月〜金曜日 18時54分〜19時00分


姫路城 

 白鷺(はくろ)城とも呼ばれ姫路市のシンボルでもある名城・姫路城は、平成5年(1993)ユネスコの世界文化遺産に登録された。城内に数ある建物のうち国宝が大天守をはじめ8棟、国の重要文化財が74棟もある。全国に数ある城郭の中で天守閣が国宝に指定されているのは、姫路城のほかに彦根城、松本城、犬山城の4城だけと言う姫路城を訪れてみた。


白鷺城の美  放送 1月26日(月)
 姫路城の歴史は古く、南北朝時代にまでさかのぼる。播磨国の守護職だった赤松則村(円心)が、元弘3年(1333)護良親王の令旨を受けて北条氏追討の兵を挙げ、姫路城がある姫山に砦を構えた。その後、則村の子・貞範が城柵をめぐらせて城を築いたのが姫路城の始まりとされている。

 戦国時代末期に中国地方平定に向かった羽柴秀吉が、三木城を落としてこの城に入り、中国地方攻略の拠点として天正8年(1580)三層の天守閣を築いた。関ヶ原の戦で戦功のあった池田輝政が姫路52万石の領主に封じられ、慶長6年(1601)から8年かけて城の大修築工事を行い、現在に伝えられている大城郭を完成させた。

姫路城

(写真は 姫路城)

白漆喰総塗籠造り


 白漆喰総塗りごめの天守閣は、白鷺が翼を広げて飛び立とうとしている姿に見えることから、白鷺(はくろ)城と呼ばれ、その優美な姿は国宝の名城にふさわしい。
大天守は5層6階、地下1階で石垣も含めると高さ35.7mになる。3層の西小天守、乾小天守、東小天守の3つの小天守が、大天守と渡櫓(わたりやぐら)で結ばれた連立天守閣。

 天守閣をはじめ城内の建物や塀は白漆喰総塗りごめ。天守の美しい白壁には千鳥破風や唐破風、入母屋破風、切妻破風が調和よく組み合わされ、破風に取り付けられた懸魚(げぎょ)がアクセントとなっている。天守や櫓などの窓も火灯窓、格子窓、連格子窓、武者窓が取り付けられ、調和の妙とリズミカルな美しさを見せている。

(写真は 白漆喰総塗籠造り)


 壮麗な美しさを誇る姫路城は関ヶ原の戦の直後には、豊臣方の西国大名ににらみを利かす役目を持っていたため、戦への備えも堅固である。白漆喰総塗りごめの壁や塀には鉄砲や矢を射かける狭間(さま)が開けられている。狭間は長方形、正方形、丸形、三角形などいろいろな形がある。長方形や正方形は矢狭間、丸や三角は鉄砲狭間と言われる。現在、姫路城には約500個の狭間があるが、戦闘のための施設とは思えないほど白い壁や塀にアクセントと美しさを与えている。

 姫路城は調和の取れた全体の姿が素晴らしい城だが、こうした細部のひとつひとつにも築城に携わった作り手の匠の技と美意識がうかがえる。

姫路侍屋敷図(姫路市立場内図書館蔵)

(写真は 姫路侍屋敷図
(姫路市立場内図書館蔵))


城の守り 放送 1月27日(火)
 姫路城の純白の装いの美しさの内には外敵を退け、籠城にも備える城郭本来の設備が城内のいたるところに施されている。姫路城は見通しのよい平野部の丘陵に築かれた平山城だが、一歩城内に足を踏み入れると迷路のように張り巡らされた塀や櫓(やぐら)や、それに沿って続く通路にはきつい坂道や階段があり、くぐり抜けなければならない門の多さにも驚く。

 二の丸の正門とも言える菱の門をくぐると、天守閣への道に沿って「い・ろ・は・に…」と「る」までの門が続く。さらに武士ひとりがやっと通れる「水の五門」や三方が櫓で囲まれている「備前門」など、守りの堅い門がある。
水の二門

(写真は 水の二門)

狭間


 門にもいろいろな工夫が凝らされている。「るの門」は敵を欺く門で、うっかりくぐり抜けると石で埋められる仕組みになっている。「はの門」をくぐると眼前に大天守が迫り、敵兵は「さあ、大天守はすぐそこだ」と思う。しかし大天守はまだまだ先で敵をあざむくトリックの通路である。すぐそばには大天守が近いと慌てる敵が足を滑らせるように、石段の石の角を丸くして滑りやすいようにしている。こんなところまで大まじめに取り組んでいるところがほほ笑ましい。

 通路に沿った土塀の白壁には侵入者を監視する正方形、長方形、丸、三角の狭間が並んでいる。敵兵に向けこの狭間から鉄砲や弓で射撃したり「石落とし」と呼ばれる窓から頭上に石を落としたりする。

(写真は 狭間)


 櫓はもとは矢倉の文字が当てられていた。城の石垣の上に建てられた長屋風の武具庫だったが、しだいに物見をする望楼の役目が強くなり、見張りと射撃の高台としての機能を果たすようになった。姫路城には96棟の櫓があったと言われている。

 天守や櫓などを支える石垣は、わが国の城郭特有の「扇の勾配」と言われる美しい曲線を描いている。この勾配は上にいくほど石垣が垂直になり、敵兵がよじ登れなくした防備の役目を果たしている。白鷺城の異名となった白漆喰塗りも美観のためだけではなく、優れた耐火性によって延焼を防ぎ、銃弾にも強いと言う防戦効果が高い。
このように敵を欺き退けるさまざまな仕掛けを持つ白亜の城は、難攻不落の要塞でもあった。

扇の勾配

(写真は 扇の勾配)


天守  放送 1月28日(水)

 慶長6年(1601)池田輝政が築城した天守閣は、5層6階、地下1階の大天守と東小天守、乾小天守、西小天守の三つの小天守から成っている。これらの天守は2層の渡櫓(わたりやぐら)で結ばれた連立天守閣となっており、連立天守閣が完全な形で残っているのは姫路城だけである。

 天守閣は城のシンボルであり、藩主の権威の象徴でもあると同時に、万一、敵勢に囲まれた時、籠城して最後の戦いをする砦の機能も備えていなければならない。姫路城はその二つの機能をほぼ完全に備え、うまく調和させている城と言える。

武具掛け

(写真は 武具掛け)

五階


 飛び立とうとする白鷺が翼を広げたような姿から、白鷺(はくろ)城と呼ばれる姫路城の天守閣がが美しく見えるのは、大天守のはねるように反った屋根と千鳥破風や唐破風、入母屋破風、切妻破風、そして白壁にうがたれて火灯窓などの窓がバランスよく調和しているところにある。

 14.7mの石垣の上に31mの高さでそびえ立つ大天守の内部は、東西2本の心柱が地階から6階床下まで貫き抜けている。2本の柱は高さ24.6m、根元の直径は95cm、最上部の末口は42cmもある巨大な柱で、それぞれ100トンの荷重を受けて大天守全体を支えている。

(写真は 五階)


 優美な外観とは裏腹に大天守の内部には火縄銃や火薬、槍などを掛けておく武具掛、見張り役や射撃する兵の足場となる石打棚、攻め入った敵に不意打ちを掛ける兵を忍ばせておく武者隠し、武器や食料を保管しておく内室と言った戦闘設備や籠城設備が整えられている。

 大天守地階の2カ所に厠(かわや)が用意されていたが、使われた形跡はない。厠に見せかけて飲料水を保管するための施設ではなかったかとの説もある。籠城の兵士の食事を作る台所も設けられ、畳2枚を横に並べたよりやや大きな流しがあり、長期の戦闘に備えた砦の機能をまざまざと見せつけられたようだ。

六階

(写真は 六階)


西の丸・千姫の館  放送 1月29日(木)
 
 姫路城は二つの小山の上に築かれた城郭である。天守閣がある本丸を形成しているのが姫山。その西側の鷺山に建てられたのが西の丸。
 西の丸は元和4年(1618)その時の城主・本多忠政の子・忠刻に徳川家康の孫娘・千姫が嫁いだ際に造営された。当時、本多氏は15万石の藩主だったが、千姫が嫁いだ時に化粧料として10万石が加増され、その化粧料で西の丸化粧櫓(やぐら)や長局が築かれた。長局は別名「百軒廊下」と呼ばれる長い建物で、千姫の侍女らが住んでいた。化粧櫓と長局の屋根瓦にほどこされた目地漆喰は、西の丸の眺めをいっそう美しいものにしている。
千姫画像(弘紀寺蔵)

(写真は 千姫画像(弘紀寺蔵))

犬走り


 長局は女性の住み家にしては武骨なほどで荒々しい感じが拭いされない。木組みをさらけ出した小部屋、白漆喰の塗りごめの窓、隅櫓の石落としなど敵の襲撃に備えた戦闘色が濃い。
 だが、このように戦いに備えた西の丸にも匠たちの気づかいが随所に現れた美しさがある。西の丸の外周を囲む櫓は化粧櫓から順次低くなりつつ連なっており、単調になりがちな渡櫓(わたりやぐら)に変化を持たせている。屋根にも入母屋破風、千鳥破風、唐破風を巧妙に組み合わせ、瓦も扇状に開いたり狭くしたりするなど、他の城郭には見られない独特な構成美を見ることができる。

(写真は 犬走り)


 長男・幸千代を3歳でなくした千姫は、男児誕生を願って朝夕、長局の窓から西に見える男山天満宮を遥拝していた。この時、千姫が休息して身づくろいをしていた化粧櫓は、2層造りで階上には18畳、15畳、6畳の3部屋がある。武骨な柱や板張りの壁、廊下ばかりの長局の中で、住宅様式の畳の部屋を目にするとホッとする温かみが感じられる。
 姫路城で幸せな生活を送っていた千姫だったが、望んでいた男児も誕生せず、夫・忠刻が31歳の若さで他界したため、10年間の思い出を胸に姫路城を去り、江戸に帰ることになった。

化粧櫓

(写真は 化粧櫓)


白鷺の美を護る人たち 放送 1月30日(金)
 白漆喰塗りごめの白壁や屋根の曲線が白鷺が翼を広げた姿を思わせる姫路城は、400年前の創建時の木組みがそのまま使われており、これは長年にわたる修理や修復、保全の歴史そのものである。同時に姫路城は長い歴史の中で、一度も戦いや火災に巻き込まれたことがない不戦、不焼の城とも言われ、姫路の街が焼け野原になった第2次世界大戦の空襲の被害も受けず、その美しい城郭の姿を今日へ伝えた。
 池田輝政の築城後もあちこちに補強の手が加えられ、明治43年(1910)には大規模な補修工事が行われた。その後も西の丸の石垣が豪雨で崩れたり、天守閣の壁がはがれたり、瓦が飛ばされて雨漏りがするなど、早急な大修理が必要とされていた。

天守閣

(写真は 天守閣)

昭和の大修理(提供姫路市)


 姫路市民らも「白鷺城修築期成同盟会」を結成して国会に働きかけ、昭和25年(1950)やっと「文化財保護法」が制定され、その翌年、姫路城の修理がスタートした。修理の棟梁には播州一の宮大工と言われた和田通夫氏が選ばれ「お城のために働きたい」と言う地元の大工約100人が集まった。昭和31年(1956)に解体工事にさきがけ、架設工事や天守閣を覆う素屋根かけの工事が始まった。

 解体工事が進み東西の心柱を調べたところ、西の心柱の内部が腐っており再利用は不可能とわかった。高さ25mにおよぶ心柱に適した巨木は、真っすぐに伸びた樹齢600年を超えるヒノキが絶対条件。こんなヒノキの巨木はおいそれとはなく、全国各地からの情報をもとに心柱探しの行脚が続いた。

(写真は 昭和の大修理(提供姫路市))


 ようやく岐阜県裏木曽の国有林でヒノキの巨木を見つけて伐採したが、山から降ろす途中でトロッコから落とし真っ二つに折れてしまった。幸い地元の姫路市市川町の笠形神社の神木と継いで、1本の巨木にすることで西の心柱が調達できた。14年の歳月を費やした昭和の大修理が昭和39年(1964)に終わり、美しい姿に甦った白鷺城が姿を現した。

 20歳の時、昭和の大修理に加わった漆喰左官の田渕靖さんは、それ以来、姫路城の漆喰壁や屋根の漆喰目地の修理に当たっている。田渕さんの仕事ぶりを慕って弟子入りした東京の若者もその技を継承しようと腕を磨いている。現代の建築技術で甦った姫路城は阪神淡路大震災の激しい揺れにも耐え、大きな被害はなかった。これは姫路城に結集された多くの匠の技が、この名城を後世へ伝えること約束した証しである。

漆喰塗の修復

(写真は 漆喰塗の修復)


◇あ    し◇
姫路城JR山陽線、山陽電鉄姫路駅下徒歩15分。 
JR山陽線、山陽電鉄姫路駅からバスで大手門前下車。

◇問い合わせ先◇

姫路城管理事務所0792−85−1146 

姫路市観光課0792−21−2512 

姫路観光協会0792−22−2641


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