手塚「木久扇さんは『木久蔵』時代に、父のパーティや、集まりにいつもいらしていただき、ありがとうございました」木久扇「いえいえ、先生にはねいろいろ良くしていただいてね...。今の姿、ダブル襲名も見ていただきたかった...」手塚「うちの父も参加したいと思っていたんじゃないかと思います。実は木久扇師匠と私の父がどういう縁があったのか私は全然知らなくて、なぜ漫画家の集まりに落語さんが、そしてなぜ毎年ラーメンが送られてくるのか、その辺りのお話しをお聞かせ願いたいのですが、まず手塚治虫との出会いから...」木久扇「僕は『新宝島』頃から先生の作品は存じ上げているんです。中学生の頃でしたか、『漫画少年』にも投稿したことがあるんです。掲載はされませんでしたが。先生とお話しするようになったのは、『ビックコミック』という本が小学館から創刊されまして、それに殿山泰司さんが『日本女地図』という随筆を書いていました。ところがお体の具合で休載になりました。その時に僕が編集部に“あのくらいの文章なら僕が書けるんだけど、ノーギャラで書かしてくれないか”という手紙を送りました。そしたら“書いてみな”ということで書きましたところ、それが連載になり、パーティーに出席することになりました。そしたら手塚先生がニコニコしながら立っていらして、“ああ、木久蔵さん、木久蔵さん。こっちですよ”って呼んでくれたんです。その混雑したパーティー会場で3回もお会いしたんですよ、グルグル回っているうちに。で僕、話すことがないんで、“家を建ててて、やっと建つんです、子供が二人いまして喜んでくれると思うんですが、若いお父さんは大変なですよ”“ああそうなんですか、ハハッハッハ”なんて笑っていらっしゃって...。それで家が建って部屋になれない頃、朝10時頃ピンポ〜ンって鳴ったんですよ。“は〜い”って開けたら手塚先生が立ってらっしゃって、“やあやあ木久蔵さん”“先生どうなさったんですか?”“いいお家で来ましたねぇ〜。ハイこれ”って差し出すんですよ。なんだろうと思って開けてみるとアトムが座布団に座って一席やってんのと、レオが一席やってんのと2枚もあるんですよ。“お祝いお祝い。お子さん二人なんでしょう”“そうなんです”“まぁ〜頑張ってくださいよ。いいな新しい家はなぁ。ボクね、とっても忙しいんで失礼します”て行っちゃったんですよ。ボクは起きたばっかりでボーッとしてて、半分夢かなって...」手塚「渡すだけ渡して(笑)」
木久扇「それから私が『錦絵展』というのね、新宿でやってたんですよ。最終日で山田隆夫君が来てくれてて打ち上げの日だったんですけど、4〜5人しかいなかったんです。そこへ手塚先生が入ってらっしゃったんです。“やあやあ木久蔵さん。ここでやってたの”丁寧に絵見てくださって、“あれ、打ち上げですか。寂しいですよね、僕いてあげましょうか?”“ええお願いします”」手塚「(笑)」木久扇「山田隆夫と僕と先生、2〜3人向こうの係の人と話すこと何もないんですよ。そしてたら山田隆夫がね、バカでね、“先生、絵描いてください”言ったんです“ああいいですよ”って、それが今山田隆夫のとこの家宝になってますけどね。結構1時間以上いてくださって、“先生こんなお時間あるんですか?”“いや僕ね、裏から出てきちゃってね、編集者の人待ってるかなぁ〜”っておっしゃってました」手塚「確実に逃げてましたね(笑)」
手塚「手ぬぐいの鞍馬天狗が手塚治虫の絵だとか?」木久扇「僕が本を出したんです、それで40人ぐらいの漫画の先生に鞍馬天狗を描いていただいた中に手塚先生の絵があって、それで“手ぬぐいに使ってよろしいですか?”“いいですよ”って言っていただいて、それが僕の挨拶する時のとても大事な道具になっちゃったんですよね」手塚「父はもういませんが、木久扇さんのところに手塚の魂がある感じがしますね」
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