月〜金曜日 18時54分〜19時00分


姫路市 

 ユネスコの世界文化遺産に登録されている国宝・姫路城は姫路市のシンボルでもある。今も播州地方の経済、文化の中心都市となっている姫路市の顔としての姫路城は市民の誇り。今回は姫路城を中心にその関わりなどを探索した。


 
天下の名城・姫路城  放送 3月31日(月)
 姫路市の市街地の中心にそびえる国宝・姫路城の歴史は、鎌倉時代末期に播磨国の守護職だった赤松則村(円心)が、元弘3年(1333)に築いた砦に始まる。赤松は護良親王の令旨を受けて鎌倉幕府の倒幕に兵を挙げ、元弘元年(1331)の元弘の乱に参戦、足利尊氏らと共に六波羅探題を攻め落とした。足利尊氏が建武の新政から離反したのに従い室町幕府成立に貢献した。
 それから約250年後の天正8年(1580)羽柴秀吉が毛利攻めの折に、中国地方攻略の拠点として3層の天守を持つ城郭を築城した。

姫路城

(写真は 姫路城)

西の丸

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで戦功のあった池田輝政が、播磨52万石を与えられて入城し、その翌年から8年をかけて、5層7階の大天守をはじめ、数々の櫓(やぐら)や門、城壁からなる大城郭を築き上げた。
 池田氏3代の後、姫路城主になった本多忠政の子・忠刻が、徳川家康の孫・千姫を妻に迎えた時、千姫が持参した化粧料10万石で西の丸を整備し化粧櫓などを建設した。2層造りの化粧櫓は階上に18畳、15畳、窓辺に6畳3室の畳敷きの部屋がある住宅様式で、ふすまや壁、羽目板には極彩色の花鳥が描かれていた。ほかに忠刻・千姫夫婦のための豪華な館も建てられ、今日の姫路城の全容が整った。

(写真は 西の丸)

 姫路城は外観の美しさに比べ、内部は外敵の襲撃に備え籠城もできる城郭本来の設備がいたるところに施されている。これは関ヶ原の戦い以後、豊臣秀吉恩顧の西国大名の動きに備えたもので、城内に一歩足を踏み入れると塀や櫓で通路が迷路のようになっており、白漆喰総塗籠めの壁や塀には鉄砲や矢を射かけるための、長方形や正方形、丸形、三角形など狭間(さま)が開けられているなど、臨戦態勢の固い備えがある。
 姫路城は不戦、不焼の城と言われ、長い歴史の中で一度も戦や火災に遭わず、第2次世界大戦の空襲の被害も受けておらず、平成5年(1993)にはユネスコの世界文化遺産に登録された。

千姫(弘経寺 蔵)

(写真は 千姫(弘経寺 蔵))


 
白鷺城の美  放送 4月1日(火)
 白漆喰総塗籠式の壁と入母屋屋根、唐破風(からはふ)、千鳥破風の組み合わせで、豪壮かつ繊細な美しさを見せているのが国宝・姫路城。大天守や西小天守、東小天守、乾小天守がそびえる優美な姿が、シラサギが翼を広げて飛ぶ立つ姿を思わせることから白鷺(はくろ)城とも呼ばれている。その異名にふさわしく城郭の細部にいたるまで、意匠の美が凝らされている。
 二の丸への正門とも言える菱の門の扉には、強度を持たせるための鉄板や鋲などの金具が、面白い模様を描き出している。この門は城内で唯一、桃山様式の門で、禅寺ではよく使われる様式だが、城郭では珍しいと言う。

菱の門

(写真は 菱の門)

大天守

 天守の唐破風や千鳥破風、入母屋破風、切妻破風が調和よく組み合わされ、破風に取りつけられた懸魚(げぎょ)がアクセントをつけ、天守を一層美しく見せている
 また天守や櫓(やぐら)、門などの窓も火打窓、堅格子窓、連格子窓、出格子窓など、さまざまな様式の窓が取りつけられ、調和の妙とリズミカルな美しさを描いている。襲撃してくる敵を弓矢、鉄砲で狙うための壁や塀には、狭間(さま)と呼ばれる小窓が配列されている。形は長方形、正方形、三角形、丸形などいろいろな形があり、長方形と正方形は矢狭間、丸や三角は鉄砲挟間と言われ、いずれも防御と言う城本来の機能が創出した美である。

(写真は 大天守)

 大天守や櫓を支える石垣も美しい。姫路城で一番高い帯の櫓の石垣は約25mあり、扇を開いたような形の曲線を描いている。下部が緩く上部は垂直に近い傾斜の曲線となっており、上部からの圧力に耐え、敵がよじ登ってくるのを防ぐ役目を果たす。石垣の石にも灯籠の石や五輪塔、宝篋(ほうきょう)印塔の石が使われたり、貧しい老婆が寄付した石臼は「姥(うば)が石」と呼ばれて名物になったいる。
 大天守から見る小天守や櫓などの屋根瓦も美しい。特に西の丸の化粧櫓と渡櫓の屋根瓦に施された、白の目地漆喰のコントラスの美しさは、眺める人の目を釘づけにする。

挟間

(写真は 挟間)


 
赤レンガの美術館  放送 4月2日(水)
 姫路城の東で天守閣を肩に乗せたような景観を作り出している赤レンガの建築は姫路市立美術館。白鷺(はくろ)城と呼ばれ、白の総漆喰塗籠めの城郭と赤レンガ造の建物が違和感を抱かせずに眺められる。
 明治時代以降、姫路城の一帯は陸軍の軍用地となり、明治時代末から大正2年(1913)にかけて、陸軍第10師団の兵器庫や被服庫などが建設された。美術館本館は明治38年(1905)に建設されたと言う兵器庫で、北館は大正2年に建設された。軍用施設として建設された建物だけに、レンガを接着するセメントには良質のものが使われていたので、今も現役で使用することができた。

姫路市立美術館

(写真は 姫路市立美術館)

窓

 この赤レンガ建築は戦後の昭和22年(1947)から昭和55年(1980)までは姫路市庁舎として利用された。市庁舎移転後、外観を保存しながら内部に新しい構造体を作って、文化施設に再生しようと改修工事が施され、昭和58年(1983)に美術館としてオープンした。
 この建物がかつては陸軍の兵器庫だったとは思えないほどの変身ぶりで、窓などのデザインも軍の兵器庫だったとは思えないほどシャレたデザインで、昔日の面影はない。だが屋根裏にはキャットウオークと呼ばれる台形の板廊下や鞍など馬具を吊るしたと見られる鉄棒など軍施設の名残がある。

(写真は 窓)

 郷土ゆかりの美術作品と主に近現代美術作品を展示する館内は、落ち着いた照明とゆったりとしたレイアウトのギャラリーで美術作品が鑑賞できる。約1700点を超える収蔵品は、ベルギーの画家・ポール・デルヴォーの作品のほか、ピカソ、ムンク、ロダンや兵庫県ゆかりの洋画家・小磯良平、版画家・横尾忠則らの作品もある。これらの収蔵品は常設展示室、企画展示室で順次展示されている。
 広々とした前庭にはブルーデル作の「モントーバンの戦士」「うずくまる浴女」や山本常一作の「袋もつ鳥」「夜の宴」など13点の彫刻作品が点在し、貴族の邸の庭園のような雰囲気となっている。

花咲くプラムの木(カミーユ・ピサロ/1889年)

(写真は 花咲くプラムの木
(カミーユ・ピサロ/1889年))


 
武の伝統技術  放送 4月3日(木)
 姫路市のシンボルで白鷺(はくろ)城と呼ばれる国宝・姫路城は、瓦や漆喰塗りなどの修理をする職人、戦国時代から江戸時代にかけて武士たちの武具を製作してきた職人たちが支えてきた。これら職人たちの技術は21世紀の現代にも生き続けている。
 現在の姫路城が完成してから約400年。その間、風雪から城を守ってきたのは良質の本瓦。天守閣や内曲輪などの建物の瓦の総数は35万枚を超えると言う。これらの瓦の一枚、一枚には、それぞれの時代の瓦職人たちの技が込められ、総漆喰塗籠めの白とマッチした美しさを保っている。

小林伝統製瓦

(写真は 小林伝統製瓦)

姫革 白なめし 革細工(キャッスル・レザー)

 姫路市の北部にある小林伝統製瓦は明治41年(1908)創業、古来の技を継承した熟練職人たちが時間をかけての手作業で瓦を焼いている。鬼瓦、鯱(しゃち)、鴟尾(しび)の製作、復元を手がけ、姫路城はもとより二条城、法隆寺、四天王寺のほか全国の有名な城、古社寺の仕事を請けてきた。
 2代目当主・小林平一さんは、昭和31年(1956)から始まった「姫路城昭和の大修理」の際の瓦製作に当たり、多くの瓦を製作した。この時、大天守で貞享4年(1687)製作の鯱瓦が見つかり、3代目・小林義一さんと共同でこの鯱瓦の複製を製作、姫路城近くの武蔵館の玄関前に飾られている。

(写真は 姫革 白なめし 革細工
                       (キャッスル・レザー))

 また昭和の大修理の際に大天守の壁の中から、池田輝政が築城した当時のものと見られる揚羽蝶(あげはちょう)紋瓦と桐紋瓦が見つかったが、どのようなところに使われたか不明なため「幻の瓦」と呼ばれた。この幻の瓦も4分の1に縮小した複製品を義一さんが作り、姫路の土産品として販売している。
 戦国武将の鎧兜(よろいかぶと)や馬具に装飾用として用いられた皮革を加工する技術は、江戸時代の泰平の世になると煙草入れなどの細工物に用いられるようになった。こうした技術が「姫革・白なめし革細工」として今も姫路市で継承されており、バッグや小物入れ、インテリア用品などに生かされている。

色塗り

(写真は 色塗り)


 
油菓子・かりんとう  放送 4月4日(金)
 徳川幕府は5代将軍・綱吉の時代になると、税収が増えない半面、出費ばかりがかさみ財政は破綻の兆しをみせてきた。さらに金貨に銀、銅、錫などを混ぜた貨幣を発行したため貨幣価値が下がり、物価が上昇して幕府の財政は破綻状態になった。
 幕府の経済政策の失敗によるインフレで、各藩の財政も悪化して窮乏の一途をたどった。姫路藩でも文化5年(1808)に73万両(現在の貨幣価値で約440億円)の負債を抱え、倒産寸前に追い込まれていた。藩主・酒井忠道の命によって家老・河合道臣(寸翁)が財政改革に乗り出した。

河合寸翁

(写真は 河合寸翁)

姫路油菓子

 河合は藩財政建て直しのために徹底的な質素倹約を呼びかけ、さまざまな産業を奨励して増収を図った。藩士や庶民には贈答をひかえ、綿の衣類の着用、年忌法事は一汁一菜、慶事は肴一品など、生活面でも引き締めを図った。各地に米麦を保管する蔵を設けて凶作や緊急時の食料にあて、農民が安心して農業に専念できるようにした。
 姫路木綿を江戸で売る専売権を幕府から得て利益を上げる一方、皮革、塩、鉄製品も藩の専売特産品として販売したほか、港湾の整備、新田開発などを積極的に進めた。また長崎出島へ藩士を派遣して、ヨーロッパの油菓子の製造技術の習得を命じた。

(写真は 姫路油菓子)

 この油菓子製造技術を習得した藩士が、その製法を城下町で広め、これが姫路の特産駄菓子の「油菓子・かりんとう」となり、今も全国シェア60%を占めている。昭和時代初期までは市内博労町に駄菓子業者が軒を連ねるほどのにぎわいを見せていた。
 博労町の一角で今も「油菓子・かりんとう」を手作りしているのが金岡忠善さん一家。生地を幅1cmほどに切りそろえてねじり、油で揚げて冷まし、黒砂糖をたっぷり絡めてできあがったかりんとうは、コンビニでは買えない懐かしい味わいがある。昔から変わらぬ手作りなので、一日に2000個作るのがやっとだと言う。

金岡製菓

(写真は 金岡製菓)


◇あ    し◇
姫路城JR山陽線、山陽電鉄姫路駅下車徒歩15分。
JR山陽線、山陽電鉄姫路駅からバスで姫路城大手門前
下車すぐ。 
姫路市立美術館JR山陽線、山陽電鉄姫路駅下車徒歩20分。
JR山陽線、山陽電鉄姫路駅からバスで国立病院・美術館前
下車すぐ。 
小林伝統製瓦JR播但線溝口駅下車徒歩30分。 
キャッスル・レザー(白なめし革細工)
JR山陽線、山陽電鉄姫路駅からバスで又坂下車徒歩20分。
かりんとう販売ヤマトヤシキデパート姫路店
JR山陽線、山陽電鉄姫路駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
姫路市観光交流推進室079−287−3652 
姫路市観光協会079−221−2512 
姫路フィルコミッション079−222−2285 
姫路城管理事務所079−285−1146 
姫路市立美術館079−222−2288 
小林伝統製瓦079−232−0011 
キャッスル・レザー(白なめし革細工)
079−335−2421
かりんとう販売ヤマトヤシキデパート姫路店
079−223−1221

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会