月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都東山 高台寺 

 京都東山の緑に包まれるかのようにして建つ高台寺は、豊臣秀吉の夫人であった北政所が夫の菩提を弔うために建立した禅寺である。徳川家康からの経済的支援もあって、堂塔伽藍は壮観なものとなったという。現在の高台寺は度重なる火災を経て創建当初の規模とは比ぶべくもないが、今もなお霊屋などの建造物や庭園、高台寺蒔絵をはじめとする寺宝に絢爛豪華な桃山文化の息吹きを見ることができる。


高台寺 〜ねねの寺〜 放送 2月16日(月)
 京都・東山の麓の高台寺は豊臣秀吉の夫人だった北政所・ねねが、慶長3年(1598)に没した夫の菩提を弔うために創建、慶長11年(1606)に落慶した寺で、平成18年(2006)が開創400年に当たる。「ねねの寺」とも呼ばれる高台寺の寺号は、北政所の法名・高台院湖月尼からとられたもので、正式には鷲峰山高台聖寿禅寺(じゅぶさんこうだいしょうじゅぜんじ)と言う。
 創建当初は曹洞宗の寺だったが、寛永元年
(1624)に建仁寺の三江紹益(さんこうしょうえき)和尚を開山として迎え臨済宗となった。高台寺は創建のいきさつなどから殊に女性に人気の高い寺である。

開山堂

(写真は 開山堂)

三江紹益禅師


 三江和尚を祀る開山堂は創建時は持仏堂と呼ばれていて、北政所の養父母の浅野長勝、七曲夫妻が祀られていた。三江和尚が没した時からここを開山堂とし、堂内正面の中央壇に三江和尚の座像が祀られ、その壇下が墓所になっている。三江和尚像の東側壇には北政所の兄・木下家定夫妻の木像、西側壇には秀吉の直臣の堀秀政の家臣で高台寺造営に当たった堀監物直政の木像が安置されている。
 開山堂の天井は秀吉の御座船の格天井、中央の金地極彩色の四季草花図は、北政所の御所車の天井をそのまま移してはめ込んだもの。その奥の画龍は狩野山楽の筆と伝えられている。

(写真は 三江紹益禅師)

 高台寺が最も隆盛だった天明年間(1781〜89)の記録によると、塔頭が9寺、京中に末寺が4寺あった。その後、度重なる火災や幕末の勤皇の浪士による放火などで、境内の堂宇の大半を焼失した。創建当時の建物として現在残っているのは、加藤清正が寄進した表門や開山堂、北政所が眠る霊屋(おたまや)、茶室の時雨亭、傘亭、楼船廊の中ほどに建つ観月台の6つの建物で、いずれも国の重要文化財に指定されている。
 数多くあった塔頭も今は圓徳院など4塔頭となっているが、豊臣時代から徳川時代への政権交代の激動の時代にこの寺で20年間、ひたすら耐え忍んで生き抜いた北政所・ねねの息遣いが聞こえるようだ。

方丈

(写真は 方丈)


高台寺 〜霊屋の蒔絵〜  放送 2月17日(火)
 建仁寺から三江紹益(さんこうしょうえき)を高台寺に迎えた3日後の寛永元年(1624)9月6日、北政所は山内の住房で、5年間におよぶ闘病生活の後に没した。77歳だった。北政所の棺は住房から高台寺に運ばれ、遺骸は開山堂から龍の背のように見える臥龍廊の坂をあがったところの霊屋(おたまや)に埋葬され、9月23日に盛大な葬儀が営まれた。
 霊屋は正面に唐破風の向拝(こうはい)をつけた宝形造の廟堂である。北政所は、阿弥陀ケ峰にある夫・秀吉の廟堂に倣って廟堂を建立して、自らのついのすみかを用意していた。


随求菩薩

(写真は 随求菩薩)

北政所 像


 霊屋堂内の須弥壇中央に随求(ずいく)菩薩像が祀られ、その右側の厨子内に笏(しゃく)を持った礼装の秀吉像、左側の厨子内に柔和な表情の尼姿の北政所の座像が安置されている。
 黒漆の塗られた須弥壇の勾欄や柱、長押(なげし)には、笛や琵琶、筝(こと)、太鼓などさまざまな楽器に天女をからませた「楽器尽くし」の文様、階段には川面の筏の上に桜の花が舞い散る「花筏」の優美な文様の蒔絵(まきえ)が描かれている。これらの蒔絵は「夢のまた夢」となって遠のいた「なにわ」のことを映し出しているかのようである。

(写真は 北政所 像)


 秀吉像の厨子の扉の表にはススキに桐の紋、裏面には菊と紅葉(もみじ)と桐紋の図が描かれている。宿してた露が今にもこぼれ落ちそうなススキの風情が、秀吉の辞世の歌「つゆとおち つゆときえにし わがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」の心情を映し出しているようだ。北政所の厨子の扉には表裏とも松に篠竹の図が描かれ、その美しさには目を奪われる。
 桃山時代の漆工芸美術の粋を集めたこれらの蒔絵は「高台寺蒔絵」と呼ばれ、北政所はこうした華麗な蒔絵に囲まれ、阿弥陀ケ峰の秀吉の墓所を見守りながら眠っている。

「楽器尽くし」

(写真は 「楽器尽くし」)


高台寺 〜春宵一刻…〜  放送 2月18日(水)
 女性的な優美なたたずまいの高台寺の境内は、日暮れてライトアップされると、またひと味違った幽玄の趣が漂い出す。
 黒々と夜空を覆うかのような庫裏の玄関格子の奥には、衝立の「夢」の一字がほの暗い明かりに浮かび上がり、秀吉の辞世の歌「なにわのことも ゆめのまたゆめ」と重なる。方丈の南西前庭は敷きつめられた白砂が大海と島を描き出す「波心庭」。この波心庭にあった老木の枝垂れ桜が見事な花をつけていたが、老衰で枯れてしまい、今は新しい桜に世代交代している。桜の時期にはまだ早いが、光のアートで庭の美しさを楽しませてくれる。


庫裏

(写真は 庫裏)

波心庭


 方丈、書院とその東の開山堂の間の庭は小堀遠州の作と伝える「鶴亀の庭」。
この庭の偃月池(えんげつち)をまたぐ楼船廊の中央には、唐破風柿葺(こけらぶ)きの観月台が設けられており、北政所の月夜の楽しみ方がしのばれる。
 観月台の南に枯滝石組みの築山を配した鶴島、北側の偃月池の中央に亀頭石、亀脚石のある亀島を配した鶴亀の蓬莱山水の庭が広がっている。回遊風に作庭された池泉観賞式の庭園で、江戸時代初期の庭園の典型的な様式を伝えている。

(写真は 波心庭)


 開山堂の東に広がっているのが臥龍池。初夏には美しいカキツバタの花が咲き乱れる池として知られている。鶴亀の庭の明るい偃月池とは対照的に暗く沈んだ風情が特徴の臥龍地。この明暗を対照させた庭のたたずまいは、北政所の心の内を映し出しているのだろうか。
 開山堂からこの臥龍池をまたいで霊屋(おたまや)に向かって、龍が這うように山を登っている姿に見えるのが臥龍廊。屋根の瓦がまるで龍のウロコのようにも見えるところからこの名がつけられ、北政所・ねねが眠る廟堂を守っているのかも知れない。

観月台

(写真は 観月台)


高台寺 〜茶席の雅趣〜  放送 2月19日(木)
 高台寺に住む北政所は茶をたしなむことも多かったようで、境内には「わび」「さび」を楽しむ茶室が多い。境内東端の山上に創建当時に伏見城から移築してきた茶室「傘亭」と「時雨亭」が残っているほか、江戸時代の豪商・灰屋紹益遺愛の茶室「鬼瓦席」「遺芳庵」がある。
 「傘亭」と「時雨亭」はともに千利休の意匠によるもので、傘亭は二間四方の茅葺き平屋建て。天井はないが天井部分に自然木と竹の垂木が放射状に組まれ、唐傘を開いたように見えるところからその名があるが、正式には「安閑窟」と呼ばれ、中央に「安閑窟」の板額が掲げられている。

傘亭

(写真は 傘亭)

時雨亭


 時雨亭は入母屋造りの茅葺き二階建て。階上部分が茶室になっており、東側に床をつけ、南側と西側の二面と北側半分は開け放って、眺望を楽しむことができる茶室で、かつては遠く大阪方面を望むことができたという。
 元和元年(1615)大坂夏の陣で淀君と秀頼が大坂城で自刃し、大坂城が落城して豊臣家が滅亡した時、北政所は高台寺境内の高台にあったこの時雨亭から、炎に包まれて落城する大坂城を見届け泣き崩れたと言う。北政所はこの時の胸の内を「大坂城落城と豊臣家滅亡は感無量で言葉もない」と伊達政宗への手紙に書き綴っており、秀吉と過ごした大坂城での思い出がよみがえったのであろう。

(写真は 時雨亭)


 方丈北庭に灰屋紹益が愛したことでしられる鬼瓦を掲げた四畳半の茶室の「鬼瓦席」、紹益が吉野太夫をしのんで建てたと言われる「遺芳庵」がある。遺芳庵は茅葺き屋根に吉野窓と呼ばれる優しい感じのする丸窓をつけた茶室で、高台寺境内な風雅な趣を強めている。
 臨済宗の禅寺である高台寺は、他の禅宗寺院と同様に厳しい禅修行の道場であった。だが、境内の諸堂宇の建物や庭園をはじめ桃山文化の粋を凝らした美術工芸品などがあり、北政所・ねねの寺でもあることから、優雅でほのぼのとした雰囲気がこの寺の魅力で、多くの人を引きつけている。

鬼瓦席

(写真は 鬼瓦席)


高台寺 
〜ねね・面影のよすが〜 
放送 2月20日(金)
 高台寺塔頭の圓徳院は、初め北政所・ねねが豊臣秀吉の没後、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿とその前庭を移築して住まいし、その一生を終えた所である。ねねを支えていた実兄の木下家定の次男・利房が、ねね没後9年目の寛永9年(1632)に、この住まいを木下家の菩提寺の圓徳院とし、高台寺の塔頭となった。
 方丈北の多数の巨石を用いた枯山水の庭は、伏見を懐かしむ北政所が特に望んで伏見城からそのままの形で移したものと言われている。池泉回遊式の枯山水の庭には、多数の石組みが展開している。このように多数の巨石がふんだんに置かれている庭は珍しく、桃山時代の豪華さと豪胆さが表れている。
圓徳院

(写真は 圓徳院)

高台院像(ねね)


 圓徳院にはほかに秀吉が念持仏としていた三面大黒天尊像や辻が花染めの裂(きれ)で表装した戦国武将の遺墨や障壁画(国・重文)などの美術品、文化財も数多い。
 一方、高台寺にはねねの遺愛の品々がいくつも伝わっている。その中でも「高台寺蒔絵(まきえ)」と呼ばれる桃山時代の美術工芸を代表する蒔絵を施した飲食器、化粧道具、文房具などの調度品は、ねねの身辺に置かれ、その生活を彩っていた。いずれも秋草文様を中心に菊や桐紋を巧みに取り入れたもので、桃山時代の美意識をこの蒔絵からかいま見ることができる。

(写真は 高台院像(ねね))


 ねねの愛用品の中で代表的なものに「秋草蒔絵歌書箪笥(国・重文)」がある。五段重、十個の引き出しを納めた歌書箪笥で、引き出しの全面、本体のまわりすべてに秋草の蒔絵が描かれている。ほかに「秋草竹蒔絵文庫(国・重文)」「秋草蒔絵提灯」などがある。
 「楓桐菊蒔絵薬味壺(国・重文)」は、蒔絵を描いた陶製の六個の小壺を梅鉢型につないだもので、食膳を華やかに彩っていたと想像される。華麗な「亀甲花菱文様繍箔打掛」は、刺繍で全面に亀甲花菱を描き、その間に銀の摺箔(すりはく)を張り付けている。これらの高台寺の美術品の一部は、境内の掌(しょう)美術館に展示されている。

亀甲花菱文様繍箔打掛(掌美術館)

(写真は 亀甲花菱文様繍箔打掛(掌美術館))


◇あ    し◇
高台寺、圓徳院、掌美術館JR京都駅、近鉄京都駅、京阪電鉄四条駅、阪急電鉄河原町駅からそれぞれ市バスで東山安井下車徒歩5分。 

◇問い合わせ先◇
高台寺075−561−9966 

圓徳院075−525−0101 

掌美術館075−561−1414 


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