月〜金曜日 18時54分〜19時00分


津市 

 三重県の県庁所在地の津市は、平成18年(2006)1月に周辺の9市町村と合併して人口28万人を超す都市となった。今回は津市の中心部の北西に位置する旧芸濃町、旧安濃町、旧美里町を訪ね、宿場町や社寺、文化財などを探索した。


 
お伊勢参りの宿場町  放送 6月16日(月)
 四日市市の東海道日永の追分から分かれて、三重県を南北に通り伊勢神宮にいたるのが伊勢街道。江戸時代にはおかげ参りと言う伊勢参りが大流行したが、道行く旅人の安全を祈って街道筋に常夜灯が建てられた。

 常夜灯は夜道の安全のために一晩中灯を灯し、その中でも伊勢参宮者のためのものを参宮常夜灯と言った。津市の志登茂川に架かる江戸橋南詰の常夜灯は、安永6年(1777)に建てられたもので、津市内に現存する最古のものである。この江戸橋から北西に分岐している全長約22kmの伊勢別街道は、伊勢街道と亀山市関町の東海道関宿を結んでおり、京都方面からの伊勢参り客でにぎわった街道である。
銭掛松

(写真は 銭掛松)

椋本の大椋


 伊勢別街道の中間の芸濃町椋本(むくもと)宿の津寄りにある窪田宿北の街道沿いに銭掛松があった。旅人が伊勢神宮までの道のりを茶店の主人にたずねたところ「20日はかかる」と嘘をつかれた。旅人は「そんなに日数がかかるのでは…」と伊勢参りをあきらめ、路銀の一部をそばの松にかけ伊勢神宮に奉納、遥拝して帰った。茶店の主人がその銭を取ろうとしたところ大蛇に変身したと言う。以来、この松に銭をかけて旅の安全を願う旅人が続いたと伝えられてきた。

 椋本宿の近くに国の天然記念物に指定されている高さ18m、幹周り8m、樹齢1500年以上と言う椋(むく)の巨木があり、この巨木が椋本の地名の由来になったと言われている。

(写真は 椋本の大椋)


 幕末には椋本宿に20軒にもおよぶ旅籠(はたご)があり大変にぎわった。街道脇には「左さんくう道」と彫られた自然石の道標があり宿場町の風情を今に伝えている。椋本宿で江戸時代後期から旅籠をしていた「角屋(かどや)」は、現在も旅館業を営んでおり、軒下や旅館内に30数点の参宮講の講札が今も掲げられ、宿帳も残っている。旅館業のかたわらまちかど博物館としてこれらの資料を展示、公開しており、往時の伊勢参宮のにぎわいがうかがえる。

 椋本宿の代表的な旅籠のひとつだった「ゑびすや旅館」は現在は営業していなないが、門の脇に旅人の足洗い用井戸、中庭に洗面用の井戸が残っている。

旅館角屋

(写真は 旅館角屋)


 
石山観音  放送 6月17日(火)
 津市の最北端、亀山市関町に近い芸濃町楠原から南西の山中に入ったところに、石山観音と呼ばれる40数体の磨崖仏を刻んだ丘陵がある。標高160mほどのこの石山の切り立った面に西国三十三カ所観音霊場の33体の磨崖観音菩薩像や磨崖阿弥陀如来像、磨崖地蔵菩薩像などが刻み出されており、この一帯は石山公園として整備され、磨崖仏を巡拝する巡礼路が設けられている。

 石山観音の磨崖仏は鎌倉時代末ごろから造り始められ、長い年月をかけて逐次彫り出され、それぞれの磨崖仏は大きさや姿、表情が異なっており、個性的な磨崖仏として注目されている。

磨崖地蔵立像

(写真は 磨崖地蔵立像)

粉本・聖観音立像(浄蓮寺)

 石山観音の代表的な磨崖仏として磨崖地蔵菩薩立像、磨崖聖観音菩薩立像、磨崖阿弥陀如来立像があげられ、いずれも三重県文化財に指定されている。

 磨崖地蔵菩薩立像は高さ3.24mで、右手に錫杖(しゃくじょう)左手に摩尼宝珠(まにほうじゅ)を持つ通例の姿だが、穏やかに微笑んだような表情の地蔵像を下から見上げると安らぎをおぼえる。錫杖の柄の下の部分が欠けているのは風化によるもので、造仏後の長い年月がしのばれる。石山はかつてこの地域の雨乞いの霊場であり、この地蔵像は雨乞いの本尊だったと言われている。

(写真は 粉本・聖観音立像(浄蓮寺))


 磨崖聖観世音菩薩立像は像高2.52mで、幕末の嘉永元年(1848)浄蓮寺の僧・覚順が、画工に命じて奈良・唐招提寺の聖観世音菩薩像を模写させ、約3カ月をかけて彫りつけたもので、石山観音の磨崖仏群の中で造仏の年代、来歴が明らかな唯一の磨崖仏である。麓の芸濃町楠原の浄蓮寺には粉本(模写)が現存しているが非公開となっている。磨崖阿弥陀如来立像は像高3.52m、台座を含めると5mにも達する巨像である。

 この石山に馬の背と呼ばれる山頂があり、ここからの眺望は素晴らしく遠くは伊勢湾、知多半島から安濃平野が一望できる。観音様に願いを祈った人びとは、この眺望に心が洗われる思いがしたであろう。

馬の背

(写真は 馬の背)


 
安らぎの仏の里  放送 6月18日(水)
 津市安濃町を南北に流れる安濃川の西に善福寺がある。室町時代末の天文年間(1532-55)には後奈良天皇の祈願所として、現在地の南西にあった正蔵院と称した七堂伽藍を誇る大寺だった。正蔵院は織田信長の兵火で焼失後、江戸時代の元禄年間(1688-1704)に現在地に再建され善福寺と改称された。

 寺宝の毘沙門天立像(国・重文)は、大きく開けた口の中は朱で彩色されている。刻眼された目を見開き、怒りの表情は迫力に満ちている。この毘沙門天像は正蔵院の本尊だったが、伽藍焼失後は長い間土蔵に安置されており、明治8年(1875)やっと善福寺境内に毘沙門堂が建立されて祀られた。


毘沙門天王立像(善福寺)

(写真は 毘沙門天王立像(善福寺))

十一面観音立像(普門寺)


 津市芸濃町北部にある普門寺は、平安時代初めの大同元年(806)伝教大師・最澄の開創と伝えられている。戦国時代の天正2年(1574)に滝川一益の軍に焼き払われ、江戸時代の享保7年(1722)再建されて普門寺と改称された。

 寺には本尊・十一面観音立菩薩像、聖観音菩薩立像、大日如来座像、阿弥陀如来座像、釈迦如来座像の5体の仏像群が内陣に祀られている。釈迦如来座像を除いていずれも平安時代の仏像で、中央に最も大きな大日如来座像が安置され、その左右に4体の仏像が安置されている。仏像の配置や像の大きさなどから、大日如来座像は本尊だったのではないかとの説もある。

(写真は 十一面観音立像(普門寺))


 普門寺を訪れこれらの仏像群を拝観した人たちは、仏様の穏やかな表情にホッとするのではないだろうか。だがこの仏様は戦国時代に寺が焼失した時に何とか焼失はまぬかれが、140年あまりも仮安置所に安置されていた。火災の際に破損した部分も修理され、享保7年再建された本堂にやっと祀られた。本堂の鏡天井には雲龍が描かれており、拝観した人たちの心に何かを語りかけているようだ。

 芸濃町の椋本宿の近くの芸濃郷土資料館には、この地方で使われていた民具や農具、縄文時代の遺跡から出土した出土品など、歴史資料や文化財資料が展示されている。

大日如来坐像(普門寺)

(写真は 大日如来坐像(普門寺))


 
安濃の古墳群  放送 6月19日(木)
 津市の内陸部の安濃町には大小の古墳が点在する大古墳群がある。古墳が集中している丘陵地帯には弥生時代中期の竪穴住居跡も出土しており、安濃川流域のこの地方が早くから開けていたことを物語っている。

 古墳群の北部の大名塚(おおなづか)古墳は、6世紀後半に築造されたもので、直径23m、高さ4mの円墳で横穴式石室が残っている。出土した土器の形から6世紀後半に1人目が葬られ、6世紀末に2人目が葬られたと見られ、この地域を治めていた豪族の墓と推定されている。

大名塚古墳

(写真は 大名塚古墳)

須恵器器台と広口壺(津市教育委員会蔵)


 古墳群南部の安濃町妙法寺の通称「平田山」の丘陵に築かれた平田古墳群は、5世紀後半から7世紀後半にかけて築造された78基にのぼる円墳がある。昭和49年(1974)と昭和61年〜62年(1986-87)の2回にわたる発掘調査の結果、5世紀中期から7世紀末までの長期にわたって造営された古墳群であることが判明、須恵器や土師器、刀剣などが出土している。 

 この古墳群の中に竪穴系横口式石室やレンガ状の石材を積み上げた磚槨(せんかく)式横口式石室の古墳があり、これらの石室の形態から渡来系人の古墳ではないかと見られている。

(写真は 須恵器器台と広口壺
(津市教育委員会蔵))


 平田古墳群の北、大古墳群のほぼ中央部に、昭和24年(1949)津高校地歴部の古墳見学の際に発見された明合(あけあい)古墳群がある。

 明合古墳群の主墳は5世紀末に築造された1辺約60m、高さ10m、全長81mの方墳で、南北に造り出し部がある。この特異な形の古墳は「双方中方墳(そうほうちゅうほうふん)」と呼ばれ、安濃川流域で最大級の首長の墓とみられており、全国的にも珍しい古墳とされている。周囲には5基の陪塚(ばいちょう)が確認されている。これら安濃町の大古墳群からの出土品の一部は安濃郷土資料館に展示されている。

明合古墳

(写真は 明合古墳)


 
伊賀街道・長野宿 放送 6月20日(金)
 戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将・藤堂高虎は、築城の名手としても知られていた。徳川家康から慶長13年(1608)に伊勢国と伊賀国の藩主に任じられ、津城と伊賀上野城を大改築した。

 藤堂は本城の津城と支城の伊賀上野城を結ぶ全長45.3kmの伊賀街道を官道として整備した。この街道には片田、長野、平松、平田の4宿場が置かれ、旅籠のほか藩主の休憩所となる公亭とか御茶屋なども設けられた。伊賀街道は伊勢から奈良、京都へ水産物が運ばれ、伊賀からは種油、綿などが津を経由して船で江戸へ運ばれた。また奈良、京都からの伊勢参りの街道としてもにぎわった。

長野宿

(写真は 長野宿)

よっぱらい地蔵


 津市美里町の長野宿は伊賀街道の宿場のひとつ。長野宿は鎌倉時代に伊勢国の中部に君臨した長野氏の城下町として発展した。南北朝時代には伊勢国の南部で勢力のあった北畠氏と覇を争ったが、後には両者とも織田信長に屈してその傘下に入った。

 この城下町は伊賀街道が整備されてからは宿場町として繁栄し、今も街道筋には往時をしのぶ商家などが残っている。宿場町の町並みを火災の延焼から守る高さ約4mの火除け土手が長野宿に残っていたが、町の近代化に伴って今はその一部を残すのみとなった。宿場町や長野城の資料などは美里ふるさと資料館に展示されている。

(写真は よっぱらい地蔵)


 長野宿の伊賀街道の近くに傾いた姿が酔っぱらっているように見える地蔵さんは、地元の人たちから「よっぱらい地蔵(おこり地蔵)」と呼び親しみ、線香の煙が絶えることがないほど信仰が篤い。宿場町の北の経ヶ峰の中腹には眼病にご利益があると言う「めなし地蔵」が祀られている。

 宿場町の北の長野神社は明治41年(1908)に周辺の大小35社の祭神を神明神社に合祀、長野神社と称した。祭神は15柱でかつて美里の地を地頭職として治めた長野氏も祭神となっている。神明造の社殿は近隣には例を見ない立派なもので、かつて美里が伊勢神宮の神領であったことを思わせる。

長野神社

(写真は 長野神社)


◇あ    し◇
江戸橋常夜灯JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅徒歩15分。 
  
銭掛松JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで銭懸下車徒歩10分。
 
椋本宿JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで椋本下車。
 
角屋旅館JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで椋本新町西下車すぐ。
 
椋の巨木JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで椋本新町西下車10分。
 
石山観音JR関西線関駅下車徒歩約50分-1時間。 
JR関西線関駅からタクシーで10分。
  
善福寺JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで今徳下車5分。 
JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで安濃岡南下車7分。
  
普門寺JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで椋本新町西下車徒歩20分 
JR関西線亀山駅からバスで安知本下車徒歩30分。
  
芸濃郷土資料館JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで椋本下車徒歩5分。 
安濃町の古墳群、安濃郷土資料館
JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで安濃下車20分。
  
長野宿JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで長野下車。 
  
美里ふるさと資料館JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで長野下車3分。 
  
長野神社JR紀勢線、近鉄名古屋線津駅からバスで長野下車徒歩5分。
  
 
◇問い合わせ先◇
津市観光振興課059-229-3170 
角屋旅館059-265-2001 
石山公園(津市観光振興課)
059-229-3170
浄蓮寺059-265-3717 
善福寺059-268-1178 
普門寺059-265-3657 
芸濃郷土資料館059-265-6000 
安濃郷土資料館059-268-5678 
美里ふるさと資料館、長野神社
059-279-3501

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
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  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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