■そんなわけで、ABCホールは来週から本格稼働。今週はわりとのんびり過ごしております。明後日からの三連休も、日曜に「ABCお笑いグランプリ」の準決勝が開催されるだけ。寒いけど、笑いに来ようかな■前にも少し書いたような気がするのですが、このグランプリの前身となるのが「ABC漫才・落語新人コンクール」という大会で、僕(艦長)が入社した年に、朝日放送創立30周年記念事業として始まりました。その第1回大会の予選会が開かれたのは、1979年の年末、大淀のABCホールにおいて。新入社員の僕はフロアディレクターを務めていたのですが、途中でちょっとした事件が起こりました。ある出場漫才コンビが、入り時間になっても来ないのです。このコンビは当時すでに売れ始めており、その日も予選会の前に遠方の「営業」の仕事が入っていて、それが押してしまって遅刻する、という連絡が直前に入ったというわけです■演技の順番は事前に抽選で決まっています。お笑いコンテストにおいて出番順が審査結果に大きな影響を及ぼすのはこの当時でも周知の事実。しかし、失格というのも酷だという話になり、やむなく、出場している他の芸人さんのマネージャー陣、会場のお客様の了解のもと、出番を一番最後に変更することになりました■何とかトリには間に合ったそのコンビは、プレッシャーをものともせず精一杯の演技で予選を突破。その勢いで決勝大会でも見事「審査員奨励賞」を獲得してしまいました。そのコンビが、当時『女流アイドル漫才』などというキャッチフレーズで売り出し中だった、海原さおり・しおりだったのです。ちなみにこの第1回大会の漫才の部で優勝したのは、前田一球・写楽のご両人。なんだか大昔の話ですね■さおり・しおりは、女流漫才には珍しく、その後2人とも結婚・子育てという道を歩んだため、ある時期からメディアで目にする機会はめっきり減りました。しかし80年代は、漫才ブームも到来し、また(ちょっと表現に気を遣いますが)「可愛い女性お笑い芸人」がまだ大変珍しい時代で、さおり・しおりはテレビ・ラジオで重宝され、大活躍をしていたのです。僕もその頃、よく一緒に旅のロケに行ったり、先輩と共にカラオケで大騒ぎしたり、彼女らとはほぼ同い年だったこともあって仲良くしていました■そのコンビの小柄なボケ役、海原しおりさんが1月3日に亡くなりました。やしきたかじんさんと同じ日です。たかじんさんには実に多くの著名人が追悼の言葉を述べられています。僕もたかじんさんを知らないわけではありませんが、番組の打ち合わせ以外で2人で話し合った経験は残念ながら一度しかないので(お茶を飲みながらある共通の愚痴で意気投合しました。それはそれで思い出深いのですが・・・)、しおりちゃんの話をします■とても悔しいのは、インターネットというものが出来た頃にはあまりメディアに登場しなくなったため、今、画像検索をして出てくる彼女の姿がオバちゃんになってからのものばかりだというところ。もちろん面影は残っていますが、若い頃は本当に可愛かったんです!告別式の会場の片隅に、若かりし日の写真がたくさん飾ってあるのを見つけ、目頭が熱くなりました。僕がADをしているロケの写真もありました■そういえば、ここ数日テレビのワイドショーを見ていて分かるのが、たかじんさんの過去映像はよみうりテレビが圧倒的に多彩で豊富だということ。それはまあ予想がつくのですが、海原さおり・しおりに関しても同様にYTVの圧勝でした。「お笑いネットワーク」という名番組のアーカイブの賜物ですね。20代のさおり・しおりの溌剌、キュートな漫才のハイライトを久しぶりに確認することが出来ました。ありがとう、ネットワーク!■昨年秋には、かつて僕と一緒にテレビの演芸番組、情報番組をたくさん作ってきた、ABCの市川寿憲プロデューサーが亡くなりました。上方の古典芸能に対する愛情と造詣の深さがものすごい後輩で、新聞記事にもなりましたからご存知の方もおられると思います。市川君もたかじんさんもしおりちゃんも、そして一昨年世を去った牧野エミさんも・・・これからまだまだ、という歳の人間をこの世から奪い去ってしまったのは全てガンです■以前、科学情報番組を担当していた時に教えてもらったことがあります。ガン細胞は、遺伝子のコピーミスから生まれる。人間の体も一種の機械である以上、コピーミスの発生確率は絶対ゼロにはならない。生きていれば人間はいつかはガンにかかる。つまり、ガンで死ぬか、それまでに他の病気で死ぬかなのだと。なるほどです。しかし、「だから・・・」、と何か悟りを得られるほど僕は出来た人間ではありません。天は、時に残酷です。
たかじんさん、しおりさん、謹んでご冥福をお祈り致します■(艦長)
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- 2014年01月10日金曜日