月〜金曜日 18時54分〜19時00分


米原市 

 岐阜県との県境に接する米原市には江戸時代の五街道のひとつ、中山道の旧街道が通っている。中山道は江戸から上野(群馬県)、信濃(長野県)、美濃(岐阜県)の国を経て近江(滋賀県)に入り、草津宿で東海道と合流、大津宿を経て京都・三条大橋に至る主要街道だった。今回は今も宿場町の面影を残す中山道の街道筋を訪ねた。


 
中山道・柏原宿  放送 7月7日(月)
 伊吹山山麓の柏原(かしわばら)宿は、江戸日本橋からの中山道67宿のうち60番目の宿場。美濃(岐阜県)から近江(滋賀県)に入って最初の宿場で、その長さは東西約1.4kmあり、中山道の宿場町では比較的大きな宿場だった。江戸時代中期の享保9年(1724)には戸数は475軒、人口1654人に達したが、以後は戸数、人口とも減少した。

 柏原宿には参勤交代の時に大名、公家、幕府役人、外国使節などの宿泊施設として本陣と脇本陣が置かれていたが、現在はその姿はなく絵図などから当時の建物の大きさや間取りなどを知ることができる。

柏原宿絵図(江戸初期)

(写真は 柏原宿絵図(江戸初期))

柏原宿


 柏原宿の特徴のひとつに徳川将軍が上洛する際の宿所となった御茶屋御殿があった。徳川家康と2代将軍・秀忠は柏原の土豪の邸宅を宿所にしていたが、元和9年(1623)3代将軍・家光の上洛の際に御茶屋御殿が建てられ、元禄2年(1689)に廃止されるまで66年間、将軍の宿所として使われた。

 柏原宿の街道名物だった伊吹もぐさの老舗「亀谷左京商店」は、寛文元年(1661)の創業以来、340年の歴史を持っている。街道に面して建つ現在の建物は文化12年(1815)に建てられたもので、歌川広重の「木曽街道六十九次」に店頭の風景が描かれている。往時と同じ店先で今も大きな福助人形が客を迎えている。

(写真は 柏原宿)


 柏原宿の北にそびえる伊吹山は古くから薬草の宝庫で、モグサの原料となる良質のヨモギを産していた。柏原宿でもぐさを売る店が軒を並べ、多い時には10軒を超えていたが、今は亀谷左京商店の1軒だけとなった。当時の旅には「初旅はもぐさも支度の数に入り」と川柳に詠まれたほどで、旅人たちは柏原宿でお灸をしてもらい、旅の疲れを癒したのであろう。

 こうした柏原宿の様子がよくわかる資料を展示しているのが柏原宿歴史館。国の登録有形文化財に指定されている豪壮な旧家を利用した館内には、御茶屋御殿、本陣、脇本陣の絵図、宿場の歴史を綴った萬留帳(よろずとめちょう)など豊富な資料がそろっている。

中山道

(写真は 中山道)


 
中山道・醒井宿  放送 7月8日(火)
 中山道61番目の宿場・醒井(さめがい)宿は、街道のすぐ脇を地蔵川が流れ、水中花の梅花藻(ばいかも)が清流を美しく彩っている。この流れには伊吹山麓の滋賀県と岐阜県の清流にしか生息しないハリヨと言うトゲウオ科の魚が泳いでいる。中山道を往来した旅人たちはこの清水でのどを潤し、宿場町の住民の暮らしの水となっていた。今もこの清流に咲く清楚な梅花藻を観賞しようとシーズンには観光客が訪れている。

 醒井宿には宿場を通行する大名や役人に人や馬を提供する問屋が7軒もあり、他の宿場町と比べて多かった。そのうちの1軒の問屋場の建物がそのままの形で残っており、全国的にも貴重な存在とされている。
梅花藻

(写真は 梅花藻)

西行水


 醒井宿資料館の建物(国登録有形文化財)は大正時代に建てられ、昭和48年(1973)まで醒井郵便局として使われていた洋風建築の建物で、醒井宿の歴史や庄屋に残されていた古文書などを展示している。

 あちこちから清水が湧き出ている醒井宿には、日本武尊にまつわる伝説の「居醒(いざめ)の清水」、「十王水」、西行との伝説が伝わる「西行水」の三水、日本武尊腰掛石、日本武尊鞍懸石、蟹石、影向(ようごう)石の四石を合わせた「三水四石」の名所がある。このほかにも地蔵川沿いには御堂を建てようと斧で石を割ったら水が湧き出たと言う「役行者の斧割水」、イボが取れると言う「イボ取り水」がある。

(写真は 西行水)


 西行水と呼ばれる泉には泡子塚(あわこづか)と呼ばれる石塔が立っている。西行が茶店で飲み残したお茶の泡を茶店の娘が飲んだところ、娘は妊娠して男の子を生んだ。旅の帰りにこれを聞いた西行が「汝、わが子ならば元の泡にかえれ」と言ったところ、その子はたちまち消えて泡になり、その子の供養に石塔を建てたとの伝説が残っている。

 地蔵川の水源でもあり古事記、日本書紀にも登場する居醒の清水には、伊吹山の大蛇退治に来た日本武尊が、大蛇の毒で高熱を出して正気を失い、やっと山を下りてこの地に湧く清水で体を冷やし、正気を取り戻したと言う伝説がある。居醒の名はこの伝説に由来すると言われている。

居醒の清水

(写真は 居醒の清水)


 
中山道・番場宿  放送 7月9日(水)
 番場宿は中山道62番目の宿場で、天保14年(1843)には旅籠(はたご)10軒、本陣、脇本陣がそれぞれ1軒があり、宿場町の長さは約140mで中山道の宿場の中では小規模な部類の宿場だった。当時の建物はすでになく、本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡などの石碑が立っている。

 街道近くの蓮華寺は、聖徳太子創建と伝わり元は法隆寺と称していた。建治2年(1276)落雷で焼失した後、弘安7年(1284)一向上人がこの地の土豪・土肥元頼の帰依を受けて寺を再興、蓮華寺と改称した。花園天皇の勅願寺となり、寺紋として菊の紋を下賜され今も勅使門の扉には菊の紋がある。

蓮花寺勅使門

(写真は 蓮華寺勅使門)

本尊釈迦如来立像(左)・本尊阿弥陀如来立像(右)


 蓮華寺の本尊は阿弥陀如来立像と釈迦如来立像の二尊で、いずれも鎌倉時代の作。寺が再興された時の銘がある梵鐘(国・重文)のほかに、本堂軒下に掲げられている後水尾天皇の宸筆の寺号額、一向上人画像、土肥元頼の墓と伝えられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの寺宝がある。

 蓮華寺の歴史の中で最大の事件は、鎌倉時代末期の倒幕の犠牲となった鎌倉幕府六波羅探題・北条仲時一行の境内での集団自決と言う南北朝の悲話である。寺には犠牲者の過去帳・陸波羅(ろくはら)南北過去帳(国・重文)が残っており、境内には北条仲時主従を供養する多数の五輪塔が3段に分かれて整然と並んでいる。

(写真は 本尊釈迦如来立像(左)・
本尊阿弥陀如来立像(右))


 事件は元弘3年(1333)5月9日に起こった。京都を追われた六波羅探題・北条仲時は、鎌倉へ逃れる途中で番場付近で倒幕方の地元武士に行く手を阻まれた。仲時以下430余名は蓮華寺本堂前庭で自刃、これに深く同情した当時の住職が供養の墓碑を建立し冥福を祈った。今も自刃者の後裔や関係者らで組織された「菊華会」の人たちが供養している。

 もうひとつ番場宿を有名にしたのが番場の忠太郎。長谷川伸作「瞼の母」の主人公でフィクション上の人物だが、新国劇や歌舞伎などでたびたび上演されて全国に知られるようになった。蓮華寺には忠太郎地蔵が立っている。

北条仲時主従供養墓碑

(写真は 北条仲時主従供養墓碑)


 
木彫の里・上丹生  放送 7月10日(木)
 醒井(さめがい)宿から丹生川に沿って南へ3kmほど遡った山あいに木彫の里・上丹生があり、その起源は江戸時代後期の約200年前に遡る。この地の人たちは豊富な山の木を選んで、社寺や神輿、山車の彫り物や欄間など、大小さまざまな木彫装飾を手がけ今日に伝えてきた。

 醒井宿にある醒井木彫美術館には、上丹生出身の彫刻家・森大造をはじめとする彫刻家の作品が展示されており、その木彫作品からは木と人の心の温もりが伝わってくる。美術館正面の扉には、上丹生の彫刻家20人による浮き彫りの天女像が飾られている。

醒井木彫美術館

(写真は 醒井木彫美術館)

井尻彫刻所


 当時の優れた木彫装飾師の長次郎の次男・上田勇助は14歳の時に父の命で、同郷の川口七右衛門と京都へ彫刻修業に出た。京都で12年間の修業を積んで帰郷、上丹生の成光寺本堂の欄間に雲流、神明神社本殿に唐獅子牡丹などを彫り、その作品の素晴らしさに周囲の目を見張らせた。

 二代目・勇助の時代になって長浜の浜仏壇の彫り物を手がけるようになり、その技に一段と磨きがかかり、木彫りの里の基礎が築かれた。大正15年(1926)のパリの万国美術工芸博覧会で上丹生の彫刻職人の作品が入賞し、上丹生の木彫が世界に知られるようになった。

(写真は 井尻彫刻所)


 第2次世界大戦中やその戦後は、物資不足や需要の減少で彫り物の仕事が少なくなった。生活のために手提げ袋の木の取っ手の部分を彫刻したり、杉の彫り物の表面を焼いて木目を生かした焼杉彫刻などで逆境を乗り越えた。焼杉彫刻は土産物として今も店頭に並んでおり、ほかに注文に応じて仏像や木彫作品も製作している。

 明治時代に始まった仏壇製作は上丹生の地場産業として定着した。彫刻職人のほかに仏壇製作に必要な木地職人、漆塗り職人、錺金具(かざりかなぐ)職人がそろっており、匠の技を結集した見事な仏壇を作りあげている。注文主の予算に合わせ、職人の趣向も取り入れた世界に一つしかない「ウチの仏壇」と注文主が自慢できる仏壇を作っている。

三坊彫刻所

(写真は 三坊彫刻所)


 
緑と清流の醒井渓谷  放送 7月11日(金)
 醒井(さめがい)宿から南へ丹生川を上流へ4kmほど遡った宗谷川沿いには、両岸が切り立った醒井渓谷の景勝地が続いている。春は新緑、夏は青葉、秋は紅葉と四季折々にその景色を変え、ハイキングを楽しむ人たちを楽しませている。

 滋賀県立醒井養鱒場は、霊仙山の麓から湧き出す清水と河川敷を利用した総面積19haの広大な施設。琵琶湖の特産魚のビワマスの増殖を図るため明治11年(1878)に開設された古い歴史の養殖場では、マスの稚魚の安定供給の研究を進めており、最近はバイオテクノロジー技術による肉質のよい魚の開発にも力を入れている。

醒井養鱒場

(写真は 醒井養鱒場)

ニジマス


 敷地内には36面の餌付け池、17面の稚魚池、18面の親魚養成池、12面の試験池があり、ニジマス約150万尾、アマゴ約80万尾、イワナ約40万尾が群遊する姿は圧巻で、これらの魚を間近で見学できる。ほかに古代魚やチョウザメ16尾、北海道に分布しその希少さから幻の魚と言われるイトウ19尾、醒井周辺の清流に生息する清流のシンボル魚とも言われるハリヨ約2000尾が、それぞれの専用池で飼育されている。

 本館のさかな学習館の展示コーナでは養鱒場で飼育しているニジマス、ビワマス、アマゴ、イワナが水槽で展示されており、間近で魚の生態を観察することができる。

(写真は ニジマス)


 ビデオコーナーでは養鱒場の仕事や魚の生態が学べるほか、パネル展示で淡水魚の知識が得られる。ふれあい河川では子供たちが、川の中を泳ぐニジマスなどにじかに触れることができ、元気のよい魚たちの感触が体感できる。場内の釣り池ではマス釣りが楽しめ、釣りあげたマスを買い取りその場で焼いて食べることができる。

 月に1回開かれる実験教室では魚の解剖、餌やり体験、タッチングなど体験ができる。夏休み中には「親子魚教室」が開かれ、魚を「見る」「触れる」「学ぶ」の体験を通じて魚への理解を深めてもらう。8月中ごろまでの火、水曜日にはニジマスの採卵、受精の様子が、ガラス越しながら間近で見学することができる。

稚魚

(写真は 稚魚池)


◇あ    し◇
柏原宿JR東海道線柏原駅下車。 
柏原宿歴史館、伊吹もぐさ本舗・亀屋左京
JR東海道線柏原駅下車徒歩10分。

醒井宿JR東海道線醒ヶ井駅下車。 

醒井宿資料館JR東海道線醒ヶ井駅下車徒歩3分。 

番場宿JR東海道線米原駅からバスで番場下車。 

蓮華寺JR東海道線米原駅からバスで蓮華寺下車徒歩5分。

 
木彫の里・上丹生JR東海道線醒ヶ井駅からバスで上丹生下車。 

醒井木彫美術館JR東海道線醒ヶ井駅下車徒歩10分。 

滋賀県立醒井養鱒場JR東海道線醒ヶ井駅からバスで醒井養鱒場下車すぐ。

 
◇問い合わせ先◇

米原市商工観光課0749-58-2227 

柏原宿歴史館0749-57-8020 

伊吹もぐさ本舗・亀屋左京商店0749-57-0022

醒井宿資料館0749-54-2163 

蓮華寺0749-54-0980 

醒井木彫美術館0749-54-0842 

滋賀県立醒井養鱒場0749-54-2715 


◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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