芦生 歴史と人・・・1
「美山の芦生」それは「深山の悪う(ところ)」というのが本当の意味ではないかと言われるほど厳しい自然の森。
それでも平安時代から荘園として人が恵みを得ていたようです。
記録上、集落が形成されていたのは室町時代からで、人口のピークは江戸時代中期。木地師と呼ばれる人たちの木材加工、炭焼きや林業で、けっこう豊かな暮らしができた時代だったのです。越前へ通じる街道としての重要性もありました。
ところが江戸後期になると、度重なる飢饉や疫病の流行、水害などで人が去り、ひとつの集落・灰野を残すだけになりました。
明治に入ると、森は近代産業や鉄道を支える存在として注目を浴びるようになります。さらに安定した働き場所、収入源、安住の地への道を模索する中、大正10年、芦生奥山を演習林として京都大学に貸す99年間の契約が結ばれました。
世界恐慌による不況の大波、戦争へ向かう時代を乗り越えて戦後の成長期を迎えた芦生に試練が訪れます。昭和30年代に、途中まで届いていた電気を奥まで引く予定はない、という通告がなされたことをキッカケに灰野が廃村になるのです。
経済成長期、電気による文化の拡大、自動車によるモータリゼーションと都市集中から完全に取り残され、人は芦生の奥山から下りざるを得なくなったのでした。
|