月〜金曜日 18時54分〜19時00分


宇治市・平等院 

 宇治の平等院はユネスコの世界遺産にも登録されている日本を代表する名刹。創建から約1000年になろうとしている鳳凰堂のたたずまいは、今も周囲の阿字池を含む庭園と融合した独特の景観を創り出し、平安貴族たちが請い願った極楽浄土を感じさせる。


浄土世界への憧れ  放送 9月22日(月)
 京の都に近く、交通の便もよく、風光明媚な宇治は、平安時代に貴族の別荘地として栄えた。そのころ権勢を誇り、栄華を極めていた関白・藤原頼通が、父・道長から譲り受けた別荘「宇治殿」を永承7年(1052)寺に改めたのが平等院。

 鳳凰堂と呼ばれる阿弥陀堂(国宝)は、開創の翌年の天喜元年(1053)に建立され、本尊・阿弥陀如来座像(国宝)が安置された。この鳳凰堂は創建当時のまま残る唯一の建物で、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。阿弥陀堂建立後も藤原一族によって法華堂、五大堂、経蔵などが建立され、華麗な大寺院となった。
藤原頼道

(写真は 藤原頼道)

本尊阿弥陀如来坐像

  阿弥陀堂と同じ年に造立された本尊・阿弥陀如来座像は、平安時代を代表する仏師・定朝の確実な作として現存している唯一の阿弥陀如来像であると言われる。

 高さ2.5mで定印を結び、円満な顔立ちに流れるような衣紋の線で彫られた柔らかな姿の阿弥陀如来座像は、定朝が考案した寄木造りで造仏され、外来文化の影響を受けない純和様の美しさが表れている。平安貴族たちはこの阿弥陀仏に手を合わせて来世への極楽往生を願った。

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像)


 鳳凰堂は経典の観無量寿経に描かれた西方極楽浄土の楼閣をイメージした優美な建物で、鳳凰堂前の阿字池の対岸から眺めると、鳳凰堂正面の格子の円窓に阿弥陀如来像の慈悲の顔が浮かびあがる。夜、ライトアップされた鳳凰堂の円窓からの阿弥陀如来像の顔が、鳳凰堂とともに阿字池の水面に映る光景は、まさに極楽浄土の世界のようである。

 鳳凰堂の背後が西側にあたるため、落日の時には夕日に浮かび上がる鳳凰堂や屋根に飾られた鳳凰のシルエット状の光景は、これも西方の極楽浄土を思わせる厳かな光景である。

平等院鳳凰堂

(写真は 平等院鳳凰堂)


鳳凰堂と浄土庭園  放送 9月23日(火)
 平等院は平安時代中期の永承7年(1052)関白・藤原頼通によって開創され、その中心的な建物である阿弥陀堂(国宝)が、その翌年の天喜元年(1053)に建立された。

 阿弥陀堂が鳳凰堂と呼ばれるようになったのは江戸時代初期と言われる。鳳凰堂は中堂を中心に左右の南北に翼廊を配し、さらにその先端が東に折れ曲がっている。その姿が鳳凰が翼を広げたように見え、さらに中堂の屋根の棟の両端にあげられている棟飾りの鳳凰などが、鳳凰堂の名の由来とされている。正面からは見えないが中堂の後に尾廊が延びており、創建当時は後方の建物への通路として使われていた。

平等院境内古図(最勝院蔵)

(写真は 平等院境内古図(最勝院蔵))

九品来迎図


 鳳凰堂内の扉と壁面には宇治を取り巻く緑豊かな自然の中に、極楽浄土から雲に乗って来迎する阿弥陀如来と菩薩たち姿が、九品(くほん)来迎図(国宝)として大和絵風に描かれている。

 九品来迎図は生前の所業により、往生の段階が上品上生(じょうぼんじょうしょう)から下品下生(げぼんげしょう)までの9段階に分かれ、極楽往生を願う人の臨終に、阿弥陀如来が楽を奏する菩薩を従えて迎えに来る情景を「観無量寿経」に基づいて描いたもので、それぞれの絵には観無量寿経の一文を記した色紙形がはめ込まれている。

(写真は 九品来迎図)


 鳳凰堂前の阿字池を含む庭園は平安時代の代表的な庭園様式とされている。平成2年(1990)からの発掘調査で、創建当時の庭園の姿が明らかになった。創建時はこぶし大の玉石が敷き詰められたおだやかな洲浜と浅い池が広がり、宇治川や対岸の山々を借景として取り込んだ庭園だった。

 平成13年(2001)にこの調査結果に基づいて玉石の洲浜が再現され、阿字池の北岸と北翼廊の間に反橋と平橋が小島を介して架けられた。こうした復元整備によって鳳凰堂、阿字池、庭園、周囲の自然環境が一体となった極楽浄土の光景が再現され、池に浮かぶように建つ鳳凰堂の姿がより美しく見えるようになった。

浄土庭園

(写真は 浄土庭園)


天空の菩薩たち  放送 9月24日(水)
 平等院の鳳凰堂内には本尊の阿弥陀如来座像を囲むように、飛雲に乗った52体の仏像・雲中供養菩薩像(国宝=うち1体は未指定)が長押(なげし)の上の白壁にかけられている。

 雲中供養菩薩像はいずれも鳳凰堂が建立された天喜元年(1053)の作で、高さは座像で40cm、立像で87cmほど。琴、琵琶、鼓、横笛、鉦鼓、大太鼓などの楽器を奏する菩薩が28体と半数を占め、ほかに蓮台、宝珠、天蓋などを持っている菩薩、舞う菩薩、合掌する菩薩、印を結ぶ菩薩など多種多様で、阿弥陀浄土の諸菩薩の姿を表している。


雲中供養菩薩像

(写真は 雲中供養菩薩像)

鳳翔館


 雲中供養菩薩像を彫ったのは、阿弥陀如来座像を造仏した定朝とその一門ではないかと見られ、創建当時は漆地に華やかな彩色が施され、堂内の荘厳な世界を鮮やかに演出していた。表情は阿弥陀如来座像と同じように柔和で、その顔を拝していると浄土の世界へと誘われるかのようであり、平安貴族たちは夢にまで見た極楽浄土の光景に感動したであろう。

 雲中供養菩薩像の52体のうち現在26体が平等院ミュージアム・鳳翔館に展示されており、間近で拝観することができる。また創建当時の雲中供養菩薩像のように彩色復元された雲中供養菩薩像も展示されている。

(写真は 鳳翔館)


 末世末法、欣求浄土思想が強まっていた平安時代には、極楽浄土に往生するために「観想」と言う方法があった。極楽浄土の世界を構成するであろう美しい土地や池、樹木、楼閣式宮殿やその内部、仏像、仏画を観察して記憶する。こうした訓練を重ねて臨終を迎えれば、必ず阿弥陀如来の来迎が得られると言うものである。

 この極楽浄土の世界をこの世に現したのが平等院で、平安貴族たちは阿字池の前にたたずむ鳳凰堂(国宝)、堂内の阿弥陀如来座像(国宝)の柔和な姿、天空で音楽を演奏、舞う雲中供養菩薩像、壁や扉に描かれた極楽往生の姿を描いた阿弥陀の九品(くほん)来迎図(国宝)などを目に焼きつけるように観想したのであろう。

彩色を復元した菩薩像

(写真は 彩色を復元した菩薩像)


塔頭・浄土院  放送 9月25日(木)
 平等院は創建当時は天台宗の三井寺(園城寺)から迎えた僧侶によって管理されていたが、摂関政治が終わりを告げるとともに天台宗とのつながりも薄れた。平等院の寺勢が衰退してきた室町時代後期には、平等院再興のために浄土宗の僧侶が入り、天台宗、浄土宗の二宗派によって管理されるようになった。

 鳳凰堂の西に位置する平等院の塔頭・浄土院は室町時代後期の明応年間(1492?1501)に栄久(えいく)上人が、平等院修復のために開創した浄土宗寺院である。

「籬に梅図」伝狩野山雪筆(養林庵書院)

(写真は 「籬に梅図」伝狩野山雪筆
(養林庵書院))

織部燈籠


 浄土院南側の養林庵は慶長6年(1601)加伝(かでん)和尚によって開創されたが、江戸時代後期に一時無住になった。明治38年(1905)に廃寺となり、書院など一部の建物が浄土院に組み入れられた。創建当時の建物である数寄屋造の養林庵書院(国・重文)は、伏見城の遺構を移築した伝えられる。

 養林庵書院には障壁画や床壁絵などの美術、工芸品が多いほか、書院前の庭園も素晴らしい。狩野山雪の筆とされる襖絵「籬(まがき)に梅図」は、垣からのぞく梅の古木が印象的に描かれている。床壁絵「雪景楼閣山水図」も同じく狩野山雪の筆と見られている。

(写真は 織部燈籠)


 養林庵書院は3部屋と仏間、茶室からなる方丈様式の仏教建築で、部屋の欄間も素晴らしく、広縁の「養林庵」の扁額(現在かかっているのはレプリカ)は書画家・松花堂昭乗の筆である。書院前の枯山水の庭園は茶人として高名な細川三斎(忠興)作で、茶人好みの洗練された技巧による落ち着いたたたずまいで苔の緑が美しい。

 浄土院の羅漢堂は寛永17年(1640)の建立。和様式の平等院の中にあって羅漢堂は禅宗様式の建物で、堂内には本尊の宝冠釈迦如来座像と脇侍、十六羅漢像が安置され、鏡天井には天を駆ける金色の彩色画の雲龍図が描かれている。

宝冠釈迦如来坐像(羅漢堂)

(写真は 宝冠釈迦如来坐像(羅漢堂))


非運の武将・源頼政  放送 9月26日(金)
 宇治川と宇治橋は古くからさまざまな物語や合戦の舞台となってきた。「平家物語」に伝えられる以仁王(もちひとおう)と源頼政が、宇治川で平家と戦った「橋合戦」もまた宇治川と宇治橋が舞台となり、以仁王と頼政はこの戦いに敗れてこの地で散った。だがこの宇治川の「橋合戦」が源氏勃興の契機となり、この5年後に権力をほしいままにした「奢(おご)る平家」は滅亡した。

 平安時代後期に平清盛が絶大な権力を持ち、平家一門の横暴が目にあまるようになり、朝廷内や反平氏勢力の間に不満が積もり、いつ爆発してもおかしくない不穏な状況だった。
宇治川風俗屏風(平等院蔵)

(写真は 宇治川風俗屏風(平等院蔵))

扇の芝

 かねてから平家の横暴なふるまいに不満を持っていた源頼政は治承4年(1180)に、平清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内して親王を産んだため、皇位への望みが薄れた後白河天皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)に平家討伐を謀った。

 以仁王は諸国の源氏と大社寺に平家追討の令旨を下した。しかし令旨を受け取った中に平氏へ密告する者がいたため、この計画が露見して以仁王は土佐へ配流となったが、捕らえられ前に園城寺へ逃げ、さらに頼政らと共に園城寺から1000余人の兵を率いて奈良・興福寺へ向かった。

(写真は 扇の芝)


 平知盛、重衡を大将とする平家2万8000人の追討軍は、宇治川で以仁王・源頼政軍に追いつき、宇治川を挟んで対峙した。優勢な平家軍に徐々に圧倒され「もはやこれまで」と観念した頼政は、以仁王を逃し「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける」の辞世の句を残し平等院境内で自刃、以仁王も捕らえられ討たれた。

 頼政は「平等院の浄域を血で汚してはならない」と軍扇を敷いて自刃した跡が「扇の芝」として残っている。鳳凰堂西側に建つ平等院の塔頭・最勝院に頼政の墓がある。

源頼政の墓(塔頭最勝院

(写真は 源頼政の墓(塔頭最勝院)


◇あ    し◇
平等院京阪電鉄宇治線宇治駅、JR奈良線宇治駅下車徒歩10分。 

◇問い合わせ先◇
平等院0774-21-2861 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「 A係 」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会