月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・若狭町 

 若狭町は平成17年(2005)3月、三方町と上中町が合併して誕生した新しい町。若狭は縄文時代から高い文化と技術を持った人びとが住み着き、古くから開けた地域で、大陸の文化を受け入れる日本海の玄関口でもあった。こうしたことから日本でも有数の遺跡や古墳群が存在し、貴重な遺物が出土して注目されている。今回は古代遺跡の中心地・若狭町を訪ねた。


 
縄文文化を今に  放送 4月14日(月)
 若狭湾沿岸の三方湖のほとりの鳥浜貝塚は、縄文時代草創期〜前期(13000〜5500年前)を中心とした遺跡で、昭和37年(1962)から24年間、10次にわたって発掘調査が行われた。その結果、極めて良好な状態で埋蔵していた丸木舟などの木製品、漆製品、縄、編み物、動植物遺体など、多くの遺物が出土した。鳥浜貝塚近くのユリ遺跡からも丸木舟などの遺物が出土している。
 鳥浜貝塚にほど近い若狭三方縄文博物館[DOKIDOKI館]は、多くの人に縄文文化に関心を持ってもらい、縄文時代を通じて今の時代を見つめ直そうと平成12年(2000)に開館、これらの出土物を展示している。

若狭三方縄文博物館

(写真は 若狭三方縄文博物館)

杉株(縄文時代中期〜後期)

 縄文時代をテーマにした博物館は全国でも珍しい。博物館の外観は土偶の胎内ををイメージしたデザインで、建物の一部が外部に露出しているほかは土で覆われ、芝生が植えられている。
 館内に入って目を引くのが「太古の森」コーナーに展示されている縄文時代の杉の大株。町内気山地区の埋没林から出土したもので、幹の直径が1.5m以上、根の張りは5m以上あったと見られる。この地域には杉を中心とした森が生い茂っていたようだ。「土器の径(みち)」コーナーには、三方五湖周辺から出土した縄文土器を中心に、全国各地で出土した縄文土器を借り受けて展示している。

(写真は 杉株(縄文時代中期〜後期))

 「森と海・湖の文化」のコーナーのメインは丸木舟。鳥浜貝塚から2艘、ユリ遺跡から9艘、合わせて11艘の丸木舟が出土している。展示されているのは保存処理をしたユリ遺跡出土の丸木舟。またユリ遺跡の丸木舟の出土状況を型取った原寸大の模型の上にガラスが張られ、その上を歩くことができる。ほかにパプアニューギニアやブラジルなど世界8カ国の丸木舟も展示されている。石斧や杓子の柄、赤色漆塗り櫛(複製)などの木製品、縄文文化のシンボルとも言える縄、ゴザ状の編み物などの展示物から縄文時代の高度な技術がうかがえる。
 博物館周辺の縄文ロマンパークには竪穴式住居も復元され、土器作りの体験学習もでき、古代への夢はどんどん広がる。

土器の径

(写真は 土器の径)


 
天徳寺・瓜割の滝  放送 4月15日(火)
 若狭町南部(旧上中町)の山裾に建つ天徳寺は、1300年近く前の養老年間(717〜24)に、泰澄大師が馬頭観世音菩薩像を刻んで、宝篋(ほうきょう)岳の岩洞に安置したのが始まりと伝えられる古刹。天徳元年(957)には村上天皇の勅願所となって隆盛したが、南北朝時代に兵火で堂宇を焼失するなどして一時は衰退していた。本尊を安置している本堂(観音堂)は、明治29年(1896)に焼失した後、4年後に再建された。
 泰澄大師は「越の大徳」と言われ、加賀国・白山に籠もって、白山を開いた山岳修験僧。養老6年(722)元正天皇の病気平癒を祈願し、その功績により新融禅師の号を賜っている。

天徳寺庭園

(写真は 天徳寺庭園)

瓜割の滝

 境内の天徳寺庭園は江戸時代初期の天和年間(1681〜84)の作庭とみられ、高度な作庭技術が駆使されており名園の名が高い。築山の中央に巨岩を置いて蓬莱山を象っており、手前の池には境内奥の岩間から湧き出る「瓜割の滝」の水が引かれている。
 この瓜割の滝の水は、スギやヒノキがうっそうと茂る「水の森」と呼ばれる一角から湧き出ており、夏でも氷のように冷たく、瓜を冷やしておくと自然に割れてしますので「瓜割」と呼ばれた。環境省選定の全国名水百選にも指定されており、水中の赤い石は、この水質と水温でのみ生育する珍しい紅藻類が繁殖していることがわかった。

(写真は 瓜割の滝)

 長い石段の参道を登ったところにある大師堂の周囲には、88体の石仏がずらりと並んでいる。その一体一体の前には四国八十八カ所霊場から運ばれてきた砂が納められており、この石仏にお参りすれば四国八十八カ所霊場を巡礼したと同じ功徳があるとされている。
 この石仏は江戸時代後期の文化年間(1804〜18)に住職の本如上人が、佐渡島の石工に刻ませて安置したと伝えられている。住職の使いの者が佐渡島へ石仏の注文に行くと、すでに浜辺に「若狭大徳寺行」と書かれた大幡(おおばん)とともに、88体の石仏が並べられていたとの逸話が寺伝にある。

八十八ヶ所石仏

(写真は 八十八ヶ所石仏)


 
若狭街道熊川宿  放送 4月16日(水)
 若狭と京を結ぶ若狭街道の近江との境に近い熊川は、軍事上や交通、商業上からも重要な場所であった。鎌倉時代には関所が設けられ、室町時代に入ると戦略上の要地として足利将軍直属の武士が山城を構えた。
 豊臣時代に入って豊臣秀吉の重臣で若狭領主となった浅野長政は、熊川の地が重要な要害の地であることを認め、天正17年(1589)この地の領民に諸役免除の墨付を与え、宿場町としての整備を進め熊川の発展をはかった。本税の年貢以外の雑税を免除するこの措置は、以後の領主や藩主にも引き継がれ、わずか40戸ほどの寒村だった熊川が200戸を超す宿場町へと発展した。

浅野長政の諸役免除状

(写真は 浅野長政の諸役免除状)

駒つなぎ

 浅野長政が与えた諸役免除書状、熊川宿を上り下りする荷物の記録や旅人の宿泊規制、藩主や藩士の通行、御用金の上納などを約160年間にわたって記録した34冊の御用日記が、今も熊川に残っている。
 長政が宿場町として整備を進めた時、宿場に欠かせない水を確保するため、北川と天増川の合流地点から取水した水が前川と名づけられ、宿場町の街道沿いの溝を流れている。この水は宿場町の生活用水や牛馬の飲み水、防火用水、積もった雪を流す流雪溝などとして使われてきたが、今も住民たちが速い流れを利用して水車風の芋洗い器を使って芋の皮をむいている。

(写真は 駒つなぎ)

 若狭街道は日本海の海の幸を京へ送った街道で、いつのころからか「鯖街道」と呼ばれるようになった。朝、若狭の海でとれた鯖に一塩して、40〜60kgの鯖を背負って京へ向かう。いたみの早い鯖を早く運ばなければならず、熊川宿で昼食と休憩をとると、あとは一気に夜を徹して街道を歩いて京の出町柳に至り、錦の朝市へ出したものだった。今もこの街道筋には鯖を利用した鯖寿司が、名物として観光客に喜ばれている。
 実際は鯖だけを運んだのではなくタイ、イワシ、カレイなど、多種多様な海産物が京の食卓へ運ばれた。若狭は飛鳥、奈良時代には天皇に海産物などを献上した御食(みけつ)国で、当時もこのルートが利用されたと見られている。

鯖寿司

(写真は 鯖寿司)


 
熊川宿の家々  放送 4月17日(木)
 熊川宿では古い民家の修理や景観整備がなされ、電柱や電線も見えない昔通りの宿場町風景を見せてくれている。古い民家が数多く残っている熊川宿は、平成8年(1996)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 熊川宿の町並みの特徴は、棟が街道に対して平行になっている「平入」と、棟を街道に直角に置く「妻入」の建物があり、さらに住宅の間に土蔵が建っている。また柱や軒の木の部分を表に見せる「真壁造」と、木の部分を壁の中に隠す「塗込造」があり、形式の異なる建物が混在しているが、軒の高さをそろえるなど、調和の取れた連続性を保った町並みを形成している。

熊川宿

(写真は 熊川宿)

荻野家

 2階が低い「厨子(つし)2階」の民家は古い時代の建物で、比較的新しい民家は2階が高い「本2階」の造りとなっている。厨子2階の2階部分の正面には格子状になった虫籠窓(むしこまど)が開けられている。屋根の最上部には煙抜きの「越屋根」をつけた家もある。軒下には商品を並べたり、夕涼みをしたりする「ガッタリ」と呼ばれる上げ下げのできる長いすがあったり、馬をつなぐ駒つなぎの鉄輪が残っている。
 火事の際に類焼を防ぐための袖壁卯建を取りつけている民家や表面に土を塗った「土戸」を備えている家もある。土蔵の外壁を保護するため腰の部分に瓦を張り付け、瓦の隙間を繋いだ漆喰が盛り上がりナマコのようになっていることから海鼠(なまこ)壁と言われる壁も見受けられる。

(写真は 荻野家)

 こうした特徴のある民家群のオンパレードの中で一般公開されているのが旧逸見勘兵衛家住宅。この住宅は熊川村の初代村長の逸見勘兵衛の生家で、子孫が平成6年(1994)に建物と土地を町に寄贈した。町はこの住宅の外観はそのまま保ち、内部の住みづらさを解消して古民家文化を継承しながら快適な生活ができるモデルハウスにした。
 改修の特徴は各部屋の独立性を確保する間取りに変更したり、吹き抜けにして天窓から採光して明るくし、台所も板張りにして居間を兼ねるようするなど工夫が凝らされた。こうした改修で江戸時代末期に建てられた民家が、現代生活に適するようにリフォームできることを実証した。

旧逸見勘兵衛家・居間

(写真は 旧逸見勘兵衛家・居間)


 
若狭の王の眠る谷  放送 4月18日(金)
 若狭地方は日本海の玄関口として中国大陸や朝鮮半島などから文化を受け入れ、大和朝廷とを結ぶ交通、文化の要衝の地を占めていた。こうした地域を支配した王の存在を示す巨大古墳が若狭地方には数多くあり、このうち若狭町上中地区の北川流域に5世紀から6世紀前半に造られ王の墓である古墳9基が存在している。
 上中地区の膳部(ぜんぶ)山を背にした脇袋古墳群には、かつて7基の古墳があったと言われているが、現在、前方後円墳3基と円墳2基が確認されている。この中でも上ノ塚(全長100m)、西塚(全長74m)、中塚(72m)の3基の前方後円墳は、いずれも濠をめぐらせて墳丘の表面を石で葺き、埴輪が立て並べられていた。

上ノ塚古墳

(写真は 上ノ塚古墳)

大谷古墳

 こうした大型古墳の築造形式などから被葬者の身分の高さがうかがえ、背後の山の名前と併せて古墳に眠るのは膳臣(かしわでのおみ)と考えられと、江戸時代の小浜藩の国学者・伴信友も「若狭旧事紀(くじき)」の中に記している。
 膳臣の先祖が景行天皇にハマグリのなますを献上したところ、その美味から天皇の食膳を受け持つ膳臣の姓をたまわったと日本書紀に記されている。膳臣は若狭全域を治めた王であり、大和朝廷の食事を司る御食(みけつ)国の支配者でもあった。

(写真は 大谷古墳)

 脇袋古墳群のほかに十善の森古墳(前方後円墳・全長68m)、丸山古墳(円墳・直径50m)、大谷古墳(円墳・直径22m)、上船塚古墳(前方後円墳・全長77m)、下船塚古墳(前方後円墳・全長85m)、城山古墳(前方後円墳・全長63m)などの大型古墳がある。
 こうした古墳からは大陸や朝鮮半島から渡ってきた豪華な数々の副葬品が出土しており、こうした出土品を紹介しているのが若狭町歴史文化館。十善の森古墳からは金銅製冠と履(くつ)、鏡、馬具の一部や玉などが出土しており、金銅製冠が復元されて展示されているほか、流雲文方格規矩四神鏡や鉄地金銅張双竜鈴付鏡板などを間近で見ることができる。

金銅製冠の復元品(若狭町歴史文化館)

(写真は 金銅製冠の復元品
(若狭町歴史文化館))


◇あ    し◇
鳥浜貝塚JR小浜線三方駅下車徒歩10分。 
JR小浜線三方駅からレンタサイクルで5分。
若狭三方縄文博物館JR小浜線三方駅下車徒歩20分。 
JR小浜線三方駅からレンタサイクルで10分。
天徳寺・瓜割の滝JR小浜線上中駅下車徒歩20分。 
JR小浜線上中駅からレンタサイクルで10分。
JR小浜線上中駅からバスで天徳寺下車徒歩5分。
熊川宿、若狭鯖街道熊川宿資料館・宿場館
JR小浜線上中駅からバスで若狭熊川下車。
脇袋古墳群JR小浜線上中駅下車徒歩30分。 
JR小浜線上中駅からレンタサイクルで15分。
若狭町歴史文化館JR小浜線上中駅下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
若狭町商工観光課0770−45−9111 
若狭三方縄文博物館0770−45−2270 
天徳寺・瓜割の滝0770−62−1038 
若狭鯖街道熊川宿資料館・宿場館
0770−62−0330
葛の店・まる志ん(鯖寿司)0770−62−0221
旧逸見勘兵衛家住宅0770−62−0800 
若狭町歴史文化館0770−62−2711 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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歴史街道推進協議会