月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・きぬかけの路 

 平安時代の宇多天皇が真夏に「雪景色を見たい」と衣笠山に白絹をかけたと言う故事に因んで、京都市北区の衣笠山は別名「きぬかけ山」と呼ばれている。その山裾の金閣寺から仁和寺までの道を「きぬかけの路」と呼ぶ。春は桜、秋は紅葉が美しく、散策コースには最適で、沿道には名刹のほかに古都の風情があふれた店やしゃれた店が並び、寄り道をしながらの散策も楽しめる。


鹿苑寺 金閣寺  放送 9月8日(月)
 きぬかけの路の東端にあるのが京都を代表する名刹・金閣寺。臨済宗相国寺派の禅寺で、正式名称は北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)と言う。金閣寺がある衣笠山一帯が「北山(きたやま)」と呼ばれているので、これをそのまま山号にした。金箔が貼られた釈迦の骨を祀る仏舎利殿が金閣と呼ばれ、この名が有名になったので金閣寺と呼ばれるようになった。

 金閣寺は室町幕府3代将軍・足利義満が応永4年(1397)に山荘・北山殿の造営に着手、その中でも舎利殿の金閣の建築に最も力を入れ、趣向を凝らした建物にした。
舎利殿(金閣)

(写真は 舎利殿(金閣))

足利義満


 金閣は東山の銀閣とともに庭園建築を代表するもので、京都を訪れる観光客や修学旅行生たちが必ず拝観する建築物である。昭和25年(1950)放火によって焼失したが、昭和30年(1955)に復元され、昭和62年(1987)に金箔を5倍の厚さに張り替える大修理が行われ、燦然と輝く金閣がよみがえった。

 金閣の高さ約12.5mで第1層は白木の寝殿造で、法水院と呼ばれ義満像などを安置、2層は武家造で潮音洞(ちょうおんどう)と呼び、岩屋観音像と四天王像が祀られている。3層は禅宗仏殿風で究竟頂(くつきょうちょう)と呼び、仏舎利が安置されている。

(写真は 足利義満)


 「究竟頂」の扁額は後小松天皇の筆によるものだったが、現在掲げられいるのは昭和30年の復元時に複製されたもので、焼失をまぬがれた創建当初のものは別に保存されている。屋根は柿(こけら)葺きで鳳凰を戴き、2層と3層は内外ともに金箔が施されている。

 金閣の前に広がる鏡湖池(きょうこち)は、池の中に葦原島をはじめ鶴島、亀島など大小の島々、大名が競って寄進した奇岩、名石などを配している。この池に映し出される金閣の美しい姿や夕日に輝く金閣を目にした人たちは、その感動を忘れることができない。

二層潮音洞

(写真は 二層潮音洞)


北山文化発祥の地  放送 9月9日(火)
 北山文化の象徴と言われる金閣は、応永4年(1397)に室町幕府3代将軍・足利義満が造営に着手した山荘・北山殿の舎利殿。

 義満は敵対する守護らを抑え、宿願の南北朝統一を果たし、祖父・尊氏以来の室町幕府の基礎を確立した。これを機に37歳の若さで将軍職を退き、元服したばかりの9歳の義持に将軍職を譲った。翌年、出家した義満は西園寺公経の山荘跡を譲り受け、金閣を中心とした山荘の造営を始めた。北山殿が完成後、義満はこの地に移り住み、政務を行うかたわら中国・明の使節をこの北山殿に迎えたり、後小松天皇を招いて20日間にもおよぶ宴を催したりした。


夢窓国師

(写真は 夢窓国師)

陸舟の松


 義満は北山殿で和歌、管弦、猿楽などに興じ、北山文化と呼ばれる文化の花を咲かせた。また中国との貿易で手に入れた書画、銅器、陶磁器などには国宝、重要文化財に指定されている逸品が多く、北山殿は美術、工芸品の名品の宝庫となった。

 義満没後、遺言により4代将軍・義持が夢窓国師を開祖として北山殿を禅寺に改め、寺号を義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺(ろくおんじ)とし、義満の菩提所とした。北山殿の建物の大部分は等持院、建仁寺、南禅寺などに移築され、残ったのは金閣の舎利殿だけとなったが、後に方丈や仏殿などが建てられ寺院としての体裁を整えた。

(写真は 陸舟の松)


 金閣の東側、方丈の北側にある義満遺愛の盆栽から移したと伝わる「陸舟の松」は、帆掛け舟の形に似た枝ぶりが見事で、京都三松のひとつに数えられている。

 方丈は鹿苑寺(金閣寺)の本堂で、延宝6年(1678)に後水尾天皇の寄進によって再建され、本尊・聖観世音菩薩座像が安置されている。狩野外記ら狩野派一門の筆になる襖絵は見ごたえがあり、方丈前にある庭は周囲の建物と調和した美しさを見せている。平成17年(2005)からの方丈修理に合わせて、方丈の杉板の一枚戸に近代日本画家の石踊達哉、森田りえ子の両画伯によって京都の四季の花が描かれ、新たな拝観ポイントが誕生した。

方丈襖絵(狩野外記画)

(写真は 方丈襖絵(狩野外記画))


龍安寺  放送 9月10日(水)
 衣笠山の南西に位置する龍安寺(りょうあんじ)は、室町時代中期の宝徳2年(1450)に室町幕府の管領・細川勝元が、徳大寺家の別荘だったこの地を譲り受けて、妙心寺の義天玄詔を開山として創建した。山門を入ると目の前には徳大寺家が別荘を造営する時に築いた鏡容池が広がる。夏はスイレンの花が咲いて水面を美しく彩り、借景には衣笠山をはじめとする山々が連なる。

 龍安寺と言えば方丈庭園・石庭が世界的に有名。この石庭は方丈の南側にあり東西25m、南北10m、東、南、西の三方を築地塀で囲まれ、庭一面に白砂が敷き詰められ、大小15個の石が配された枯山水の庭。


山門

(写真は 山門)

鏡容池


 庭には一木一草もなく、築地塀の外側の樹木などを借景としている。15個の石は東から西へ7・5・3、見方によっては5・2・3・2・3に分かれた石組となっており、それぞれの石組のまわりには、波紋が広がっていくように白砂に美しい筋目がつけられている。

 15個の石はどこから見ても1個は隠れて見えないように置かれており、見えない石は心の目で見るとも言われている。1個の石が見えないことから「虎の子渡しの庭」とも言う。虎が子供を連れて川を渡る時、必ずわが子を隠すことから、隠れた石を虎の子に見立ててこう呼んだ。

(写真は 鏡容池)


 この石庭は禅寺の庭にふさわしく、見る人がそれぞれ自由に思いを馳せ、思索する庭と言われる。波紋のような白砂と石組に海と山を連想するか、あるいは無の世界と見るか、石の配置を「心」と詠むか。禅寺の庭は観賞用だけでなく、自分自身を見つめ、心を研ぎ澄ます庭とも言われる。

 この石庭の作者は龍安寺中興の祖と言われる大寂常照禅師とか、相阿弥とかの諸説があるが、作庭者は定かでなく不明である。龍安寺は応仁の乱で焼失し、長享2年(1488)勝元の子・政元が再建した。石庭のある方丈は江戸時代中期の寛政9年(1797)に火災で焼失し、塔頭・西源院の方丈を移築して再建した。

石庭

(写真は 石庭)


仁和寺  放送 9月11日(木)

 嵐電の愛称で親しまれる京福電鉄北野線の御室仁和寺駅で下車して北へ進むと、きぬかけの路の西端に位置する仁和寺の仁王門(国・重文)がそびえ立っている。仁王門をくぐり広い参道を進み、さらに中門(国・重文)くぐり抜けると金堂(国宝)の正面に進み出る。

 仁和寺は平安時代初期の仁和2年(886)西方浄土の求める気持ちの強かった光孝天皇が仁和寺創建に着手したが、高齢だったためその翌年に死去、宇多天皇が父の遺志を継いで仁和4年(888)に金堂を完成させた。

金堂

(写真は 金堂)

宇多法王


 英邁な天皇として知られた宇多天皇だったが、わずか31歳の若さで退位、出家して仁和寺に入り信仰生活に送った。法皇として仁和寺に御座所が置かれたことから「御室(おむろ)御所」と呼ばれた。以来、明治維新まで皇子、皇孫が仁和寺の門跡を務めてきた。

 仁王門を入ってすぐの参道西側に御殿と呼ばれるところがある。白木造だったことから白書院と呼ばれる門跡の非公式対面所、御座所があった宸殿、黒漆塗りの黒書院などのたたずまいは、門跡寺院の伝統がうかがえる。宸殿前にある白砂の南庭と晴れやかで雅な北庭は、訪れた人たちの気持ちを和ませてくれる。

(写真は 宇多法皇)


 仁和寺は室町時代の応仁の乱の兵火で応仁2年(1468)に全山の堂塔伽藍が全焼し、江戸時代まで復興されなかった。徳川3代将軍・家光の援助を受けて寛永14年(1637)再建が始まり、御所の紫宸殿を移築した金堂や仁王門、五重塔(国・重文)など30余の堂塔や塔頭寺院が、10年後の正保3年(1646)に完成した。

 金堂の本尊・阿弥陀如来座像(国宝)は仁和寺創建当時のものと推定され、童顔な顔立ちや丸みを帯びた造りは、平安時代前期の特徴をよく表している。地上すれすれに咲く御室(おむろ)桜は、遅咲きの八重桜として有名で、京の最後の桜を楽しむ観桜客でにぎわう。

殿

(写真は 殿)


立命館大学  放送 9月12日(金)

 金閣寺、龍安寺、仁和寺など世界遺産の名刹が集まっているきぬかけの路の、金閣寺と龍安寺の間の衣笠山を間近に望むところに立命館大学衣笠キャンパスがある。

 立命館大学は明治維新推進者のひとりで、後に首相を務めた西園寺公望が、明治2年(1869)に私塾「立命館」を京都御所内の私邸に開設したことに始まる。この私塾には多くの若者が集まり、時事問題などを議論する場となった。この塾に不穏な動きを感じが京都府庁は翌年に差し止め命令を出し、わずか1年余りで閉鎖された。当時、フランスに留学していた西園寺は「若者の声高な議論が革命思想と勘違いされたのだろう」と語っている。


立命館大学衣笠キャンパス

(写真は 立命館大学衣笠キャンパス)

未川記念会館


 文部大臣・西園寺の秘書官を務めていた中川小十郎が「能力と意欲のある者に教育の機会を与える」との西園寺の教育理念に基づき、明治33年(1900)に私学・京都法政学校を設立、後に京都法政大学に改称した。西園寺から立命館の名称使用の承諾を取り、大正2年(1913)に立命館大学となった。

 敗戦後、存亡の危機にあった立命館大学に昭和20年(1945)11月、学長に迎えられた末川博は学園の復興と振興に大きな力を発揮した。末川の「平和と民主主義」の教学理念と教育、文化活動、民主運動の言動は、戦後のわが国のオピニオンリーダーとして多くの学生たちに共感を与えた。

(写真は 未川記念会館)


 25年間にわたって立命館大学の学長、総長を務めた末川は昭和52年(1977)死去した。死去後、末川の偉業、威徳をしのび、これらの継承と発展のための末川記念会館設立の話が持ちあがり、昭和58年(1983)に会館が完成した。

 1階は末川の学問的業績や遺品、復元された書斎などが展示されているメモリアルホール。2階には京都地方裁判所で昭和8年(1933)から15年間にわたって行われた陪審制の法廷を文化遺産として移設して展示しているほか、漢字学者・白川静名誉教授の研究成果が展示されている。

松本記念ホール 陪審法

(写真は 松本記念ホール 陪審法廷)


◇あ    し◇
金閣寺京都市バス金閣寺道または金閣寺前下車すぐ。 

龍安寺京都市バス龍安寺前下車すぐ。 
京福電鉄北野線龍安寺駅下車徒歩10分。

仁和寺京都市バス、京都バス御室仁和寺下車すぐ。 
京福電鉄北野線御室仁和寺駅下車徒歩3分。

立命館大学末川記念会館京都市バス立命館大学前下車すぐ。 
京福電鉄北野線等持院駅下車徒歩10分。

◇問い合わせ先◇
金閣寺075-461-0013 

龍安寺075-463-2216 

仁和寺075-461-1155 

京福電気鉄道075-801-5315 

立命館大学末川記念会館075-465-8234 


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