月〜金曜日 18時54分〜19時00分


赤穂市 

 忠臣蔵のふるさとであり、塩の国としても知られている赤穂市を訪ね、塩の歴史や忠臣蔵の史跡、古代から伝わる古社寺、瀬戸内海を臨む景勝地の赤穂御崎など、赤穂の魅力を探訪した。


 
塩の国  放送 7月14日(月)
 兵庫県西南に位置し、岡山県と接する赤穂は、古くから塩の産地として栄え、江戸時代には「塩の国」と呼ばれていた。赤穂の製塩の歴史は弥生時代に遡る。この時代は海水のついた海藻を焼き、塩の混じった灰をそのまま使う藻塩焼と言う製塩方法だった。

 鎌倉時代からは海水を塩浜と呼ぶ砂の上にまいて水分を蒸発させ、塩分の濃度を高める揚浜式塩田、潮の干満を利用して海水を塩浜に送り込み、海水を塩浜にまく入浜式塩田となった。製塩は江戸時代には赤穂藩の重要な財源で、手厚く保護されてきたが、その作業は過酷な重労働だった。

揚浜式塩田(赤穂市立海洋博物館 塩の国)

(写真は 揚浜式塩田
(赤穂市立海洋博物館 塩の国))

製塩作業所(赤穂市立海洋博物館 塩の国)


 昭和20年代ごろから始まった流下式塩田によって、過酷な塩田作業は軽減され、生産量も増えた。この方法は表面に粘土を張ったゆるい傾斜面に海水を流して太陽熱で水分を蒸発させ、さらに竹の小枝を組んだ枝条架に海水を流して水分を蒸発させて濃い塩水を作った。現代は工業的なイオン交換膜法による製塩方法になっている。

 赤穂市の千種川河口付近に広がっていた広大な塩田跡地は、工業用地や文教用地に転用された。その一角に誕生した赤穂海浜公園に「赤穂市立海洋科学館・塩の国」がある。

(写真は 製塩作業所
(赤穂市立海洋博物館 塩の国))


 塩の国では揚浜式塩田、入浜式塩田、流下式塩田が復元され、海水を塩浜にまく作業や塩水を煮詰めて塩を作る作業が体験できる。このほか館内には「塩のギャラリー」「ようこそ赤穂へ」「海を知ろう」の3つのコーナーがある。塩のギャラリーでは、塩作りの変遷、世界の製塩法、塩の正体、人体での塩の働き、塩の用途など、塩に関する知識が得られる。

 赤穂の塩はまろやかさな口あたりのよさが自慢で、その赤穂の塩の風味と白さを生かして、江戸時代中期の享保年間(1716〜36)に作り出されたのが塩味饅頭。赤穂藩主が赤穂土産として徳川将軍に献上して称賛され、一躍人気が高まった。

塩味饅頭(巴屋本舗)

(写真は 塩味饅頭(巴屋本舗))


 
忠臣蔵のふるさと  放送 7月15日(火)
 赤穂市は忠臣蔵のふるさととして全国的に知られている。元禄14年(1701)3月14日、赤穂藩3代目藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城での勅使饗応の指南役・吉良上野介義央の理不尽な態度に堪忍袋の緒を切り、殿中松の廊下で上野介に切りつける刃傷事件を起こした。内匠頭は幕府から即日、切腹を申しつけられ「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」の辞世を残し35歳の生涯を閉じた。

 この刃傷事件は内匠頭ひとりの問題で終わらず、家老・大石内蔵助をはじめ赤穂藩士、その家族、城下の町人たちまで巻き込む騒動へと発展する忠臣蔵の幕開けとなった。


「忠臣蔵夜討団」歌川芳虎画(赤穂市立歴史博物館蔵)

(写真は 「忠臣蔵夜討図」歌川芳虎画
(赤穂市立歴史博物館蔵))

大石内蔵助使用采配(大石神社義士宝物殿)


 大石内蔵助は内匠頭の弟の浅野大学によるお家再興、喧嘩両成敗の主旨から上野介の処分を幕府に願い出たが、その願いは受け入れられず赤穂城は明け渡しとなった。この幕府の処置に不満を持った藩士47人が、亡き主君の無念を晴らすため、刃傷事件の翌年12月14日に吉良邸に討ち入り、上野介の討ち取り本懐を遂げた。

 大石神社は大石内蔵助ら四十七義士と家庭の事情で討ち入りに加われなかった萱野三平、浅野内匠頭長矩ら浅野家三代の城主、浅野家の後に赤穂城主となった森家の先祖らを祀る神社で、大正元年(1912)に創建され大願成就の神として崇拝されている。

(写真は 大石内蔵助使用采配
(大石神社義士宝物殿))


 大石神社の義士宝物館には赤穂義士に関する遺品や資料が展示されている。内匠頭所用の小刀のほかに大石内蔵助が主君・内匠頭から拝領した愛刀、内蔵助の采配や呼子の笛、義士の愛刀、槍、内蔵助の書簡など、多くの遺品を目にすると、映画や歌舞伎で見る忠臣蔵が現実に起こった事件としての実感がわいてくる。

 赤穂藩の藩祖・浅野長直によって正保2年(1645)に創建された浅野家の菩提寺・花岳寺の墓所には、浅野内匠頭長矩と義士の墓が並んでいる。墓所の中央に主君・内匠頭、その右に大石内蔵助、左に大石主税の墓を中心に、コの字型に義士の墓があり、墓碑の法名の頭には切腹した証の「刃」の文字が刻まれている。

義士の墓所(花岳寺)

(写真は 義士の墓所(花岳寺))


 
赤穂御崎  放送 7月16日(水)
 瀬戸内海に面し播磨灘が一望できる赤穂御崎は海岸美を誇る景勝の地であり、赤穂温泉の観光旅館や企業の保養所が建ち並ぶリゾート地でもある。

 赤穂御崎海岸の岩壁の上に立つ大きな石の鳥居は、千年以上の歴史を持つ伊和都比売(いわつひめ)神社の鳥居で、延喜式にその名が記されている古社。祭神は伊和都比売大神で古くから御崎明神と称せられ、この地方を開拓した赤穂の人々の祖神、さらに瀬戸内海を守護する海神として崇敬されていた。元は赤穂御崎沖の海上に浮かぶ「八丁岩」の上に祀られていたが、江戸時代初めの天和3年(1683)初代赤穂藩主・浅野長直が現在地に移して祀った。


伊和都比売神社

(写真は 伊和都比売神社)

赤穂温泉潮彩きらら祥吉


 今も航海安全、大漁を祈願する船員や漁業関係者が多い。かつては日露戦争の日本海海戦の連合艦隊司令長官・東郷平八郎元帥をはじめ、歴代の連合艦隊司令長官の崇敬が篤く、艦隊を率いて参拝したと言う。また古くから男女の姫信仰の縁結びの神様として信仰され「姫守」を受ける人が多い。

 赤穂観光の旅の疲れを癒してくれるのが、瀬戸内海を一望にする赤穂御崎にある赤穂温泉。昭和45年(1970)に温泉を掘り当て、海岸美と合わせ「赤穂御崎温泉」として売り出した。週末には家族連れの観光客、夏は海水浴客でにぎわった。

(写真は 赤穂温泉潮彩きらら祥吉)


 しかし湯量が減少したため、新しい泉源を求めて平成12年(2000)掘削をして、地下1600mで掘り当てたのが現在の温泉で、これを機に「赤穂温泉」と名称を改めた。この温泉はミネラル分を多く含んだ食塩泉で、皮膚に塩分が付着して発汗を抑えるので保温効果が高く、温泉の三要素「塩分・成分・湯量」をすべて兼ね備えており、その優れた泉質から「よみがえりの湯」とも呼ばれている。

 湯上がりには瀬戸内海の海の幸がで舌鼓が打てる。アナゴ、カキの炭火焼き、タイの活け造りのほかにエビ、シャコなど季節に合わせた食材で心ゆくまで海の幸が楽しめ、日ごろの疲れも吹き飛びリフレッシュできる。

穴子の炭火焼(潮彩きらら祥吉)

(写真は 穴子の炭火焼(潮彩きらら祥吉))


 
大避神社  放送 7月17日(木)
 赤穂市内を北から南へゆっくり流れる千種川は、優しく穏やかな表情をしている。この清流は環境省の名水百選にも選ばれ、豊富な水量を誇るこの川は「枯れない川」として赤穂市民にも大きな恵みを与えている。

 千種川流域は中国より渡来したと伝えられている秦氏の子孫・秦河勝によって開拓されたと伝えられている。秦河勝は聖徳太子の四天王のひとりで、太子から仏像を賜り京都・太秦に広隆寺を建立したことはよく知られている。太子の死後、蘇我氏の迫害を避けて海路をたどりこの地・坂越浦にたどり着いた。その後、千種川流域の開拓を進め、この地で没したと伝えれている。

大避神社

(写真は 大避神社)

「船渡御団」江戸末期


 秦河勝亡き後、村人たちが朝廷に願い出て、祠を築き秦河勝を祀ったのが大避(おおさけ)神社の創建と伝えられている。大避神社は坂越湾を見下ろす山腹に鎮座、朝廷の崇敬を集めた。坂越が海上交通の要衝だったこともあり、航海安全、交通安全はもとより厄除けなどの災難避け守護神としても信仰されている。絵馬堂には十数枚の船絵馬が掲げられており、古いものでは江戸時代中期の明和年間(1764〜72)のものがある。

 毎年10月の第2日曜日の大避神社の例大祭の船祭は、300余年も続く勇壮な伝統行事で、瀬戸内海三大船祭のひとつに数えられ、船祭は兵庫県の有形民俗文化財、例祭は国の無形民俗文化財に指定されている。

(写真は 「船渡御図」江戸末期)


 船祭では12隻の和船が、坂越湾に浮かぶ神域の生島(いきしま)の御旅所へ、神輿を乗せた和船を中心に船歌を歌いながら巡航して渡御する。

 波静かな坂越湾に浮かぶ生島は周囲2km余の小島で、秦河勝がこの島に生きて着いたことからこの名がつけられたと言う。大避神社の神域だったので樹木の伐採、島内への立ち入りが禁じられていたため、樹木が原生林を成して生島樹林として残り、国の天然記念物に指定されている。島内には秦河勝の墓所、石鳥居の奥には白壁に囲まれた御旅所がある。祭礼船を格納する船倉は兵庫県の有形民俗文化財になっている。

秦河勝墓所(生島)

(写真は 秦河勝墓所(生島))


 
しおさいの町・坂越  放送 7月18日(金)
 赤穂市の東側に位置する坂越湾は、天然の良港として古くから栄え、江戸時代には瀬戸内海航路の中継地として廻船業が盛んになった。同時に瀬戸内海の恵まれた海の幸で漁業も盛んだった。坂越には今もこうした港町の風情が色濃く残り、往時の面影をしのばせている。

 奥藤(おくとう)家は関ヶ原の戦の翌年の慶長6年(1601)の創業以来、400年間続く造り酒屋。築後300年以上の入母屋造の建物は、西国大名の本陣にもなった格式の高い建物である。同時に建てられた酒蔵も現存し、坂越で往時の面影をよく残している町並みでもある。

坂越港

(写真は 坂越港)

奥藤家


 千種川の澄んだ水から生まれた奥藤家の銘酒「忠臣蔵」は、忠臣蔵のふるさと赤穗にふさわしい酒で、観光客らに「赤穂土産に最適」と人気がある。奥藤家は酒造りのほか大庄屋、船手庄屋も務め、金融、地主、製塩などの事業を起こすなど、地域の発展を支えてきた。

 大正時代末期に建てられた奥藤銀行の建物は、改修して坂越の町の景観創造と観光案内所を兼ねた「坂越まち並み館」として平成6年にオープンした。坂越ゆかりの品々や銀行時代に使われていたアメリカ製の巨大な金庫が展示されている。この建物の屋根裏は竹を使って仕上げた竹野地(たけのじ)と呼ばれるもので、今ではなかなか目にすることができない珍しいものである。

(写真は 奥藤家)


 旧坂越浦会所は行政や商業などの事務を執るための村会所、現代で言えば村役場のようなもので、天保3年(1832)に建てられた。入母屋造のこの建物も隣接する奥藤家の建物と相まって、伝統的建物群を形成して独特な町並みの雰囲気を醸し出している。

 この会所は赤穂藩の茶屋としての役割を持ち、2階には藩主専用の部屋「観海楼」が設けられている。藩主やその家族たちが祭礼見物や釣りなどの遊興のために訪れた際の休憩や宿泊にあてられた。その名の通り海への眺望は素晴らしく、坂越湾に浮かぶ生島や播磨灘の眺めを楽しむことができる。

観海楼(旧坂越浦会所

(写真は 観海楼(旧坂越浦会所)


◇あ    し◇
赤穂市立海洋科学館・塩の国JR赤穂線赤穂駅からバスで赤穂海浜公園前下車すぐ。
(土日、祝日のみ)
JR赤穂線赤穂駅からバスで明神木下車徒歩15分。

巴屋本舗(潮見饅頭) JR赤穂線赤穂駅下車徒歩10分。 

大石神社JR赤穂線赤穂駅下車徒歩15分。 

花岳寺JR赤穂線赤穂駅下車徒歩10分。 
赤穂御崎、赤穂温泉、伊和都比売神社
JR赤穂線赤穂駅からバスで御崎下車。

大避神社JR赤穂線坂越駅からバスで坂越港下車徒歩5分。 
JR赤穂線坂越駅下車徒歩35分。

奥藤家、旧坂越浦会所JR赤穂線坂越駅からバスで坂越港下車すぐ。 
JR赤穂線坂越駅下車徒歩30分。


◇問い合わせ先◇
赤穂市商工観光課0791-43-6839 

塩の国・海洋科学館0791-43-4192 

巴屋本舗(潮見饅頭)0791-42-2470

大石神社0791-42-2054 

花岳寺0791-42-2068 

伊和都比売神社0791-42-3547 

赤穂温泉・きらら吉0791-43-7600 

大避神社0791-48-8136 

奥藤家0791-48-8005 

旧坂越浦会所0791-48-7755 

坂越まち並み館0791-48-7770 


◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会