木津川の三川合流地点の橋が流されて民衆が途方にくれている時、翁が現れて水面を歩いて橋を架けた。その後、翁が宝積寺の厨子に入ったので、この翁は本尊・十一面観音菩薩の化身だったとの伝承から橋架観音とも呼ばれている。

(写真は 本尊 十一面観世音菩薩)

 境内の閻魔(えんま)堂には閻魔大王像(国・重文)と4体の眷属像(国・重文)が安置されている。閻魔様は死者の生前の行状を裁き、極楽と地獄の行き先を決める冥界の裁判官として一般には知られているが、それだけでなく衆生の煩悩の根源を取り除く実に慈悲深い方だと言う。
 閻魔大王像と眷属の司命(しめい)菩薩像、司録(しろく)菩薩像、暗黒童子像、倶生神(くしょうじん)像は鎌倉時代の作と見られ、わが国の閻魔大王像としては屈指の大像で、大王と眷属の四体がそろっていることでも貴重な存在だと言う。

閻魔大王と眷属御影

(写真は 閻魔大王と眷属御影)


◇あ    し◇
水無瀬神宮JR東海道線山崎駅下車徒歩15分。
阪急電鉄京都線水無瀬駅下車徒歩10分。 
桜井駅跡JR東海道線島本駅下車すぐ。
阪急電鉄京都線桜井駅下車徒歩7分。
関大明神社、宗鑑屋敷跡JR東海道線山崎駅下車徒歩5分。
阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩5分。 
若山神社阪急電鉄京都線水無瀬駅からバスで若山台センター下車
徒歩10分。
阪急電鉄京都線水無瀬駅下車徒歩30分。 
山吹渓谷、乙女の滝阪急電鉄京都線水無瀬駅からバスで若山台センター下車
徒歩30分。
阪急電鉄京都線水無瀬駅下車徒歩50分。 
天王山JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩50分。 
酒解神社JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩40分。 
宝積寺JR東海道線山崎駅、阪急電鉄京都線大山崎駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
島本町教育委員会075−962−0792 
水無瀬神宮075−961−0078 
若山神社075−962−1651 
大山崎町歴史資料館075−952−6288 
酒解神社075−956−0218 
宝積寺075−956−0047 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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