月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・大阪城 

 豊臣秀吉が大坂城を築城してから2008年で425年になる。この間に悲喜こもごものドラマが大坂城で繰り広げられた。大阪市民にとっては大阪城は大阪のシンボルであり、心の支え、誇りでもある。こうした大阪城にスポットを当てて見た。なお、江戸時代までは「大坂」、明治時代以降は「大阪」の表現で統一した。


 
なにわのシンボル  放送 4月21日(月)
 大阪城天守閣は大阪のシンボルであり、浪花っ子の心のよりどころでもある。大阪発展の引き金ともなったこの大阪城天守閣だが、その裏面には悲喜こもごもの歴史が込められている。
 室町時代中期の明応5年(1496)四天王寺へ参詣した浄土真宗本願寺の第8世蓮如上人が、聖徳太子のお告げで現在の大阪城の地に一向宗の道場を創建、後にこれが石山御坊、石山本願寺へと発展した。蓮如上人の御文(手紙)に「大坂という在所に一宇の坊舎を建立した」とあり、大阪城のルーツや大阪の地名は、当時は1軒の家もなく畑ばかりだったこの地での蓮如上人の御坊建立に遡る。

石山大軍記の内「蓮如上人石山御堂草創シ玉フ」(大阪城天守閣 蔵)

(写真は 石山大軍記の内「蓮如上人石山御堂草創シ玉フ」(大阪城天守閣 蔵))

大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣 蔵)

 蓮如上人の御坊建立に始まった石山本願寺は織田信長と対立し、11年にわたって激しい攻防戦を繰り返したが、天正8年(1580)和睦が成立して一向宗の門徒たちは退去し、伽藍は炎上した。
 本能寺の変で自刃した信長の遺志を継いだ羽柴秀吉が、石山本願寺跡に天正11年(1583)大坂城の築城を始め、約16年の歳月をかけて、天下人にふさわしい豪華な障壁画や黄金の茶室、黄金塗りの屋根瓦の天守閣などの大城郭を築きあげた。秀吉没後は大坂城も斜陽の兆しが見え始め、関ヶ原の戦後の大坂夏の陣による徳川方の攻撃で豪華絢爛を誇った大坂城は落城、炎上した。

(写真は 大坂夏の陣図屏風
       (大阪城天守閣 蔵))

 大坂夏の陣から5年後の元和6年(1620)徳川2代将軍・秀忠によって大坂城の再建が始まった。秀忠は築城普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じ、10年の歳月をかけて大々的な大坂城が再築され、豊臣時代の城の面影は新城の足下の地中にすっかり隠してしまった。この徳川の大坂城天守閣も寛文5年(1665)に落雷で焼失し、以後、天守閣のない大坂城が昭和時代初めまで続いた。
 昭和天皇の即位を祝う記念事業として関一・大阪市長が天守閣再建を提案、市民の熱意による寄付金150万円が集まり、昭和6年(1931)に5層8階の天守閣が、266年ぶりに大阪の空にそびえ、以来、なにわのシンボルとしてその雄姿を誇っている。

大阪城天守閣

(写真は 大阪城天守閣)


 
徳川時代の古建築  放送 4月22日(火)
 大坂夏の陣の後、徳川秀忠によって再建された大坂城内の天守閣や櫓など、もろもろの建築物は寛文5年(1665)の天守閣への落雷をはじめとして、明治維新の動乱、さらに第2次世界大戦の米軍による空襲でその多くが焼失した。現在、残っている徳川時代の建造物は大手門、多聞櫓、千貫櫓、金蔵などわずか13棟。
 大坂城の正門である大手門(国・重文)をくぐると、門を防備する石塁による桝形が築かれ、その石塁の上の大きな多聞櫓(国・重文)に出会う。この多聞櫓は大門をまたぐ渡櫓(わたりやぐら)とそれに直角につながる続櫓(つづきやぐら)からなっており、寛永6年(1629)に築かれた櫓は、天明3年(1783)の落雷で焼失し、現在の多聞櫓は幕末の嘉永元年(1848)に再建された。

多聞櫓

(写真は 多聞櫓)

千貫櫓

 渡櫓の内部は非常に広くがらんとしており、板張りの大広間が3部屋続いている。大門の上の中央の部屋は約60畳、両側の部屋はそれぞれ約50畳で、中央の部屋には外部から見えない「槍落とし」と呼ばれる装置があり、進入してくる敵に槍を落として防ぐようになっている。
 続櫓は屋根は一段低く、内部も渡櫓と異なる。大手門に向かって銃眼を備えた板張りの廊下があり、廊下の反対側には10畳から16畳の部屋が6室並んでいる。渡櫓や続櫓の部屋はいざと言う危急の場合に、大勢の兵士たちが寝泊まりして戦に備える部屋だった。

(写真は 千貫櫓)

 大手門を北西から防御する千貫櫓(国・重文)は、元和6年(1620)に築かれた城内最古の建物のひとつ。この櫓にも進入してくる敵に備え銃眼がある。
 大盗賊の御金蔵破りは時代劇の映画や講談での話。大阪城の金蔵(きんぞう=国・重文)は徳川時代のものとして残る唯一の幕府の金庫。入口の戸は分厚い土戸、板戸、鉄の格子戸の三重。外部の壁は軒裏まで漆喰で塗り固められ、部屋の板張りの下は石畳で固められ地下からの進入を防いでいる。この金蔵には西国の直轄地からの年貢金、長崎貿易の収益金、商人らからの運上銀などが納められていた。

金蔵

(写真は 金蔵)


 
石垣と巨石群  放送 4月23日(水)
 城の天守閣や隅櫓などを支えているのが石垣。扇のような勾配で見事な曲線美を見せている石垣と天守閣や櫓などの建造物、そして堀の水が調和して美しい城郭美を現出している。
 現在の大阪城の石垣は豊臣秀吉が築城した時のものではなく、大坂夏の陣の後に徳川幕府が築城した時のものである。石垣、堀などは根底から築き直しており、石垣に使われた石はすべて花崗岩の立派な切石で、こんな大きな石をどのようにして運んだのかと思われる巨岩がふんだんに使われている。豊臣時代の石垣は本丸の地下に埋もれて眠っていることが、昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」で初めてわかった。

大坂城普請丁場割之図(大阪城天守閣 蔵)

(写真は 大坂城普請丁場割之図
    (大阪城天守閣 蔵))

石曳図屏風(大阪城天守閣 蔵)

 大阪城内堀東部の石垣は、水面からの高さが24m、水深5m、堀底から根石まで2〜3m、合わせて31〜32mとなる。最近、南外堀の5番櫓東側付近の石垣が、根石からの高さが33.5mあることがわかり、日本一の高さと言われた伊賀上野城の30mの石垣を上回ることになる。
 徳川幕府による大坂城の築城工事は、北陸、東海から九州にいたる外様大名を中心に64大名に課せられた。各大名はそれぞれ工事の分担区域が決められ、徳川幕府への忠誠心を示すために仕事を競い、積みあげた石垣の石に家紋や家印、符号、姓名などを刻印した。

(写真は 石曳図屏風(大阪城天守閣 蔵))

 大坂城の石垣に使われた石は約40万個とも言われ、その中で刻印された石は5〜6万個でその種類は2000種にのぼる。刻印は家紋、家印が圧倒的に多いが、ほかに丸や三角、サイコロの目、串団子などもあり、珍しいものではローマ字が刻まれたものがある。
 大坂城で最大の巨石は蛸石。蛸の姿が浮き出ていることから蛸石と呼ばれ、本丸入口の桜門の桝形にある。この蛸石は高さ5.5m、横の最長部が11.7m、表面積59.43平方m(36畳)ある。この蛸石に匹敵するような巨石は、桜門と二の丸大手門、京橋門付近に集中しており、この巨石はこの区域を担当した岡山藩と熊本藩が運び込んだ。

蛸石

(写真は 蛸石)


 
伝説と謎  放送 4月24日(木)
 築城425周年を迎えた大阪城では、豊臣秀吉が栄華を極めた絶頂期の後の秀吉没後は、豊臣一族滅亡の悲劇が待っていた。幕末には倒幕運動の奔流に巻き込まれた。こうした激動のドラマの舞台であった大坂城には、これらにまつわる多くの伝説や謎を生んできた。
 本丸北側の山里丸は、秀吉が茶を楽しむために設けた風雅な場所で、閑静な山里の趣を出すためにマツやサクラ、フジなどを植え、その中に数棟の草庵茶室があった。茶会を開いて懇意な人物と語り合ったり、賓客の接待や密談の場所として大いに活用したようだ。

山里丸

(写真は 山里丸)

「淀殿と秀頼」大坂冬の陣図屏風(肉筆模写・大阪城天守閣 蔵)

 大坂夏の陣で落城の際、自害の場所と機会を失った淀殿、秀頼母子が山里丸に移り、ここで自刃したと伝わり、今は「豊臣秀頼、淀殿ら自刃の地」の石碑がひっそりと立っている。徳川幕府が大坂城を再建した時には茶室は再建されず、城中警備の山里加番小屋(官舎)が建てられた。
 本丸南側の空堀の両端の水堀との境目付近に不思議な石組みがある。高さ1.5m、幅2mほどで、内部は空洞になっており、大人が背をかがめてやっと通れる。石組みの両端は二の丸と本丸の石垣に食い込んでいるため、本丸から二の丸への抜け穴ではないかと推測されている。ほかに水抜き説だとか土留説があるが、いずれも決定的な裏付け資料はない。

(写真は 「淀殿と秀頼」大坂冬の陣図屏風
      (肉筆模写・大阪城天守閣 蔵))

 南外堀西側の六番櫓そばの南面する石垣の中腹、水面から6m、石垣の上から15mのところに石1個分の穴が空いている。昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」の際に発見されたもので、約90cm角の穴が奥の方へ続いていたようだ。
 「謎の抜け穴か」など、いろいろな推測を呼んだが真相はわからない。この石垣を担当したのは筑後・柳川藩だったが、築城した徳川幕府にも柳川藩にもこの謎を解く資料は存在しない。こうした大坂城の伝説や謎を解き明かす確たる文献がなく、歴史ロマンの謎解きをしながら現代の大阪城で遊ぶのは楽しいかもしれない。

本丸空堀

(写真は 本丸空堀)


 
描かれた大坂城 
写された大阪城 
放送 4月25日(金)
 なにわのシンボルであり、日本の歴史の舞台として重要な役割を果たしてきた大阪城は、築城以来さまざまな人びとによって屏風絵や名所風景画、絵図などに描かれたり、写真機が登場してからはさまざまな角度から撮影されてきた。
 大阪城天守閣3、4階展示室で「描かれた大坂城・写された大阪城」展が2008年5月6日まで開催されており、貴重な資料126点が展示されている。大阪城天守閣は今回の展示品のほかに膨大な作品や資料を所蔵しており、その所蔵品の中から貴重なものや興味深いものを紹介した。

浪花百景「川崎ノ渡シ月見景」歌川芳雪 画(大阪城天守閣 蔵)

(写真は 浪花百景「川崎ノ渡シ月見景」
歌川芳雪 画(大阪城天守閣 蔵))

モンタヌス「日本誌」より

 浪花の代表的な名所を大坂の浮世絵師が描いた「浪花百景」が江戸時代末期に出版された。その中で歌川国員(くにかず)が「筋鐘御門」「天満ばし風景」「錦城の馬場」、歌川芳雪(よしゆき)が「川崎ノ渡シ月見景」で大坂城を描いている。「筋鐘御門」は京橋口近くで今はない三の丸に通じる筋鐘御門と堀、石垣を描き、「天満ばし風景」は天満橋上から大坂城を望み、「錦城の馬場」は城の西の馬場と呼ばれた場所から天守閣を遠望している。
 「川崎ノ渡シ月見景」は、現在の造幣局のあたりの川崎村から大川の対岸の備前島とを結ぶ川崎の渡から、上流に備前島橋、寝屋川に架かる京橋の向こうの満月の大坂城を望んでいる。

(写真は モンタヌス「日本誌」より)

 来日したことがない17世紀のオランダ人牧師・モンタヌスが、自著「日本誌」にヨーロッパに渡った大坂城絵図をもとに描いたと見られ大坂城図を掲載している。「大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見」が、絵入りロンドンニュースに掲載された。慶応3年(1867)に大坂城本丸御殿大広間で徳川慶喜とイギリス公使ハリー・パークスの会見を描いたもので、この時、兵庫開港問題などの交渉が行われていた。
 幕末には日本にも写真機が登場し、大坂城が写真に収められている。蛸石や人面石、大手門、太鼓櫓など城内を写したものや城の外観を写したもので、原板6枚が大阪城天守閣、49枚が宮内庁書陵部に保存されている。

大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見「絵入りロンドンニュース」より

(写真は 大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見「絵入りロンドンニュース」より)


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