コメンテーターのつぶやき

巧妙な語り口でニュースに切り込む、おはようコールのコメンテーター陣。 そんな海千山千の識者が、意外な趣味・趣向で文章をつづる『コメンテーターのつぶやき』。 これを読めば、新たな世界が見えてくるかも!?

コメンテーター comenter中川謙

2013年1月7日(月)

名は体を現す?

 看板には偽りがつきものである。とりわけ政治、そして政党には。
 たとえば新興勢力「みんなの党」はどうだろう。言っていることには、どうやら濁りはない。市場重視、規制緩和、自己責任・・・・。新自由主義の主張にドライなばかりに徹している。お金持ち、大企業、つまり強い者の味方なのである。
 そんな党があって悪いわけではない。むしろ、政党はだれの利益を代表しているのか、嘘偽りなく正面に掲げるべきだと、私は考える。
 それなら、この党は大胆に「ひとり(の力を信じる、という意味で)の党」を名乗った方がいい。それをあえて正反対の「みんな」の語を持ち出すところに、偽善、というより自らの哲学への中途半端な自信のなさがちらついて見える。いっそ「お金持ちみんなの党」ではいかが?
 もうひとつの新興勢力「日本未来の党」は、その政策、性格が何なのかが判然としないまま、わずかひと月あまりで燃え尽きた。奥に控えた「過去」の人の影を隠すために、その対極語を持ち出すようでは、長続きは無理ですよね。
 いよいよ新興勢力の老舗(!)「日本維新の会」にご登場願おう。
 創業者の橋下徹さんは、その政策集を「維新八策」と名づけたくらいだから、モデルに明治維新を意識しているのは間違いない。国家政策プラン「船中八朔」を構想した幕末の志士・坂本竜馬にあこがれる若い野心家は、橋下さんだけでなく世にごまんといる。
 150年前までのこの国には江戸幕府のもと、ざっと300の藩が存在した。それぞれが徴税権を持ち、独自の自治で域内を治めていた。封建制経済のもとで力を蓄えていたからこそ、決起した諸藩が連合し、中央権力を倒すこともできたのだ。
 この後、勝ち組は一気に幕藩体制を廃し、中央集権の近代国家への大転換に踏み切る。
 これが教科書で教わる明治維新の姿である。
 いま橋下さんたちは、霞ヶ関の官僚が牛耳る政治のあり方を改め、地方分権を進める、と言っている。その適否はさておき、明治期になされた中央集権化とは明らかに逆のベクトルではないのかな。
 まさか、とは思うが「昭和維新」がその意識にあるとすれば、また話は別だ。
 世が昭和に移ろい、アジアへの武力進出、世界恐慌などを背景に社会不安が募るにつれ、飛び交ったのが「昭和維新」のスローガン。ここで悪者にされたのが「君側の奸」、今風にいえば霞ヶ関の官僚、そして既成政党である。
 その主張、動機に一理がなかった、とは言えないのかもしれない。ただ、青年将校らによるこの動きが、当時の軍部主流にたくみに吸収され、戦争遂行政策に力を貸す結果になったことは否定できない。
 暴力に走った青年将校とはもちろん違うけれど、現代の「君側の奸」(抵抗勢力と呼ばれる労組なども含む)をバッサバッサと切り捨てる橋下さんへの世間の拍手喝采を見ていると、ついこの国が戦争への道を転げ落ちた昭和前期の空気を想像したくなるのだ。
 師走の総選挙で自民党は大勝し、政権に復帰した。橋下ブームが巻き起こした保守浮動票のかなりの部分が、どうやら「維新」ではなく、自民に舞い降りた、と私は見る。なるほど「維新の会」の党名は、英訳すると「王政復古党」。それなら「国防軍」を唱える党への「大政奉還」に結果として力を貸したとしても、不思議はないのか。でも、まさか・・・。
 名が現す体(たい)のその実体に、世の中、とくに大阪、もう少し気を遣っていい、と思うのだが、さていかがでしょうか。