月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良市 

 奈良市の中心部から世界遺産の春日山原始林の中を通り抜け、剣豪の里・柳生へ通じるのが柳生街道。多くの剣豪や武芸者が通り、牛馬の背に米や薪、炭を乗せて奈良へ運び、日用品を柳生へ持ち帰った道でもある。この街道沿いには多くの史跡や社寺、石仏があり、柳生の里には柳生新陰流の柳生家にゆかりの史跡が多い。今回は柳生街道をたどりながら柳生の里へと歩を進めた。


 
柳生街道  放送 5月12日(月)
 奈良市の春日山と高円山(たかまどやま)の谷あいを通る道は、約18km離れた柳生の里へ通じ、柳生街道と呼ばれている。世界文化遺産に登録されている春日山原始林の中を通り、途中には柳生街道随一の名刹・円成寺(えんじょうじ)がある。現在はハイキングコースとなっており、休日は自然の中に憩いを求めるハイカーでにぎわうが、古くは修行僧や柳生の道場を目指す武芸者が歩んだ道である。
 昔の柳生街道の風情が残っているのが、春日山原始林内の滝坂道のしっとりとぬれた石畳の道。大雨が降ると道沿いを流れる能登川の水が道にあふれてしまうため、柳生藩が奈良奉行に石を敷かせたと言われている。

能登川

(写真は 能登川)

朝日観音

 この滝坂道沿いでは石に刻まれた数々の磨崖仏や石仏に出会う。奈良の市街地から歩を進めると、まず大日如来像が刻まれた石が山腹から転がり落ちたと言う「寝仏」に出会う。続いて夕日を受けた輝く「夕日観音」、差し込む朝日を真っ先に浴びる「朝日観音」、荒木又右衛門が試し切りをしたと言う「首切り地蔵」、大仏殿建設の石材を取った跡に20体の石仏が彫られた「春日山石窟仏」、4畳半ほどの洞窟に6体の仏像が線刻された「地獄谷聖人窟」などが点在している。
 こうした石仏は石を切り出した石工たちが刻んだとか、岩窟で修行していた山伏や修行僧が彫ったとか言われているが、信仰心の篤さがこうした石仏群を造仏させたのであろう。

(写真は 朝日観音)

 石仏群を拝観しながら滝坂道を過ぎると石切峠。柳生へ向かった旅人は必ずここで一服した江戸時代から続く峠の茶屋が今もある。昔風の佇まいが往時をしのばせる茶屋の鴨居にかけられた鉄砲や槍は、柳生道場を目指した武芸者が飲み代のカタに置いて行ったものだと言う。
 峠の茶屋を後に茶畑が続く山あいの集落を過ぎ、誓多林、大慈山、忍辱山、菩提山など、釈迦の仏道修行にちなむ地名の多い山道を歩むと名刹・円城寺にたどりつく。さらに大柳生の里、阪原の里の集落を過ぎれば、目指す柳生の里はもうすぐ。

峠の茶屋

(写真は 峠の茶屋)


 
忍辱山円成寺  放送 5月13日(火)
 奈良市の忍辱山(にんにくせん)と言う地に忍辱山円成寺(えんじょうじ)がある。忍辱とは仏教の菩薩行六波羅蜜の布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若のひとつで、いかなる心身の苦悩も耐え忍ぶ修行を指す。円成寺の創建は聖武、孝謙両天皇の勅願によって、鑑真和上の弟子で唐僧の虚滝(ころう)和尚の開創との説などがあるが、史実的には平安時代中期の万寿3年(1026)の命禅(みょうぜん)上人の開基と言うのが妥当とされている。
 その後、迎接(こうしょう)上人が阿弥陀堂を建て阿弥陀如来像を祀り、仁平3年(1153)京都・仁和寺の寛遍(かんぺん)僧正が東密(真言密教)の一派忍辱山流を始めて円成寺の基礎を築き、寺運は隆盛となった。

本尊阿弥陀如来坐像

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像)

大日如来坐像

 本堂(国・重文)の本尊・阿弥陀如来座像(国・重文)は、九重の蓮華台座に座る半丈六座像。本尊が安置されている内陣の四本柱には、紫雲に乗って楽器を奏でながら阿弥陀如来の世界から迎えに来ている聖衆来迎二十五菩薩像が極彩色で描かれており、この来迎図を眺めていると心が安らぎに満たされる。
 多宝塔の本尊・大日如来座像(国宝)は像高98.8cmの桧の寄木造。大正10年(1921)の修理の際に、台座蓮肉部天板裏から運慶真筆の墨書銘が確認され、20歳代の運慶が11ヶ月をかけて造仏した会心の作とされ、日本彫刻史上でも評価の高い仏像と言われている。

(写真は 大日如来坐像)

 本堂の東にある円成寺の鎮守社・白山大権現を祀る白山堂と春日大明神を祀る春日堂はいずれも国宝で、全国で最も古い春日造社殿である。この二つの社殿は安貞2年(1228)の春日大社造営の際に、当時の春日大社宮司・藤原時貞が旧社殿を拝領して円城寺に移築した。
 楼門(国・重文)前に広がる池を中心とした庭園は、寛遍僧正が真言密教の教義を基調に築造した庭で、浄土式庭園を基礎に寝殿造系庭園の舟遊式を兼ね備えた名園として知られ、平安時代庭園の貴重な遺構とされている。この庭園を中心に四季折々の自然の景色が、寺を訪れる人を楽しませている。

春日堂(左)・白山堂(右)

(写真は 春日堂(左)・白山堂(右))


 
大柳生の氏神  放送 5月14日(水)
 奈良市の中心部から柳生へ通じる柳生街道のほぼ中間にある、円成寺(えんじょうじ)から田園地帯や雑木林を抜けた約1.8kmほどのところに大柳生の里がある。
 この集落のこんもりと木々が生い茂る森の中の夜支布(やぎゅう)山口神社は、大柳生の氏神様で素戔嗚命(すさのおのみこと)を祀っている。本来は山の神として信仰されていたが、雨乞いの水の神としても信仰されるようになったと伝えられている。この神社は現在地の東にあったが、現在、摂社となっている立磐(たていわ)神社の境内地に移されたとの記録にあり、旧社殿地は今は水田となっている。

大柳生町

(写真は 大柳生町)

夜支布山口神社

 山口神社には「回り明神」と呼ばれる古い祭祀の慣習が伝わっている。1年交代の当屋(とうや)と呼ばれる家が自宅で祭神の分霊を祀る。当屋の当主は回り明神を祀った部屋を女人禁制にしてひとりで寝起きし、穢れの場には出入りせず、旅にも出ず、肉類も口にしない精進潔斎の日を1年間送る。
 8月17日の夜には、当屋の庭で奈良県指定無形文化財の太鼓踊りが分霊に奉納される。8人の踊り子が背にヒノキをかんなで薄く削って作ったシナイ(幣)をつけ、胸にかんこ(鼓太鼓)をつり、笛、太鼓、鉦と歌に合わせて踊る。この踊りは700年以上も続いているもので、地域の青少年が太鼓踊りの担い手となっている。

(写真は 夜支布山口神社)

 境内に鎮座する摂社・立磐神社は、社殿の裏にある巨石が本来の御神体だった。夜支布山口神社が移されてきたが、江戸時代中期までは立磐神社が本社で山口神社が若宮だった。明治時代初めに山口神社を本社とし、立磐神社を摂社としたとの記録がある。
 立磐神社の現在の社殿(国・重文)は、春日大社の社殿が造り替えられた時に第四殿を江戸時代中期の延享4年(1747)ここへ移築した。大柳生は昔、春日大社の神領で、大社の祭礼などの奉仕や神饌(しんせん)などを供える神戸(かんべ)であって、春日大社と深いつながりから社殿を譲り受けたようだ。

立磐神社

(写真は 立磐神社)


 
阪原の仏様  放送 5月15日(木)
 柳生街道を柳生へ向かって進み、柳生の手前でのどかな山里の風景が広がる奈良市阪原。かつてこの地にはインドから来た恵智、恵僧の二人の僧が、飛鳥時代直前の敏達4年(575)に眞山千坊を開き、千躰の仏像が祀られていたと言われている。
 その阪原にある南明寺はその眞山千坊の中のひとつではないかと言われているが、江戸時代中期に刊行された大和志には宝亀2年(771)に建立されたと記されている。南明寺の創建については、このように諸説があり定かでない。

南明寺

(写真は 南明寺)

釈迦如来坐像

 現在の本堂(国・重文)は素朴な建築ながら広々として重厚感があり、鎌倉時代中期から後期に建築されたとみられる。昭和12年(1937)の解体修理の際の検証で、他所から移築されたり以前の建物を改築したような形跡はなく、鎌倉時代に新築されたとみられる。
 本堂建立年代より古い本尊などの仏像が安置されている点についてはいろいろな推測がされている。インド僧が開いた眞山千坊の伝承の真偽は別として、少なくとも仏像が造られた平安時代にこのあたりに寺院が存在し、その後に南明寺へ仏像が移されたか、仏像を安置するために南明寺が建立されたとも考えられている。

(写真は 釈迦如来坐像)

 本堂には3体の仏様が祀られている。正面中央に本尊・薬師如来座像(国・重文)が安置されており、光背に造仏当時のものと見られる美しい色彩が残っている。本尊の両側に釈迦如来座像(国・重文)、阿弥陀如来座像(国・重文)が安置されており、いずれも平安時代中期から後期にかけて造仏されたものである。この3体の堂々たる如来仏を拝していると心に余裕やゆとりが満ちあふれてくる。
 このほか本尊の守護神の四天王立像や地蔵菩薩半跏像、玄奘三蔵十六善神画像、釈迦涅槃図、境内には室町時代の十三重石塔、五輪塔、鎌倉時代の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの文化財がある。

阿弥陀如来坐像

(写真は 阿弥陀如来坐像)


 
柳生新陰流  放送 5月16日(金)
 柳生新陰流の創始者・柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)の菩提を弔うために、5男・柳生宗矩(むねのり)が寛永15年(1638)沢庵和尚を開山として創建したのが芳徳禅寺。以後、柳生家の菩提寺となり、本堂には本尊・釈迦如来像を中心に左に宗矩、右に沢庵和尚の木像が安置されている。
 芳徳禅寺は明治維新後に柳生藩が廃藩となって荒廃し、明治時代末には無住となって廃寺の危機にさらされた。大正10年(1921)柳生家の後裔らが資金を寄進して本堂の復旧を図り、昭和時代初めに住職も決まって寺域の整備、建物の増築が行われ、今日の寺観を取り戻した。

芳徳寺

(写真は 芳徳寺)

柳生宗矩像

 芳徳禅寺には柳生家ゆかりの古文書や柳生新陰流の兵法書、柳生十兵衛が著した「月之抄」のほか、甲冑、刀、槍などの武具などが展示されている。寺の裏山には柳生家一族の墓所があり、柳生宗矩を中央に十兵衛、宗冬、石舟斎らの墓石が立ち、その周囲には苔むした80数基の柳生家一族の墓石が整然と並んでいる。
 芳徳禅寺のそばに柳生新陰流を教える正木坂剣禅道場があり、少年少女らも交えてけいこに励み、剣を通じて人間形成を図っている。江戸時代には剣豪・柳生十兵衛らを輩出した正木坂道場があったが、芳徳禅寺の衰退とともに姿を消した。再興された芳徳禅寺の橋本定芳住職が昭和40年(1965)に正木坂剣禅道場として復活させた。

(写真は 芳徳寺柳生家墓所)

 柳生新陰流を創始した石舟斎は柳生で生まれ、若い時から兵法や剣の修行に励んだ。奈良・宝蔵院を訪れた剣の達人として知られていた上泉伊勢守と立ち合って敗れ、伊勢守に入門して新陰流を学んだ。その中で「無刀取り」、世に言う「真剣白刃取り」を会得し、柳生新陰流の極意である「剣は人を斬るにあらず、人を活かすにあり」との活人剣を編み出す。
 石舟斎は無刀取りで刀を奪った徳川家康から指南役を請われたが、5男の宗矩を推挙した。宗矩は家康、秀忠、家光の3代の将軍の指南役を務め、柳生新陰流の活人剣を通じて徳川幕府の基礎を確たるものにした。

芳徳寺柳生家墓所

(写真は 柳生宗矩像)


◇あ    し◇
峠の茶屋 JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅下車徒歩約1時間。山道で個人差あり。 
JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで破石町下車徒歩約50分。
山道で個人差あり。
円成寺 JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで忍辱山下車すぐ。 
夜支布山口神社 JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで大柳生下車徒歩10分。 
南明寺 JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで阪原下車徒歩5分。 
芳徳禅寺 JR関西線奈良駅、近鉄奈良駅からバスで柳生下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
奈良市観光課 0742-34-4739 
峠の茶屋 0742-81-0498 
円成寺 0742-93-0353 
夜支布山口神社 0742-93-0020 
南明寺 0742-71-0805 
芳徳禅寺 0742-94-0205 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会