コメンテーターのつぶやき

巧妙な語り口でニュースに切り込む、おはようコールのコメンテーター陣。 そんな海千山千の識者が、意外な趣味・趣向で文章をつづる『コメンテーターのつぶやき』。 これを読めば、新たな世界が見えてくるかも!?

コメンテーター comenter中川謙

2011年3月28日(月)

この悲しみを言葉に

    涙にならない悲しみがある事を
     知ったのは ついこの頃
     言葉にならない優しさをひたむきに
     追いかける そう今でも
     (山口百恵『曼珠沙華』より)


 胸に去来するたくさんの「悲しみ」を、形で表せないもどかしさ。心にふつふつと湧く「優しさ」を言葉で示せないいらだたしさ。だれもがそれを感じていないだろうか。
 いまこの国土で進んでいる事態のすさまじさは、なまじの想像力に収まるようなものではとうていない。
 考えてもみよう。
 戦後の日本が65年にわたって味わってきた辛酸、厄災がひとまとめになったかのようなエネルギーで一気に、そして一瞬にして東日本の長い海岸線を襲った。
 そんなことって、ありなのか。
 震度7の揺れが東北地方を直撃したとき、テレビが伝える現地の映像は、たった16年前のあの光景そのものだった。悲しくも切ない既視体験。
 阪神・淡路大震災。死者6434人、行方不明3人。
 東日本大震災では2週間後の時点で死者は1万人を超え、行方不明者は2万人にも達しようとしている。
 16年前には見なかった光景がある。形容もしようのない巨大な津波。
 あの伊勢湾台風も、とてつもない水害だった。死者・行方不明者は5000人超。あれから52年。たけり狂った太平洋の波の残した傷跡は、その悲しい記録をあざ笑うかのように犠牲者の数を塗り替えつつある。
 そして原子力の暴走。だれもがおぼろげに疑問を抱きながら、うかつにも許容してしまった原発「安全神話」。それがこんな形で破たんしようとは。
 56年前の放射能パニックを、私自身、鮮明に記憶している。
 南太平洋で米国が好き放題に核実験を繰り返していた時期だ。日本の遠洋漁船「第五福竜丸」がもろに放射能を浴び、乗組員が悲惨な死を遂げた。漁船が持ち帰ったマグロは、放射線測定器に「ガーガー」と不気味な反応音を発した。あの禍々しい響きは、決して忘れることができない。
 いま、福島原発から流出する放射能に、周辺地域の人々が逃げまどっている。比較的安全な位置にいる西日本の私たちは、痛恨をこめて思う。戦後が日本に課した幾多の試練から、私たちは学ぶべきものをずいぶんと学びそこなってきたのではないか、と。
 首都圏では物不足が進行しているという。38年前の石油ショックが引き起こした現象がそっくり再現されているのだ。
 そして計画停電。戦後5年間ほどの混乱期にもあった。闇夜を照らす頼みの綱が「百匁(ひゃくめ)ロウソク」。トウモロコシのような図体のそれが放つだいだい色の光は「明日」へのかすかな希望にも見えた。
 「震災後」に向け、第一歩を踏み出す日はいずれ来る。そこで必要なのは、終戦直後と同じく「明日」への希望である。いつまでも茫然自失ではいけない。そのためにやるべき作業は山ほどある。
 日々、目の当たりにする数多くの「悲しみ」「優しさ」を、精魂こめて言葉に紡いでいくこともその一つ。
 それこそが、新聞、テレビなどメディアの果たす役割ではないか。



コメンテーター comenter中川謙

2011年3月1日(火)

阪神ストーリーの底力

 あの村木厚子さんの闘いを描いたテレビドラマ『私は屈しない』は見ごたえがあった(他局の作品でごめんなさい)。
 その中で、強く印象に残る場面がある。
 村木さん(演じるは田中美佐子)が夜を過ごす独房に、プロ野球中継のラジオ放送が流れている。乾いた球音、地響きのような大歓声。そうだ、阪神だ。阪神タイガースが今宵もまた闘っている。甲子園球場のあの興奮と熱気が、塀の奥深くにまで届いていたのだ。
 その時、打席にマートンが立っているのか、マウンドには藤川球児の姿があるのか。それはわからない。でも、この放送が「1008abcナイター」であるのは疑いない。声の主はもちろん清水次郎アナ。ここは大阪拘置所。そのナイター中継が阪神戦でないはずがない。abcナイターでないはずがない。他局であるはずがない。
 村木さんが大阪で拘置所暮らしをするうち、夜毎のナイター中継でいつの間にか阪神ファンになったという話は耳にしていた。孤独の闘いを強いられた女性を、図らずも聖地のライトスタンドの応援が励ましていたとすれば、嬉しいことではないか。
 阪神愛は伝達する。とは私もたびたび実感してきた。それは、この愛が本物であるあかしであろう。だから阪神への愛は、そのまま固い絆を作り上げる。苦境におかれた村木さんだからこそ、この愛に目覚めやすかったのかもしれない。
 独房で村木さんは、検察の作り上げたストーリーとひとり闘っていた。
 実体のない障害者団体に厚生労働省の証明書が発行され、郵便料金の割引が不正に適用されていた。厚労省の幹部職員・村木さんがそれに関わっていた。そう目星を付けた検察官が、それに当てはまる供述を無理やり引きだし、挙句は物証までねつ造した。
 これが事件のてんまつである。検察に限らず、公権力は自分たちの都合に合わせて、しばしばストーリーを創作する。具合の悪い「反ストーリー」は断じて許さない。
 だから権力の「ストーリー」に一個人が立ち向かうのは、実は至難の業である。個人も、そしてその集合である民衆も、権力に対抗して独自のストーリーを構築するには、やはりまだ力が足りないのだろう。
 この難局を切り開いた村木さんは、本当にすごい女性だ。もしその闘いを、民衆自身が紡ぎだした「阪神ストーリー」が後押ししたとしたら、これもまたすごいことだ。私たち阪神ファンは、その意味にもっともっと自覚的であっていい。
 それにしてもこんどの検察(大阪地検特捜部)ストーリーは、権力ストーリーとしてもあまりに拙劣であった。そのお粗末さには次の言葉がふさわしい。
 「これっきり、これっきりもおう、これっきり〜ですか〜」
 (山口百恵の『横須賀ストーリー』から)