コメンテーターのつぶやき

巧妙な語り口でニュースに切り込む、おはようコールのコメンテーター陣。 そんな海千山千の識者が、意外な趣味・趣向で文章をつづる『コメンテーターのつぶやき』。 これを読めば、新たな世界が見えてくるかも!?

コメンテーター comenter井上章一

2010年8月13日(金)

最近おびえていること…

 街を歩いていると、風俗店で呼び込みをしているお兄さんたちから、よく声をかけられる。どうやら、「おはようコール」を見てくれているらしい。朝も早い番組なのに、夜も遅い彼らがなぜ見られるのか。最初はいぶかしく思ったが、あとで飲み込めた。たぶん、彼らは早朝まで起きているのだ。家へ帰ってから寝るまでのあいだに、「コール」を見てくれているのである。
 街では、年配の方からも、時おり声をかけられる。彼らの場合は、早起きで「コール」を選んでくれているのだろう。 どうやら、自分は早起き族と夜更かし族の接点にいるらしい。そう見極めもつけられた。
 先日、研究会の仲間と街を歩いていたら、また、風俗店の呼び込み係から声をかけられた。私と同行していた研究者たちは、「コール」を見ていない。そのため、私自身が同店のなじみ客であるかのように受け止められた。困ったものである。
 「コール」を見てくれているのは、真にうれしい。私がひとりで歩いている時なら、声をかけてくれるのもありがたく思う。だが、知人と一緒にいる時は、控えてもらえればと、願っている。カミさんと歩いている時に声がかかったらどうしよう。今は、そのことをおびえているしだいである。



コメンテーター comenter中川謙

2010年8月9日(月)

阪「神」に祈りを

 この番組のコメンテーター・井上章一さんはエッチな話のほか、阪神タイガースにも一家言ある。
 以前、朝日新聞に寄せた一文に、こう書いた。

 「阪神は、神なき時代の神の代替物である」

 阪神という神を信じていれば、カルトなどにはまったりしない。過激な宗教テロにも走らない。しっかりと私たちを正しい方向に導いてくれる、何とありがたい存在であることか。確かこんな趣旨であった、と記憶する。
 なるほど阪「神」の中には、「神」が陣取っている。ところが、この神の正体がなかなかつかみ切れない。変身した大魔神のように頼もしいときもある。変身前の埴輪像のごとく、ひたすら弱々しげなときもある。差し引き、裏切られたことの方がずっと多いかもしれない。「暗黒時代」と呼ばれる時期が、歴史の中でどれだけ登場することか。
 そのたびに私たちは、おのが信仰心の揺らぎに歯を食いしばって堪えつつ、それでもなお信仰の道をひたすら歩んできた。
 1985年にいたる21年間の「優勝空白期」に月亭八方さんが、ラジオの番組でしみじみと語っている。

「私なあ、生きている間はず〜っと阪神、応援しまっせ。そやかてな、もし生まれ変わったら、一度でいいから、巨人、応援させてもらえませんやろか。一度でいいんですわ」

 巨人常勝の世の中であった。いくら阪「神」を信じても救済の日は来ない。それなら一度くらい悪魔(巨人)に抱かれたって、だれが非難できるというのか。荒野で悪魔の誘惑をはねつけたイエス・キリストの真似は、人には所詮できないのだから。
 阪「神」信仰の揺らぎを、これほど素直に表現した人を、私は八方さんの他に知らない。
 先代・桂春喋さんもきっとまた、同じ思いを共有していたはずだ。
 85年の大優勝のあと、春喋さんはメディアにこんなコメントを残している。

「私、これから四国八十八ヵ所の巡礼に出かけます。優勝を見ずに亡くなったたくさんの方たちに、このことを報告せなあきまへん」

 優勝を見ずに亡くなった方たち=救済を待ち望み、救われなかった殉教者。
 春蝶さんの頭の中にはこのイコール式があったに違いない。自分だけが救済されたという罪責の念は、信仰の揺らぎに苦悩してきた人ほど強いのかもしれない。
 とりあえず「暗黒時代」を抜けたいま、聖地・甲子園はあのアルプス(席)の峰も神々しく輝いて見える。大優勝からはや4半世紀。このところちょくちょく優勝するせいか、受難の記憶や、まして殉教者への思いやりなど私たちの心からは薄れがちである。
 25年前の歓喜に接し、故江國滋さんが詠んだ句を、今こそ想起したい。
         
    天高く、エス様、神様、バース様

 この秋、仮にペナントを制したとして、これを超える句をだれが生み出すだろうか(もちろんバースのところを、マートンだブラゼルだと言い換えるだけのせこい手口は通らないよ)。
 長い苦難の時期、作家の小川洋子さんが記した言葉も肝に銘じたい。阪神の健闘を心から願って書いた一文末尾の「祈り」を引用して、この駄文の締めくくりとする。

「勝っても負けても、私たちは選手たちの無事を祈ろう」