EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 久米信行
4月〜
5月
古田貴之
5月 中溪宏一
5月〜
6月
中村真菜美
6月 鈴木幸一
7月 GOMA
7月〜
8月
馬場直子
9月〜
10月
北澤 肯
10月〜
11月
川端由美
11月 システム7
11月 福岡 司
12月 小西雅子
12月 ハセベケン
12月 2007年を
振り返って
1月 林家木久扇
1月 イルカ
2月 松尾直樹
2月 上岡 裕
3月 箕輪弥生
3月 冨田秀実
3月〜
4月
中島 悠
1月5日ゲスト:林家木久扇さん

林家木久扇1 手塚「明けましておめでとうございます」木久扇「明けましておめでとうございます。『木久扇』に名前が変わりまして、お正月初めて頂いたお仕事で、嬉しいです」手塚「木久扇師匠とは私が小さい時からお会いしていますね。父の手塚治虫と親しくしていただいて...」木久扇「ご恩返し出来ないうちに、先生、亡くなられて本当に残念です」手塚「今日は父の話しも沢山お伺い出来ると思っています。宜しくお願い致します。

 木久扇さんは昨年の9月に『木久蔵』さんから『木久扇」さんに、息子さんの『きくお』さんが『2代目木久蔵』を襲名されました。この『木久扇』になられた経緯を教えてください」木久扇「うちの倅が玉川大学の演劇専攻だったんですよ。役者か演出家になるのかなと思ったらある日“落語家になりたい”って言うんで“なんで?”と聞いたら“落語家は前座さんでも8分とか15分とか一人で喋るから主役。芝居は総合芸術で台詞1行もらうのが大変。落語家は素晴らしい職業だからなりたい”と言うから“じゃあ、なったら”と言って入門させたんですけど、すぐ辞めると思っていたんです。そしたら13年頑張りまして今回の真打ち披露ということに結びついたんです。古典落語は100ぐらい勉強して、コツコツ自分で小さい会をやって結構苦労もしてるんですよ。で、真打ちになるって声がかかったんで“どうすんの?”って言ったら、“僕は頑張っているけど、僕クラスの落語家は300人も400人もいる。その中で突出するには有名になるしかないけど、僕は有名になれるかな”って言うから“ああ、有名にしてあげようか”“どういう風にすんの?”“僕が名前あげるから『林家木久蔵』になっちゃえばいいじゃない”“いやそんなことは出来ないよ”って言って...。一週間ぐらい考えてね“やっぱりお父さんがいいんなら、なるよ”って。それで僕は元々僕なんで名前変えたってヘッチャラだと思ってました。ただ落語会のひとつの活性化を考えて、簡単に言うと親バカなんですけど、ちょっと明るい事件にしてやろうと思って、世間も巻き込もうと思って、私の名前を公募にしましていっぱい頂きました。だけどいい名前がなかった。『笑点』を通じて募集したから面白くしようと『林家木久蔵A』とかね、『林家木久蔵B面』『林家加山雄三』などね...」手塚「楽しいですね(笑)」木久扇「面白い名前つけちゃうと、その時はいいんだけどずっとやってるとシラケてくるんですね。だから普通の名前で面白い方がいいんですよ。そしたら『木久扇』って言うのが2通ありまして...」手塚「なるほどね、元々は親心と言うか...」木久扇「そうです(笑)」


林家木久扇2 手塚「木久扇さんは落語家になられる前は漫画家を目指していて、現在もマンガや様々なイラストを書いていらっしゃいます。日本漫画家協会の正会員も務めいらっしゃいます。そんなご縁もあって、うちの父とも昔から親しくしていただいていますが、そもそもマンがとの出会いはいつ頃だったのですか?」木久扇「はるか昔になるんですけど、小学校1年の頃ですね。私はまだ日本橋に住んでおりまして、久松小学校というところに入学したんです。その時の教室は後にも大きな黒板がありまして、上級生が“入学おめでとう”って白墨でいっぱいマンガが描いてあったんです。“いや〜うまいなぁ〜。6年生であんなにうまく描けるんだ”と思ったのがひとつと、私の家が小学校の真ん前で雑貨問屋だったんです。ちょっと大通りに出ると明治座って今もある芝居小屋がありましてね、そこに大きい絵看板がかかっていたんですよ。そいでね感心しちゃって、うちは商売屋で筆記道具が沢山ありますからすぐそれをわら半紙に書いて、おばあちゃん子でしたらおばあちゃんに見せたんです。そしたら“うまいねぇ〜”って言ってお菓子をくれたんです。これって原稿料ですよね(笑)こういうことするとなんか貰えるってことを覚えたんですよ。それからみんなで自分の好きなキャラクター写して遊んでたんですよ。そういうことが延長して、今の私の不思議な行動になってるんだと思うんです」

 手塚「それで19歳の時に漫画家の清水崑さんの所へ入門されて...」木久扇「伝を頼って先生のところへ行きました。鎌倉にお住まいで、僕が入った時は『かっぱ天国』で一番売れている時で、朝日新聞の嘱託でいらっしゃったから帰ってこないんですね。だから家族と僕で、僕は掃除係、子供さんの学校の送り迎え、猫のうんちの砂を由比ケ浜に捨てに行って代わりにきれいな砂を貰ってくるとかをやってて、こういうのが漫画家の研究生なのかなと、とても悩みました」手塚「その頃も一所懸命マンガは描いていらっしゃったんですか?」木久扇「描いてたんですけどね、あの頃は大人漫画、子供漫画という分け方があって、私は大人の方を目指したんで8コママンガとか。小さい時に時代劇映画を沢山見せてもらって、『新撰組』とか『旗本退屈男』『金さん』というのを漫画にしようって言うんで、『珍撰組始末記』なんていうのを描いてました。描きながらね、物真似も結構やるんですよ。そしたら先生が後に立っていらっしゃって“お前変わってるな、漫画って言うのは面白い絵を描かなくちゃいけないんだけど、自分まで面白くなっちゃうやつはないだろう。お前のやってるの一人芸と言って寄席芸としたら面白いけども基礎というのが大事でね、もしやるとしたら落語というのがある。噺家という職業なんだけどね、やってみるか。これからテレビの時代になるから漫画が描けて、一人芸が出来たら売れるぞ”って言われたんです。“ちょっとやってみるか”『ちょっと』と言われたんで僕が“いいですね”先生は大変行動家ですぐに手紙書いて、“明日は家の掃除はいいから、三木助さんのところ行ってこい”って。で行ったのが昭和35年の8月15日、終戦記念日ですか。それがきっかけで落語家になることになっちゃった」手塚「なるほどね(笑)清水先生の一言というか、感と言うか...」木久扇「その前からね、編集者が来ると僕が阪妻とか、右太衛門とか、浴衣着てチャンバラの物真似やってるとウケるもんですから、飲む席に連れて行ってもらったんですよ、太鼓持ちみたいな役でね」


1月12日 ゲスト:林家木久扇さん

林家木久扇3  手塚「木久扇さんは『木久蔵』時代に、父のパーティや、集まりにいつもいらしていただき、ありがとうございました」木久扇「いえいえ、先生にはねいろいろ良くしていただいてね...。今の姿、ダブル襲名も見ていただきたかった...」手塚「うちの父も参加したいと思っていたんじゃないかと思います。実は木久扇師匠と私の父がどういう縁があったのか私は全然知らなくて、なぜ漫画家の集まりに落語さんが、そしてなぜ毎年ラーメンが送られてくるのか、その辺りのお話しをお聞かせ願いたいのですが、まず手塚治虫との出会いから...」木久扇「僕は『新宝島』頃から先生の作品は存じ上げているんです。中学生の頃でしたか、『漫画少年』にも投稿したことがあるんです。掲載はされませんでしたが。先生とお話しするようになったのは、『ビックコミック』という本が小学館から創刊されまして、それに殿山泰司さんが『日本女地図』という随筆を書いていました。ところがお体の具合で休載になりました。その時に僕が編集部に“あのくらいの文章なら僕が書けるんだけど、ノーギャラで書かしてくれないか”という手紙を送りました。そしたら“書いてみな”ということで書きましたところ、それが連載になり、パーティーに出席することになりました。そしたら手塚先生がニコニコしながら立っていらして、“ああ、木久蔵さん、木久蔵さん。こっちですよ”って呼んでくれたんです。その混雑したパーティー会場で3回もお会いしたんですよ、グルグル回っているうちに。で僕、話すことがないんで、“家を建ててて、やっと建つんです、子供が二人いまして喜んでくれると思うんですが、若いお父さんは大変なですよ”“ああそうなんですか、ハハッハッハ”なんて笑っていらっしゃって...。それで家が建って部屋になれない頃、朝10時頃ピンポ〜ンって鳴ったんですよ。“は〜い”って開けたら手塚先生が立ってらっしゃって、“やあやあ木久蔵さん”“先生どうなさったんですか?”“いいお家で来ましたねぇ〜。ハイこれ”って差し出すんですよ。なんだろうと思って開けてみるとアトムが座布団に座って一席やってんのと、レオが一席やってんのと2枚もあるんですよ。“お祝いお祝い。お子さん二人なんでしょう”“そうなんです”“まぁ〜頑張ってくださいよ。いいな新しい家はなぁ。ボクね、とっても忙しいんで失礼します”て行っちゃったんですよ。ボクは起きたばっかりでボーッとしてて、半分夢かなって...」手塚「渡すだけ渡して(笑)」

 木久扇「それから私が『錦絵展』というのね、新宿でやってたんですよ。最終日で山田隆夫君が来てくれてて打ち上げの日だったんですけど、4〜5人しかいなかったんです。そこへ手塚先生が入ってらっしゃったんです。“やあやあ木久蔵さん。ここでやってたの”丁寧に絵見てくださって、“あれ、打ち上げですか。寂しいですよね、僕いてあげましょうか?”“ええお願いします”」手塚「(笑)」木久扇「山田隆夫と僕と先生、2〜3人向こうの係の人と話すこと何もないんですよ。そしてたら山田隆夫がね、バカでね、“先生、絵描いてください”言ったんです“ああいいですよ”って、それが今山田隆夫のとこの家宝になってますけどね。結構1時間以上いてくださって、“先生こんなお時間あるんですか?”“いや僕ね、裏から出てきちゃってね、編集者の人待ってるかなぁ〜”っておっしゃってました」手塚「確実に逃げてましたね(笑)」

 手塚「手ぬぐいの鞍馬天狗が手塚治虫の絵だとか?」木久扇「僕が本を出したんです、それで40人ぐらいの漫画の先生に鞍馬天狗を描いていただいた中に手塚先生の絵があって、それで“手ぬぐいに使ってよろしいですか?”“いいですよ”って言っていただいて、それが僕の挨拶する時のとても大事な道具になっちゃったんですよね」手塚「父はもういませんが、木久扇さんのところに手塚の魂がある感じがしますね」


林家木久扇4

 手塚「木久扇さんも地球環境についてのご活動されていらっしゃるそうですが...」木久扇「地球環境という大きな環の中の一部分なんですけどね、『クジラの食文化を守る会』というのやってましてね。捕鯨再開というのを心から思って、日本の水産の人たちを応援したいってみんなで集まってるんですけど。クジラはいっぱい種類があって、それが増えすぎちゃってるんです。それがどういうことかと言うと、クジラ全体の種類が食べる魚の量が、全地球人が食べてる量の7倍になっているんです。ですから餌がなくなってきちゃって、微生物を食べてたクジラが大きい魚も食べるようになったんです。それを人工的にやってるんですよね、捕鯨禁止ということで。今のクジラの量の3%を獲ってもクジラは絶滅しないんです。なんでそうなったかと言うと白人社会が日本人にオレンジとか牛肉を食べてもらいたいんで取りあげないとかってくれないだろうと思ったのが、クジラなんですね。それに反対して、世界中に説いて廻ってるんです。例えばミンククジラ一頭の肉は牛20頭分とれるんですよ。しかも世話をしてとれる20頭分の肉ですよ。クジラは自分で大きくなってくれて身体を提供してくれる。こんな人間にとっての恵はないですよ。昔、欧米ではロウソクの代わりと言っちゃなんだけど、クジラの脂だけを使って、他は捨てていたんです。ところが日本人は全部を利用して、例えば上下のピンと張ってる骨とか、歯ブラシとか、印画紙、現像液、薬など70種類ぐらい利用しています。それで僕は一所懸命やってるんですよ」

 手塚「今後のご予定は?」木久扇「ダブル襲名興行がまだ日本全国駆け巡っておりまして、是非いらしていただきたいのと、ことは『木久蔵ラーメン』の箱に根付けをつけたんです。それを絵本にして、キャラクター化しようとやっています」手塚「是非アニメとかね、ラーメンと、アニメを掛けて世界を回るというのも素晴らしいかもしれませんね(笑)」


2007年を振り返って イルカさん

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