月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市 

今週は大阪・キタ周辺を散策して、ユニークな街や由緒ある建物、歓楽街、水都・大阪の名橋などを訪ねた。


老松町から天満さんへ  放送 6月30日(月)
 大阪市の梅田新道交差点の北西角に大阪市道路元標が立っている。この道路元標は東京からの国道1号の終点、さらに下関方面への国道2号、奈良方面への国道25号、宝塚から山陰方面への国道176号の起点となっている。江戸時代の諸街道の大阪の起点は高麗橋にあったが、その後国道が整備されて、大正11年(1922)に大阪市役所前に道路元標が立てられ、昭和27年(1952)に新道路法が施行されて現在位置に移された。

 この梅田新道交差点にほど近い老松(おいまつ)通りは、約80店ほどの古美術店やギャラリーが軒を連ねる大阪一のアートストリートである。
大阪市道路元標

(写真は 大阪市道路元標)

欧州美術


 そのひとつ「欧州美術」はローマ帝国、ギリシャ時代のガラス製品から近世ヨーロッパのアールヌーボー、ドイツ・マイセンの陶磁器などとヨーロッパのガラス製品、陶磁器を中心に販売している。このほかヨーロッパ製のガラスのトンボ玉やネックレスなども店頭に並んでおり、女性なら思わず店内に入り手に取りたくなる。

 「古美術・馬屋原」は陶磁器を中心にした古美術全般をあつかっており、同じく「アート・啓」も陶磁器や古裂(こぎれ)、ガラス製品、おもちゃなどの古美術品を所狭しと並べている。両店ともゆっくりながめれば掘り出し物やお気に入りの骨董品が見つかるかも知れない。

(写真は 欧州美術)


 「ギャラリー帝塚山」は日本、朝鮮・李朝、中国、西洋の古陶磁器から民芸品、家具、ガンダーラ美術、仏教美術など、趣向を凝らした豊富な品揃えに見入ってしまう。このほかの店もそれぞれ趣向を凝らした骨董品、古美術品をならべており、蒐集家にはたまらない通りと言える。これらの商店は町おこしの一環として、毎年春と秋に「老松古美術祭」を行っており、遠方からも掘り出し物を求めて訪れる人が多い。

 老松通りは大阪天満宮への参道として人通りが多く栄えた町で、「老松」の名は大きな松の木のある老松神社が大阪天満宮境内にあったことによるもので、この神社は平成2年(1990)に天満宮に合祀された。

ギャラリー帝塚山

(写真は ギャラリー帝塚山)


 
北の新地  放送 7月1日(火)
 梅田新道の西側から四ツ橋筋までの曽根崎新地1丁目は、大阪・キタの歓楽街を代表する北の新地。夜の社交街としてまばゆいネオンが輝き、街にはクラブやバー、スナックからの酔客でにぎわっている。

 現在の北の新地の新地本通に沿って昔は蜆(しみじ)川(曽根崎川)が流れており、川の南側を堂島新地、北側を曽根崎新地と言い、あわせて通称「北の新地」と呼んでいた。明治42年(1909)の「天満焼け」と称する大火で、北の新地も焼け野原になった。火災後の復興の時に火事場の瓦礫を蜆川に捨てて川が埋め立てられ、堂島新地と曽根崎新地は陸続きとなり、現在の北新地の原形ができた。

北新地芸妓稽古場

(写真は 北新地芸妓稽古場)

お茶屋 鶴太郎


 近松門左衛門の「曾根崎心中」や「心中天綱島」にも、曽根崎新地が舞台として登場し、新地本通の中ほどに曽根崎川(蜆川)跡の碑が立っている。

 明治42年の大火から復興した北の新地の新地本通の両側には、お茶屋や芸妓置屋などが軒を連ね、700人を超える芸妓がいた。造幣局をバックに大川の屋形船の上で、三味線、太鼓ではやす芸妓の様子を写した写真も残っている。江戸時代には堂島の蔵屋敷の武士や豪商、明治時代に入ると官庁関係者や実業家らが堂島新地へ繰りだし、お茶屋などで遊んでいた。

(写真は お茶屋 鶴太郎)


 現在、西天満にあるお茶屋「鶴太郎」は昭和28年(1953)開業で、それ以前は北新地でお茶屋をやっていた。鶴太郎の女将・家原ハツさんは北新地で生まれ、お茶屋さんや芸妓さんたちを見て育ち、大きくなったらお茶屋の女将になろうと思っていたそうだ。祖父が北新地で洋食屋を営んでおり、母は洋食屋の娘だった。

 ハツさんは苦労を重ね念願かなってお茶屋を開業した。ハツさんは北新地にあった北陽演舞場で行われた「浪花をどり」のパンフレットを大切に持っている。大阪の花街の中で北新地の芸妓の心意気は「修業も気位もひとつ上と言われ、その心意気は今も受け継がれている」と、ハツさんは古い写真を見ながら当時を思い出していた。

浪速をどり番付(お茶屋 鶴太郎)

(写真は 浪速をどり番付(お茶屋 鶴太郎))


 
中央電気倶楽部  放送 7月2日(水)
 堂島川の北、四ツ橋筋の西に位置するレトロビルは、電気業界の発展とコミュニケーションを目的として大正3年(1914)に設立された中央電気倶楽部の会館。

 この会館は昭和5年(1930)に竣工した3代目の建物で、設計は当時、新進の建築家として活躍していた大阪生まれの葛野壮一郎氏。中央電気倶楽部会館のほかに葛野氏の代表作としては、今は建て替えられて姿を消した大江ビルディング、当時はユニークな建築でモダン寺として知られた神戸市の善福寺などがある。大阪市内のクラブ建築の名作としてほかに安井武雄氏の大阪倶楽部、渡辺節氏の綿業会館がある。

1階ロビー 図書室

(写真は 1階ロビー 図書室)

撞球室


 葛野氏の建築物の特徴は幾何学的な空間処理にあり、大阪の町家や会所などの古い建築物の良さを生かした「家庭の食堂と応接間の延長」との建築思想が設計に現れていると言う。

 建築家は建物の外観を最も意識するそうだ。特に立地条件に恵まれた場所に建てられる場合は、正面だけでなくすべての方向からのデザインに配慮する。中央電気倶楽部会館にもそうした意識が如実に表れている。左右非対称の建物に茶褐色で、表面を引っかいた様なギザギザ模様が縦についているスクラッチタイルの外壁が印象的である。その壁にはめ込まれたレリーフや壺飾りなども眺める人の気持ちを引きつける。

(写真は 撞球室)


 5階の大ホールは山小屋風でホール前のホワイエは開放的な吹き抜けでイタリア産大理石が使われ、床は模様を施したタイル張。3階の食堂も木の肌合いを生かした山小屋風の設計になっている。

 この建物の見どころのひとつが3階の吹き抜け。一般的には玄関から入った1階を吹き抜けにするのが常套手段だが、葛野氏は3階から4階を吹き抜けにし、さらにその上の5階も吹き抜けにしている。ほかに洋、和室の会議室からバーコーナー、食堂、すき焼きが名物のえれき亭、撞球室、図書室から理髪室まで用意されており、メンバーの親睦を最優先にしている。最近、電気倶楽部の名にふさわしく、火災防止も兼ねて厨房も含めてオール電化になった。

Barコーナー

(写真は Barコーナー)


 
造幣局  放送 7月3日(木)
 大川の右岸に面して建つ造幣局は明治4年(1871)画期的な西洋式設備を備えた貨幣鋳造所として開設され、貨幣の製造がスタートした。近代国家を建設を急ぐ明治政府は「両」から「円」へと貨幣制度を切り替え、先進諸国に劣らない貨幣製造を開始した。当時は金本位制で1円は金1.5グラムの価値があった。20円、10円、5円、2円、1円の貨幣のほかに、銀貨、銅貨で1円以下の銭、厘の補助貨幣が製造されていた。

 造幣局の創業式には右大臣(現在の総理大臣)・三条実美、参議・大隈重信、大蔵卿・伊達宗城ら政府高官のほか各国公使らも出席、大阪城内から21発の祝砲、天保山沖の軍艦「富士」や外国軍艦からも祝砲が轟いた。

明治3年銘20円金貨幣(造幣博物館)

(写真は 旧造幣寮鋳造所正面玄関)

旧造幣寮鋳造所正面玄関


 現在、使用されている500円、100円、50円、10円、5円、1円の貨幣はこの造幣局で製造されている。貨幣の製造は銅、ニッケルなどの貨幣材料を電気炉で溶解して金属の塊を造り、これを貨幣の厚さまで圧延した金属板を貨幣の大きさに打ち抜く。さらに貨幣の裏表の模様をプレスして、傷のついたものなどの不良品を除いて通貨が完成する。

 造幣局では貨幣のほかに記念貨幣、勲章、メダルなどの金属工芸品の製造、貴金属製品の品位証明をしているほか、一般からのメダルや銀杯などの金属工芸品の注文、製造も引き受けている。

(写真は 明治3年銘20円金貨幣
(造幣博物館))


 造幣局に隣接する造幣博物館には日本古来の貨幣や外国貨幣が展示され、時代によって様変わりしてきたデザインが観賞できる。豊臣秀吉が作った貨幣史上最も豪華な大判「天正菱大判」も展示されているほか、大川で発見されたユニークな形の金塊・竹流金(たけながしきん)の実物は、この博物館にしかないと言う貴重な金塊。

 道路を隔てて造幣局北側の泉布観(せんぷかん)は、明治4年(1871)に造幣局の応接所として建てられたもので、大阪で現存する最古の洋風建築で国の重要文化財にして去れている。明治天皇が命名した泉布観の「宣布」とは「貨幣」、「観」は「館」を意味する。設計は英国人のウォートルスで、英国の古典的な様式の2階建て。建物の回りにベランダを巡らせたベランダ・コロニアル形式で、文明開化当時の面影を残している。毎年春分の日前後に一般公開される。

泉布観

(写真は 泉布観)


 
堂島川の橋をめぐる  放送 7月4日(金)
 水の都・大阪は俗に「大阪八百八橋」と言われ、橋の多いことで知られている。「食いだおれ大阪」をもじり、橋の修理にたくさんの杭が必要なことから「杭だおれ橋の都」とも皮肉られていた。

 大阪市内を東西に流れる堂島川に架かる橋は、江戸時代から昭和時代にかけて架けられており、橋の目的もさまざまである。鉾流橋は大阪最大の夏祭・天神祭の宵宮に神鉾を川に流す「鉾流しの神事」に因んがつけられたもので、現在もこの橋のたもとで鉾流しの神事が行われている。架橋は比較的新しく、現在の大阪地方裁判所の前身・大阪控訴院や中央公会堂、大阪市庁舎などが建てられ、橋の需要が高まった大正7年(1918)に架けられた。
鉾流橋

(写真は 鉾流橋)

水晶橋


 数ある橋の中でも美しさがひと際めだつ水晶橋は、昭和4年(1929)に完成した堂島川可動堰。汚れが目立ってきた市中の川や堀に水を通すため、大川の流れを堰き止める河川浄化を目的として建設されたゲートで、初めは橋ではなかった。その後、橋として利用されるようになり遊歩道として親しまれている。アーチ型の美しい姿が愛され、画家やカメラマンの題材になってきた。水晶橋の名の由来ははっきりしないが、水面に映る橋上の照明灯の輝きが水晶に似ているからとの説もある。

 堂島川五橋のひとつ大江橋は江戸時代の元禄年間(1688-1704)の堂島開発によって架けられた。大江橋北詰下流には堂島米市場があり、全国の米価格を左右する日本経済の中心地だった。

(写真は 水晶橋)


 さらに下流の田蓑(たみの)橋と玉江橋も元禄年間の堂島開発に合わせて架けられた橋。田蓑橋は古代の大阪湾にあった八十島のひとつ田蓑島に由来すると言う。玉江橋は飛鳥時代の欽明天皇のころに堀江で美しい玉が見つかり、この場所を玉江と呼んだことに由来してつけられたと言われている。

 江戸時代には田蓑橋と玉江橋周辺には各藩の蔵屋敷が建ち並び、経済の中心地としてにぎわっていた。田蓑橋の南詰下流の久留米藩と広島藩の境に、枝ぶりが蛸(たこ)の泳ぐ姿に似ていた「蛸の松」と呼ばれた松があった。明治44年(1911)に枯れ、現在の松は平成12年(2000)に2代目の蛸の松が植えられた。

堂島市場跡記念

(写真は 堂島市場跡記念)


◇あ    し◇
道路元標、老松通りアートストリート、北の新地
JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄、地下鉄御堂筋線梅田駅下車徒歩10分。
JR東西線北新地駅下車すぐ。
地下鉄谷町線東梅田駅下車すぐ。
中央電気倶楽部地下鉄四つ橋線肥後橋駅下車3分。 
JR東西線北新地駅下車徒歩5分。
JR大阪駅、阪急電鉄、阪神電鉄、地下鉄御堂筋線梅田駅下車徒歩15分。
造幣局、造幣博物館、泉布観
JR環状線桜ノ宮駅下車徒歩15分。
JR東西線大阪天満宮駅下車徒歩15分。
京阪電鉄、地下鉄谷町線天満橋駅下車徒歩15分。
地下鉄堺筋線南森町駅下車徒歩15分。
堂島川の橋地下鉄御堂筋線淀屋橋駅、四つ橋線肥後橋駅、JR東西線新福島駅、阪神電鉄福島駅か             
らそれぞれ徒歩で。

◇問い合わせ先◇
欧州美術06-6367-0248 
古美術・馬屋原06-6366-2200 
アート・啓06-6364-4761 
ギャラリー帝塚山06-6363-1135 
中央電気倶楽部06-6345-6355 
造幣局、造幣博物館06-6351-5105 
泉布観(大阪市ゆとりとみどり振興局文化部)
06-6615-0657

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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